第15話「泥酔②」



 レジデンス札幌東、302号室。

 俺は自分の家の前に立つマンションの一室にやってきていた。


「よし……ひとまずはこれで、いいかな」


 泥酔してしまいすっかり体力尽きた初瀬をベッドの上に寝かせると、彼女は気持ちよさそうな顔で寝息を立てていた。


「っすぅ……ぅ」


 ほんと、俺のことを何も考えていない。


 この10年間、会わなかった間に男だったことを忘れてしまったのだろうか。

 思わず、そう聞いてしまいそうになる。


 泥酔するのも無防備だが。

 こうして俺みたいな男を平気で部屋に通すのはもっと無防備で、命知らず。


 もしも俺が性に飢えた獣みたいな男だったら。


 巷で言う、ひょろひょろで、黒髪マッシュで、黒マスクにピアスなんかもしちゃってる男だったらどうするんだろうか。


 しかし、俺が今何を呟こうと目の前の同級生さんはその瞳を開けようとはしない。


「……ほんと、初瀬は」


 ただ、彼女の警戒心ゼロぶりは今に始まったことではない。

 こういうのは高校生の頃も確かにあったと思う。


 もちろん、あの高校の図書室だけでの話だ。


 彼女の本好きはドが付くほど。

 好きな作家の新作小説が発売された翌日に図書室に行くと、彼女は決まってパソコンの前に座って寝ていた。


 あの時も、今みたいな風に俺の前で寝息を立てていた。


 当時は彼女の寝顔を見ても何かしようだなんて考えもしなかったし、逆に寝かしてあげようって考えもしなかった。


 普通に起こして、その後のちょっぴり不機嫌で、でも小説の話をしたがる微妙な表情を今でもよく覚えている。


 今考えると本当に馬鹿だった。

 そんな男なんか、告白しても願い下げだろうって考えたら絶対に分かるって言うのに。


 自分勝手が過ぎるよな、俺は。


 ただ、あの頃と今は違う。

 俺にも、多少なり考えることが出来る。


 不意に伸びる右手、人差し指が彼女の髪をなでる寸前でそれを止める。


「……いや」


 首を振って、すぐに立ち上がる。


 初瀬はお疲れだ。

 仕事での不安とか、日常での不安とかそういう諸々にやられて泥酔したんだ。

 

 いくら大人になったと言えど、そうやって息抜きするのは何も悪いことでもない。

 ましては普通のこと。


「……やめとこう」

 

 だからさっき自分が何をしようとしたのか、考えないようにして寝室を出る。


 扉をゆっくりと閉めて、灯りを点ける。


 ちょうどさっき、部屋に入ってきた時に落としたスマホを探して拾い上げた。


 画面を点けると表示は22時過ぎ。

 別に遅すぎるっていう時間でもないが、成人女性の部屋に長居するわけにもいかない。

 まして、その本人は眠りこけている。


 一口も付けてない今朝かった水でも部屋に置いて退散するとしよう。


 そう決めて、スマホをポケットにしまって立ち上がる。


 しかし、その瞬間にふと棚に置かれていたものが目に入った。


「っ……これ」


 本棚。

 何の変哲のない本棚。


 端から端まで、初瀬らしく作者ごとに綺麗にぎっしりと隙間なく並べられている。


 俺の知っている小説から、知らない小説まで。

 いくらかは洋書も混じっていて、ざっと数百冊はあるんじゃないかってほど。


 でも、目を惹いたのはそれじゃなかった。

 本当に端っこ、隅にあった一つの小説とその横に置かれた一つのボールペン。


「……小木曽かずさの」


 ダメだって分かっていても、思わず手が伸びる。

 手に取り、じっと見つめる。


 別に、その小説の筆者が彼女が一番お気に入りだったから目を轢いたんじゃない。

 俺も同じ小説を読んだことがある。


 家にこの筆者の小説はいっぱいあるし、よく見る光景なくらい。


 だが、この小説は、俺が初瀬から借りていたものだったから。

 当時、そこまで本に興味がなかった俺に対して、図書委員なんだから本くらい読みなよって言って渡してきたのがこれだった。


 小木曽かずさ、近代恋愛を描く小説家。

 女性なのか、男性なのかは不明だが、この人が書く恋愛はどれもドロドロとしていて、三角関係ものばかり。


 ただ、どれも胸糞が悪いわけではなく。

 現実問題、こうなってしまうんじゃないかって感覚を抱かせる。


 誰一人死ぬわけでもなく、ただの恋心を描く作品なのに、どうしても胸を引き裂くような思いにさせられる。


 そんな不思議な魔力が込められている。

 決して人気っていうわけでもないが、コアな読者がいて、その一人が初瀬でもある。


 初めてしっかり読んだ小説がそんな話だったからこそ、印象に残っている。

 だから、俺が借りていた時につけてしまった折れ目や汚れがはっきりと残っているのが分かった。


 そして、そのお詫びにあげたのが横のボールペンだ。

 特段特別だとかそういったものではなく、文房具で買ったちょっと高めの4色ボール。

 

 ほんと、ついさっきまで忘れていた。

 

「どうして……」


 もう10年も前だ。

 小説はともかく、ボールペンは使い切って捨ててもおかしくはない。


 なのに、それはそこに置いてあった。

 しっかりとした台の上に、小奇麗に。

 埃一つもついていなかった。


「小向井、くん……わ、私」


「うわ⁉」


 しかし、その瞬間。

 後ろから声が掛かり、思わず飛び跳ねて後ろを向く。


 すると、そこにはとっくに寝たはずの初瀬が立っていた。


「は、初瀬か……びっくりした」


「……わ、わたし……わ」


 心臓が爆発するかと思ったが、俺は手に持ってる小説の存在に気づいてすぐに元の台座に戻す。


「あ、あの、初瀬。すまん……ちょっと目に入って触っちゃって」


「……」


「これ、ずっと持ってたんだな。少し驚いたよ。まぁ嬉しいけど、使ってくれていいのにな……ははっ」


「……」


 立ち尽くしたまま、無言で俺を見つめる。

 

「お、おい、初瀬?」


「……ぅ」


 じっと見つめていると彼女はまだ瞼が半分下がっていた。

 寝起きで、足元がふらついている。


 ただ、次の瞬間。

 彼女はおぼつかない足取りで急に俺の方へ歩いてくる。


 その間がまるでホラー映画みたいだったが、目の前にいるのは同級生の姿で息を呑んだ。


 ゴキュッと音が鳴り、逃げるように背中の方へと足を動かす。


「は、初瀬、どうしたんだ! お、おい、ちょっと、待ってそれ以上は――っ」


「っん……ぃ」


 脚がちょうどソファーに引っかかったところで、それ以上後ろに下がれなくなり彼女は俺に追いついた。


 そして、まるで抱きしめるかのように覆いかぶさる。

 二人分の重みに耐えきれず、体が傾き、ソファーに沈み込んだ。


「あぁっ⁉」


 再び目を開けると目の前には初瀬の顔があった。


「……ってて。お、おい初瀬」


 声を掛けても彼女は何も言わない。

 半開きのはずの瞳はいつのまにか閉じ切っていた。


「……すぅ……すぅ」


 そして、聞こえてきたのはリズミカルな寝息だけ。


 気づいた時には彼女は再び眠っていて、一体何がしたかったのかはよく分からなかった。











 その後、自分の家に戻り、風呂に入り、寝室のベッドの中に潜る。


 そこでふと考える。


「……わたし……ぅ、ぃ?」






<あとがき>

 明日は更新できないです!

 すみません!


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