校舎の靴音【第二部】

翠川

第一章 夏の影

第一話 きしむ教室


 あの夏、蝉の声が響く校舎の中で、

 私たちはひとりの子の靴音を、ゆっくりと見失っていった。


 リエさんのことが起きるよりも前――

 教室のどこかで、何かが少しずつずれはじめ、

 私たちは、まだその異変に気づかないままだった。


 昼休み。

 窓の外では入道雲が膨らみ、白い光が机の上を照らしていた。

 誰かが笑うたび、笑い声の端がわずかにとがって聞こえた。


 凜子がペンを回しながら、菜月の髪に目をやった。

「それ、だいぶ明るくなったね。校則、平気?」

 菜月は笑って「大丈夫だよ」と答えたけれど、

 その笑い方には、どこか落ち着かない響きがあった。


 菜月の髪は、光を受けると金色がかって見えた。

 窓際の席に座るたび、その明るさが目を引いた。

 けれど、誰もそれ以上は何も言わなかった。

 わずかな沈黙だけが、教室の空気に混じって残った。


 ――ふと春の終わりを思い出した。


 あの頃は、真帆がクラスで浮いていた。

 菜月は凜子や由加と同じく輪の中心にいた。


 菜月が笑いながら真帆に言った。

「真帆のそういうとこ、ウザいよ」

 由加も続く。

「空気読めばいいのに」


 何気ない一言だけで、輪の力関係は十分に見えていた。

 周りのみんなも何も言わず、自然と同調していた。


 あのとき、私たちはそれを“いじめ”とは呼ばなかった。

 ただ、場に従った。


 ――今、教室の気温が少し下がっている。

 気づいた人は、他にもいたのだろう。

 それでも、誰も何も言わなかった。


 ――その沈黙こそが、いちばん冷たい音を立てていたのかもしれない。


 私は、ただ見ていた。

 菜月が誰かを笑うときも、笑われるようになってからも、

 いつも輪の外にいた。


 止めることも、肯定することもできなかった。

 ただ、「自分じゃなくてよかった」と思った。

 その瞬間の小さな痛みを、今も覚えている。


 ――あれが最初の音だったのかもしれない。

 校舎のどこかで、何かがきしみはじめた音。

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