第32話 金色の瞳
翌朝、雪解けの水が石畳の隙間を細く流れていて、いつもより空気は少しだけ柔らかかった。
けれど聖域の空気は、いつも通り重く冷たい。
昨日、胸に宿った“灯”だけが、私の世界をわずかに明るくしていた。
侍女たちは淡々と身支度を進める。
誰も私に笑いかけないし、優しい言葉もない。
けれど――敵意は、薄れているように感じた。
(……心次第でこんなにも世界の見え方は変わるんだ)
私は期待を抱きながら、朝の祈りのために回廊へ向かった。
聖堂の近くの柱の影で、彼は準備が整うのを待っていた。
いつもの冷たい気配。
けれど、昨日よりはほんの少しだけ……鋭さが和らいでいる気がした。
祈りの時間までまだ少しある。
勇気を出して、私は口を開いた。
「ハル」
ほんの一言。
でも、私にとっては大きな一歩。
彼はわずかに瞬きし、何を言われたのか確かめるように私を見た。
反応したのが意外だったのか、周囲の侍女たちが目を丸くする。
「誰が呼んでいいと言った?」
冷たい声。
息が詰まりそうな重さが胸にのしかかる。
けれど、私は昨日と違う――この拒絶の態度に萎縮してばかりじゃ、何も変わらない。
私は何も感じていない馬鹿なフリをした。
「だって、愛称を決めると少し親近感が湧くじゃない?」
彼はわずかに眉をひそめた。
「必要ないだろう。俺たちは神子だ。互いに関わる必要は――」
「必要あるわ。だって……その…誰かと繋がると心が温かくなるもの」
その瞬間、彼の表情が固まった。
まるで、誰かとの“繋がり”が彼にとっては禁忌であるかのように。
「関わる必要なんてない」
「あるわ!だって私が寂しいんだもの」
「……俺の知ったことか」
「いいじゃない!どうせ暇でしょ?話し相手にくらいなってよ」
彼は言葉を失ったように、静かに立ち尽くす。
吹き抜ける冷たい風が、二人のあいだをすり抜けていった。
「……お前は甘い。そんな甘さは、ここでは命取りになるぞ」
「それでも、ここで、このまま一人で死んでいくよりましだわ」
私の言葉にハルは一瞬、言葉を失う。
そして、少し間を置いて、静かに口を開いた。
「何かを変えようなんて、思わないほうがいい」
「どうして?」
「死ぬからだ」
静かで、真っ直ぐで、残酷な警告。
でも──それは、昨日までの彼なら言わなかった言葉だ。
「……私を、死なせたくないと思ったの?」
私の問いに彼は、視線をそらした。
「……変なやつ」
それは拒絶でも許容でもない。
でも、昨日まで聞いたどの言葉よりも“動いた”答えだった。
私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
その日から、私はハルに挨拶をするようになった。
「おはよう、ハル」
返事はいつも短い。
「……ああ」
本当に必要最低限。
でも、その一言すら以前の彼からすれば大きな進歩だった。
むしろ、返事が返ってきたことが奇跡のようで、私はその度に胸の奥が少し温かくなる。
侍女たちはひそひそと囁き合っていた。
「セラ様が、ハルシオン様に……」
「危険では? あの方は……」
けれど私は気にしなかった。
その日の夜も祈りの儀式が終わる頃、私はまたハルの元へ歩み寄った。
「今日もお疲れさま、ハル」
その瞬間、彼の動きが、一瞬だけ止まる。
「……なぜ、そんなことを言う」
「だって、あなたも疲れるでしょう?」
ハルは息を飲んだようだった。
それが驚きなのか、困惑なのか、私にはわからない。
「疲れる、という感情はとうに捨てた」
「捨てられるわけないわ。ほら、目が赤いもの」
「……!」
ハルは慌てたように目をそらした。
今まで、こんな反応を見せたことはなかった。
「見なくていい」
「綺麗な瞳が台無しよ」
沈黙。
でも、そこには拒絶の影はなかった。
ただ、戸惑いと、どう扱えばいいのかわからない子供のような気配だけがあった。
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