第21話 旅立ち

 夕陽が山の端を染め始める頃、馬車は関所へと差しかかった。

 石造りの塔が並び、旗の影が長く伸びている。

 帝国の紋章——黒鷲の旗が、風に翻っていた。


「ここが最後の検問所だ。……出国審査は今までより厳しいはずだ。気を抜くな」

 

 関所の前には、武装した兵士たちが列をなしていた。

 旅人の顔と書類をひとりずつ照合している。


 馬車が止まり、監査官らしき男が近づいてきた。

 鼻の下に薄い髭をたくわえ、冷たい目をしている。


「身分証と目的を」

 

 伯爵が淡々と書簡と身分証を差し出した。

「エルダールに書状を届ける使者だ。ベネット伯爵領より出立、行き先はエルダール王国の王都」


 男は書類を受け取り、視線を車内へ向けた。

 まずノアを、そして次に私ををじっと観察する。


「……その少年」

 不意に声が鋭くなった。

「少し顔を上げろ」


 胸が強く跳ねた。

 ノアの手が、さりげなく隣で拳を握る。


 監査官はランタンの光を近づけ、金髪を照らした。

「金髪の少年……報告にあった“皇子”の特徴に似ている」


 空気が一瞬で張りつめた。

 が、伯爵が軽く笑い、肩をすくめる。

 

「おいおい、冗談はやめてくれ。お探しの皇子殿下はまだ七歳だったろう?お前さん、帝都の公式記録も知らんのか?」


 監査官が眉をひそめる。ノアがすかさず言葉を重ねた。


「加えるのであれば、皇子の瞳が歴代皇帝と同じ深紅であることは帝国臣民であれば周知の事実。更に皇子の齢をも取り違えるとは不敬にあたりますよ」

 

 声は落ち着いていたが、刃のような鋭さを帯びている。


 監査官の頬がわずかにひきつった。

 周囲の兵が目配せを交わし、やがて男は手を挙げた。

「……通れ。ただし、次の関所で再確認があるかもしれん」


「ええ、もちろん」

 伯爵はにこやかに帽子を取って礼をした。

 馬車が再び動き出す。

 車輪が砂利を踏み、音が遠ざかっていく。

 


 関所を抜けた途端、大きく息を吐いた。

 握りしめていた指先が冷たくなっている。


「危なかった……」

 その呟きに、ノアが穏やかに笑う。

「心配ありません。あなたの瞳が“光の緑”だったおかげです」


「光の緑……?」

「ええ。ペリドットの石言葉は希望ですから」


 その言葉に胸が熱くなる。

 冷たい風が吹くのに、頬だけが妙に熱かった。


「すぐにエルダールとの国境です」

 ウィリアムが御者台から声をかける。


 私は窓の外を見た。

 遠くに、青白い塔が見える。

 あれが、光冠の神を戴く国——エルダール王国。


 夜風が吹き抜ける。

 帝国の空気と混じり合うその冷たさは、

 まるで過去と未来の境を越えるようだった。


 川面を渡る風は冷たく、金属のような匂いを含んでいる。橋の中央には、白い鎧をまとった神官兵たちが立っていた。帝国の関所よりもずっと静かで、緊張感の質が違う。


「止まれ。身分と信仰を示せ」

 透き通るような声が響く。男の胸甲には、金で象られた“光冠”の紋章が刻まれていた。光冠——ルクシオン神を象徴する印。


 伯爵が馬車を降り、恭しく頭を下げる。

「ベネット領よりの使節でございます。交易の件で国王陛下に謁見の許可を賜りたく参りました」


 神官兵は静かに頷き、書簡の封印を確かめると馬車の中を覗く。

「危険物なし。異教の象徴なし。——通過を許可する」


 その瞬間、冷たい風が吹き抜けた。

 ——ついに国境を超えたのだ。


 けれど胸の奥がざわついた。自由になったはずなのに、なぜか少しだけ寂しい。

 振り返れば、向こうの方に故国の山影がぼんやりと浮かんでいる。あの向こうに、母の眠る地がある。


 ノアも同じように来た道を振り返っていた。きっと彼も同じ想いなのだろう。

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