第4話 終末散歩
「どう? どう、驚いた?」
うきうき、わくわく。
今の彼女に似合う擬音を探すとするならば、おそらく、その類。
脳内で彼女の頭上に擬音を並べた自分は、続いて己の胸元に視線を落とす。
薄い己の胸が、黒の布地に包まれている。左右の膨らみはふわりと柔らかい。中に何枚か布が重ねられているらしい。
背中側に手を回すと、そこは伸縮性のある素材になっている。どうやら着脱がしやすく出来ているようだ。
そして、肩にはストラップ。女性用の下着――そう形容するのが相応しい。
「……」
期待の眼差しでこちらを見つめる少女。数秒の沈黙の末「驚いた」と告げてみるが、想像と異なり彼女の頬は膨れ上がる。
「そんなバレっバレの嘘を吐かないの!」
――彼女の感情の揺れ方は、よくわからない。
「だって制服の下に何も着ていないんだもの、用意しなきゃと思うじゃない。下もちゃんとお揃いの布地にしたからね」
「そう」
そもそも衣服を着用する必要性も特に見出せずにいた自分にとっては、上下がお揃いであろうとなかろうと、着ようと着なかろうと大した差ではないのだが。やけにご満悦なその顔を見ていれば閉口せざるを得なかった。
制服を着用し直し従業員部屋から出ると、白に近い灰色の空がガラス越しに広がっている。少女は窓のそばまでゆっくりと歩き、ふぅ、と一度息を吐き出すと、自分の方向へと向き直る。
「行きましょ」
「どこへ」
「お散歩よ、お散歩!」
スーパーに閉じこもりきりでは参ってしまうわ。そう言ってカートの中を漁った少女は、適当な鞄に適当な食べ物を詰めて肩に下げた。そしていつかのように自分の手を掴み、ぐいぐいと引っ張っていく。
「結局、どこへ」
「行く場所なんて決めていないわよ。そうね……今日はこっちに歩いてみましょう」
東方向を示しそう告げた少女は、自分の手を離さぬまま意気揚々と歩き出す。自分は、彼女に手を引かれるまま、改めて街の景色を眺めた。
瓦礫。鉄骨。ひしゃげた電柱。陥没した道路。それが、全て。
日本中の全てがこうなっているのだろうか。自然の多い地域はどうなっているのだろうか。
詳細は、わからない。
記憶のない自分には、今自分の目に映されているもの以外、わかりようがない。
スーパーに残されていたラジオ機器を少女は試していたが、どこの周波数に合わせようとも、何も聞こえはしなかった。
そういったインフラ関係は、全て壊滅状態にあるのだろう。
「ねぇ、クロ」
白のワンピースをふわふわと揺らしながら、瓦礫の隙間を縫って歩く少女が、自分に授けられた名を呼ぶ。
「……」
「名前を呼ばれたら返事をするものよ」
「そう」
短い相槌。再び流れた沈黙にくすりと笑った少女は、両手を背後で組み、くるりとこちらへ振り返る。
「はい、クロ」
やがて、自分を試すかのように、もう一度凛々しく名を呼ばれる。自分は一度瞬きをしてから、静かに唇を開く。
「なに」
「ふふふっ」
満足気に笑った少女は正面へと向き直る。ミディアムヘアがふわふわと揺れるさまを背後から眺めつつ、少女のペースに合わせてただ、歩く。
時折道が瓦礫で埋まると――いや、道と呼べる道を歩いている確信は端から無いのだが――彼女に頼まれ、それを近くの陥没地帯に放り投げる作業が始まる。それに歓喜の声を上げる少女は無邪気で――まるで、人間というものを象徴するかのようだった。
「……」
歩き始めて、一時間ほどが経過しただろうか――少女の口数が、不自然に減り始めた。
彼女の背中をじっと見つめる。彼女の中でなにかの異変が起きていることはわかるが、何が起きているのかまでは理解できない。
「どうかした」と問うのは簡単かもしれないが、自分がそれを問う理由も特に思い至らない。故に沈黙を貫いていると、少女の脚が、ついに止まる。
「そろそろ、引き返しましょうか」
振り返った少女はそう告げると、跨いだばかりの瓦礫をもう一度跨ぎ、来た道を戻り始める。数歩分立ち止まったまま見送り再び背後に回った自分は、またその後を追いかけ始める。
直線的に歩いてきたため、このままただ引き返せば元いたスーパーには辿り着けるだろう。
それとも彼女には、この辺りの土地勘があるのだろうか。
スーパーを見つけ出したことから考えれば、もしかすると――そのような思考を働かせていた自分がふと意識を少女に戻すと、彼女との距離が、先程よりも開いていた。
「……」
やはり、何かがおかしい。
先程までの少女は、定期的にこちらを振り返って、自分がついてきているか否かを確かめては満足げに笑っていた。しかし今はどうだろうか。
そもそも一定のテンポで歩いていたはずだというのに、ここまで距離が開いたということは、彼女はこれまでと比べて早足になっているらしい。一時間の疲労でペースが落ちるならばまだしも、早くなるのは不自然に思える。
様々な違和感を抱えながらもそれを口に出すことはせず、ただ脚の回転数を増やして少女と合流する。今度こそ一定の距離感を保って歩くこと数分、少女の脚が再び止まる。
「……ねぇ、クロ」
ワンピースをぎゅっと掴み、少女はちらりとこちらへ振り向いた。髪の隙間から覗く耳が、やけに――赤いような気がする。
「なに」
「今日通った道の中で、見かけたかしら」
「なにを」
主語の不足した問に疑問形で返すと、彼女はぎゅっと唇を紡ぐ。やがて真正面から自分を見つめた少女は、きゅっと目を瞑る。
「だから……つまり……」
目を瞑ったまま、口籠る彼女を自分はただ見ていた。やがて痺れを切らしたように震える吐息を零した少女は、赤く染まった目尻で、ようやく、はっきりと告げた。
「お手洗いよ、お手洗い!」
――一応、理解はあった。
記憶がなくとも言葉が話せることと同じように、一般教養も忘れてはいないらしく。
彼女の言葉は少しオブラートに――オブラートというものも全く使った記憶はないのに、常々不可解だ――包まれていたが、それが何を意味するのかは理解できた。
しかし、同時に辿った自分の記憶の中に、それらしい設備はない。自分が首を横に振ると、少女は落胆した様子で「そう……」と呟く。
「やっぱりスーパーに戻るしかなさそうね」
「適当に済ませればいい」
「無理よそんなの」
「それを気にする者はもう、ここに居ない」
「それとこれとは別問題なの!」
というか、あなたは平気なの? と肩越しにこちらを見た少女に、自分は首を縦に振る。
「排泄中は無防備になる。その機能は初期段階から排除されている」
「……」
少女の足が再び止まったかと思えば、なぜかこちらを凝視し始めた。自分がそれを怪訝に思っていると、少女はずいずいとこちらへ歩み寄ってきて自分の手を絡め取る。
「もしかして……」
――
ぎゅっ、とこちらの手を握り、目を輝かせて問いかける少女。それを聞いてようやく、自分の発言を自覚する。
――それはきっと、自分の脳に刻み込まれた
膀胱の健康に良いのかは置いておいて、少女は意地で一時間の帰路を耐え抜くと手洗いへ直行していった。鞄に詰めた食事を全く取らなかったことを思い出し、人間というものの生きにくさを実感する。
それらをもし道半ばで口に含んでいれば、彼女はおそらく、間に合わなかったのだろう。
彼女のこのこだわりがある限り、長旅は難しい。それを悟った自分は少女の入っていった手洗いに背中を向け、スーパーの中を歩き出した。
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