第14話 ​🔪 道玄坂、日常の修羅場

 1. 渋谷の冷たさ

​ 2040年1月17日、土曜日の午後。渋谷、道玄坂。

​最新鋭の広告ホログラムが空間に浮かび、人々はARグラスを通して情報を選別しながら忙しく行き交っている。そんな日常の喧騒の中、一本の路地の角で、異様な光景が繰り広げられていた。

​ 派遣切りや、銀行強盗の失敗、コンビニ看板の破壊など、あらゆる社会的事件の裏側で、静かに進行していた家庭内の破綻が、今、公然と爆発した。

​ 一組の夫婦が、互いに武器を手にし、激しく争っていた。

​ 夫: 額に汗を滲ませ、手に鈍重なハンマーを振りかざしている。

​ 妻: 息を切らし、細身の体で折り畳み式のノコギリを構えている。

​「テメェが俺の仮想資産を溶かしたせいで、AI裁判で賠償額が膨らんだんだ!」と夫が怒鳴る。

「私のせいだと!?お前が家で酒飲んで、**『どうせ殺さなきゃ捕まらない』**って毎日喚き散らしてるせいだろうが!」と妻が叫び返す。

 2. 殺意のない凶器

​ 二人の争いは、既に何度となく繰り返されてきた暴力の延長線上にあった。彼らもまた、佐渡島首相の法を完璧に理解していた。

​ 殺してはいけない。殺せば、自身と家族の命が消える。

​ しかし、骨を折る、指を切る、大怪我を負わせることは、せいぜい罰金と、短期間の社会的奉仕で済む。

​ 夫はハンマーを振り下ろす。狙いは頭部ではなく、妻の肩や腕の関節だ。

​ ガキン!

​ 妻はノコギリの背中でハンマーの打撃を弾く。ノコギリの刃先は夫の胴体をかすめるが、深く切り込むことはしない。互いに重傷を負わせることに躊躇はないが、一線を越えることだけは極度に恐れていた。

 3. 公衆の無関心

​ 道行く人々は、この凄惨な喧嘩を一瞥するだけで、立ち止まろうとはしなかった。

​ あるビジネスマンは、ARグラス越しに通知をオフにし、急ぎ足で通り過ぎた。

​「またか。どうせ死人なんて出ない。AI警備が来れば終わる」

​ これが2040年の渋谷の日常だった。人々は、自分に降りかからない「非致死性の暴力」には、徹底的に無関心になる訓練を受けていた。

​ 上空では、即座にドローンがホバリングし、高解像度カメラで夫婦の動きを追っている。彼らはハンマーとノコギリが、人命に致命的なダメージを与える可能性を計算しているが、両者がそのラインを超えていないため、**「非致死的拘束兵器」**の発動を見送っている。

​ 佐渡島首相の創設した法は、家庭内の紛争までを公の場で晒し、**「お互いを傷つけ合いながら生きる」**という、究極の絶望的な共存の形を、この社会に強いていた。

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