【第3部:遠距離恋愛と実家の壁】
初デートから2週間後、美咲から連絡が来た。
「また会いたいです」
そのメッセージを見た瞬間、俺の心臓は跳ねた。向こうから会いたいって言ってくれるなんて。
2回目のデートも東京だった。今度は美咲が「おすすめの場所がある」って言って、表参道のカフェに連れて行ってくれた。
オシャレな店だった。俺一人じゃ絶対入らないような。でも美咲と一緒だと、不思議と落ち着けた。
「お仕事、相変わらず忙しいですか?」
美咲が心配そうに聞いてくる。
「まあ、いつも通りって感じです。でも美咲さんに会えると思うと、頑張れますね」
俺は照れくさそうに笑った。こんなセリフ、普段なら絶対言えないのに。
「嬉しいです。私も○○さんに会えるのを楽しみにしてました」
美咲は優しく微笑んだ。
その日は遠距離恋愛の話になった。
「K市から東京まで、どれくらいかかるんですか?」
「電車で2時間半くらいです。乗り換えもあるし、交通費も結構かかっちゃうんですけど」
美咲が申し訳なさそうに言った。
「そうなんですね。でも月に一回くらいは会えますか?」
俺がそう聞くと、美咲は少し考えてから答えた。
「介護があるので、なかなか東京には来られないんです。でも、○○さんがK市に来てくれたら嬉しいです」
「俺が行くんですね」
「ダメですか?」
美咲が少し不安そうな顔をした。
「いや、全然ダメじゃないです。むしろK市、見てみたいです」
俺は慌てて答えた。彼女を不安にさせたくなかった。
「本当ですか?じゃあ、来月来てくれませんか?」
「もちろん」
そう答えながら、俺は少しワクワクしてた。美咲の地元を見られる。彼女が育った場所を知れる。それが嬉しかった。
デートの帰り際、美咲が言った。
「○○さん、私たち、お付き合いしてるってことでいいですよね?」
「え?」
突然のことで、俺は驚いた。
「あ、もしかして、私の勘違いでしたか?」
美咲が不安そうな顔をした。
「いや、勘違いじゃないです。俺も、そのつもりでした」
「良かった。じゃあ、これから彼氏彼女ってことで」
美咲が嬉しそうに笑った。
その瞬間、俺は彼女ができたんだって実感した。30歳にして、ようやく。
---
それから俺たちは遠距離恋愛を始めた。
月に一度、俺がK市に行く。特急電車で3時間半の距離。乗り換えもあって面倒だけど、往復の交通費は2万5千円近くかかった。それでも美咲に会うためなら安いもんだって思ってた。
初めてK市に行った時のことは忘れられない。
駅に降り立つと、空気が違った。都会の排気ガス臭さじゃなくて、なんていうか、土と草の匂い。山が近いからか、風も冷たくて気持ちよかった。
美咲が駅まで迎えに来てくれた。軽自動車だったけど、中は綺麗に掃除されてて、助手席には俺の好きな音楽のCDが用意されてた。
「調べたんです」
美咲がそう言って恥ずかしそうに笑った。こんな気遣いができる女性、今まで会ったことなかった。
「ありがとう。嬉しいです」
俺は素直に喜びを伝えた。
美咲は俺をK市の観光地に連れて行ってくれた。古い神社、展望台、地元で有名なラーメン屋。どこも良かった。特に展望台から見た夜景は綺麗だった。
「東京の夜景とは違うでしょう?」
美咲が隣で言った。
「全然違いますね。星がこんなに見えるなんて」
都会じゃ見られない満天の星空だった。
「ここで育ったんですか?」
「はい。小さい頃から、この景色を見てました」
美咲は懐かしそうに空を見上げた。
「いいところですね」
「でしょう?○○さんにも気に入ってもらえて嬉しいです」
その時、俺は思った。いつかここで暮らすのもいいかもしれないって。
でも実家には連れて行ってもらえなかった。
「ご両親に挨拶したいんですけど」
俺がそう言うと、美咲の表情が少し曇った。
「まだ早いです」
「でも、付き合ってるんだし...」
「きちんとしたお付き合いになってからにしましょう」
美咲は頑なだった。真面目な子なんだなって思った。ちゃんと順序を踏みたいんだろう。
2回目の訪問でも実家はダメだった。
「いつになったら会えるんですか?」
俺が少しだけ不満を漏らすと、美咲は困った顔をした。
「もう少し待ってください」
「どれくらい?」
「まだです」
「美咲、俺のこと信用してないの?」
「そんなことないです」
「じゃあ、なんで?」
「まだなんです」
美咲は同じ答えしか返さなかった。でも表情は穏やかで、声も優しい。怒ってるわけじゃない。ただ、まだその時じゃないって言ってるだけ。
俺は少しモヤモヤしたけど、強く言えなかった。彼女を困らせたくなかった。
3回目の訪問でも同じだった。実家の話をすると、美咲は「まだです」って繰り返す。
でも他は順調だった。美咲は俺のことをすごく大切にしてくれた。毎日メッセージをくれるし、仕事で疲れてる時は励ましてくれる。
「無理しないでくださいね」
「ちゃんと休んでますか?」
「○○さんの体が心配です」
こんなメッセージをもらうたびに、俺は癒された。都会での疲れが吹き飛んだ。
でも東京の友達には、美咲のことをあまり話さなかった。なんとなく、話すと壊れそうな気がした。大切なものを守りたい気持ちっていうのかな。
4回目の訪問で、ようやく美咲が言った。
「来月、実家に来てください」
「本当に?」
「はい。そろそろ、ご両親にも紹介したいです」
俺は嬉しくて、思わず美咲を抱きしめそうになった。でも我慢した。公共の場だったし。
「ありがとう。ちゃんとした格好で行きます」
「普段のままで大丈夫ですよ」
美咲は優しく笑った。
その日の帰り道、新幹線の中で俺は考えてた。実家に挨拶するってことは、結婚も視野に入れてるってことだ。
30歳で初めての彼女。そして、もしかしたら最後の彼女になるかもしれない。
俺は美咲と結婚する未来を想像した。K市で暮らして、リモートワークして、休日は美咲と山を散歩する。そんな生活。
悪くない。むしろ、すごくいい。
東京での生活に疲れてた俺には、魅力的な未来だった。
---
実家への挨拶の日は、緊張した。
スーツを新調して、手土産も用意した。地元の有名な和菓子を1万円分。
美咲の実家は古い日本家屋だった。立派な門があって、手入れの行き届いた庭があって、地方の名家って感じだった。
「緊張してますか?」
美咲が笑いながら聞いてきた。
「めちゃくちゃ緊張してます」
「大丈夫ですよ。お父さんもお母さんも優しい人たちですから」
美咲はそう言って、俺の手を握ってくれた。少しだけ、緊張がほぐれた。
玄関で美咲が「ただいま」って言うと、奥から声が聞こえた。
「お帰り。お客様もどうぞ」
出てきたのは美咲の母親だった。50代くらいで、美咲に似た上品な顔立ち。ニコニコしながら俺を見てる。
「いらっしゃいませ。美咲からお話は伺ってます」
「○○と申します。いつも美咲さんにはお世話になっております」
俺は深々と頭を下げた。
「こちらこそ。娘がお世話になってます。私、地元の保育園で働いてるんですが、みんなから『優しいお母さん』って言われてるんですよ」
母親はニコニコしながら自己紹介した。確かに優しそうな雰囲気だった。
リビングに通されると、父親も出てきた。60代前半くらいで、がっしりした体格。でもニコニコしてて、人当たりがよさそうだった。
「美咲の父です。どうぞよろしく。市役所で働いてるもので、地元のことなら何でも聞いてください」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
握手した時、父親の手がすごく大きくて力強かった。でも笑顔は優しかった。
「お仕事は何を?」
「Web制作の会社で働いてます」
「ほー、すごいですね。今はそういう時代ですもんね」
父親は感心したように頷いた。
夕食もご馳走になった。母親の手料理で、ほとんどは美味しかった。煮物、焼き魚、お味噌汁。どれも丁寧に作られてる感じがした。
家族の会話も和やかだった。父親は仕事の話をしてくれたし、母親は保育園での面白いエピソードを話してくれた。美咲も嬉しそうに笑ってた。
俺も緊張がほぐれてきた。いい家族だな。美咲がこんな温かい家庭で育ったんだって分かって、なんか嬉しくなった。
ただ、食事中に少し変なことがあった。
母親が作った煮物がめちゃくちゃしょっぱかった。塩を間違えたのかってくらい。水を何杯も飲んだ。
「美味しいですか?」
母親がニコニコしながら聞いてくる。
「あ、はい...」
俺は我慢して食べた。
「あら、しょっぱすぎましたね。ごめんなさい、味見を忘れちゃって」
母親は申し訳なさそうに笑った。天然っぽくて、可愛らしい感じだった。
「私、たまに料理で失敗するんです。この前も肉を生焼けにしちゃって、主人に怒られました」
そう言って舌を出す仕草が、年齢の割に可愛かった。
それから、母親が別の煮物を俺の皿に盛ってくれた。でもそれが、俺の苦手な野菜だった。子供の頃から食べられない。
「すみません、これちょっと苦手で...」
俺がそう言うと、母親がニコニコしながら言った。
「これ、食べますよね?」
「あ、いや、申し訳ないんですが...」
「これ、食べますよね?」
同じ笑顔で、同じトーン。美咲と同じだ。あ、親子だから似てるのかって思った。
「でも、本当に苦手なんです」
「これ、食べますよね?」
父親も美咲も、ニコニコしながら俺を見てる。なんか変な空気になった気がしたけど、きっと気のせいだ。
「...いただきます」
結局、俺は無理して食べた。しょっぱくて苦手な味で、吐きそうになったけど、我慢した。
すると急に空気が変わった。みんなの笑顔が明るくなって、会話も弾んだ。
「やっぱり好き嫌いのない人はいいですね」
父親がそう言って、俺の肩を叩いた。
食後、父親と二人で話す時間があった。
「美咲をよろしくお願いします」
父親がそう言って、また俺の手を強く握った。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「息子のように思ってますから」
その言葉が嬉しかった。都会で一人暮らしの俺には、温かい家族に迎えられるのがすごく魅力的だった。
帰り際、美咲が嬉しそうに言った。
「両親、○○さんのこと気に入ったみたいです」
「本当?良かった」
「次はいつ来られますか?」
「来月また来ます」
俺は即答だった。
新幹線に乗って東京に帰る間、俺は幸せな気持ちでいっぱいだった。
いい彼女ができて、いい家族に出会えた。
これからの人生が明るく見えた。
まだ何も知らなかった俺は、本当に幸せだった。
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