第29話 アテネ、王城に滞在する

―― 王城の夜 ――


 祝典が終わり、華やかな喧騒は徐々に静まりつつあった。

 窓の外には、城下町の灯りが宝石のように瞬いている。

 アテネは与えられた客室のバルコニーに立ち、涼しい夜風に頬を撫でられていた。


 昼間の出来事が、まだ夢みたいで信じられない。

 孤児院で育った自分が、王女だなんて――。


「……ダイアナ王女、ね」


 自分の新しい名前を口に出してみる。けれど、まだしっくりこない。

 エリザベート王妃――母だという女性はアテネにそっくりでその上、本当に優しくて、温かかった。

 けれど、十九年もの間、王女としてではなく、アテネ=グレイとして生きてきた記憶も、決して消えない。


 子どもたちと過ごした孤児院の中庭。

 魔道具工房で、夢中になって部品を磨いた日々。

 学院で、カテリー二やパトラたちと笑いあった時間。


 どれも自分にとって大切で、手放したくないものだ。


 バルコニーの手すりにもたれて、ふっと息をつく。

 ふと、背後の扉が小さく叩かれた。


「……アテネ? 入ってもいいかしら」


 聞き慣れた落ち着いた声。振り向くと、扉の向こうにカテリー二が立っていた。

 上質な紺色のドレスに金糸の刺繍。琥珀色の瞳が、少しだけ心配そうに揺れている。


「カテリー二……!」


 思わず駆け寄ると、彼女はゆっくりと微笑み、アテネを抱きしめた。


「突然のことだったから、びっくりしたでしょう? でも、私……すごく嬉しいわ。あなたが無事で、そして本当の家族を見つけられて」


「……ありがとう」


 胸の奥がじんわり温かくなる。

 カテリー二は、いつだって落ち着いていて、でも誰よりも友達思いだった。


 そこへ、背後から元気な声が響いた。


「アテ、いえ、ダイアナ! おめでとう」


 振り向けば、長い青髪をゆるくまとめたパトラが、小さく手を振っている。

 祝賀会のパーティードレスのままの姿である。


「これからはダイアナ王女様ってお呼びしたほうがいいかしら……?」


「ちょっと、敬語はやめてよ、わたしたち友達でしょう!」


 ダイアナが軽く敬語を断る。パトラはにやりと笑い、肩をすくめた。


「ダイアナらしいわね。王女になっても中身は変わらないわね。それにしても私た一のルームメイトが王女なんて本当にびっくりだわ。」


「パトラ……」


「でもね、どんな立派な敬称がつこうと、私にとっては、あなたは魔道具大好きで、ちょっとおっちょこちょいのルームメイトなのよ」


 カテリー二も頷く。


「そうね。私たちが一緒に過ごした友情の時間はとても大事だわ」


 二人の言葉が、胸に沁みた。

 昼間はあまりに多くの出来事がありすぎて、自分を見失いかけていた。

 けれど――こうして友達が変わらず傍にいてくれる。それだけで、不安がすっと溶けていく。


「……ありがとう。二人がいてくれて、本当に良かった」


 気がつけば、涙が頬を伝っていた。

 パトラが大げさに肩を叩く。


「泣くな! ほら、今度の休日にはまた三人で街に行こうよ。王女様の財布持ちで!」


「ええ、もちろん豪華なティーサロンに行きましょう」

 カテリー二が微笑む。


「もう……!」

 笑いながら、アテネは二人の手をぎゅっと握った。


 窓の外では、王都の夜空に花火が上がり、小さな光がぱらぱらと散った。

 その光はまるで、新しい人生の始まりを祝福してくれているみたいだった。


 ――私は、アテネ=グレイであり、ダイアナ=ファン=フリューゲルでもある。

 そのどちらも、大切にして生きていくんだ。


 三人の笑い声は、夜の王城に静かに溶けていった。


◇ ◇ ◇


―― 王城の夜 ――


 三人での時間は、あっという間に過ぎてしまった。

 カテリー二とパトラは「また明日ね」と笑い、アテネの部屋を後にした。

 扉が閉まり、部屋に静けさが戻る。


 夜風がカーテンを揺らす。

 アテネは小さく伸びをして、そろそろ休もうとベッドに向かおうとした。

 そのとき――。


「……まだ起きているかしら?」


 柔らかい声が廊下から届いた。

 驚いて扉を開けると、そこにはエリザベート王妃が立っていた。

 昼間の正装ではなく、深い紅の室内用ローブに、金糸の帯。

 長い金髪はゆるく下ろされ、香り立つような優しい雰囲気をまとっている。


「少し、お話してもいい?」


 アテネは慌てて頷き、王妃を部屋に迎え入れた。

 二人は窓際のソファに向かい合って座る。

 テーブルにはいつの間にか侍女が置いた温かいハーブティーが湯気を立てていた。


 しばし沈黙があった。

 王妃はカップを手に取り、一口含んでから、静かに口を開いた。


「……今日一日、大変だったでしょう」


「……はい。正直、まだ夢みたいで」


「無理もないわ。突然、自分が王族だと知らされるなんて……混乱するのも当然よ」


 王妃の声は、夜のランプの光のように柔らかい。

 アテネは、ふと昼間のことを思い出す。

 広間で告げられた自分の素性。

 王妃が涙を浮かべながら抱きしめてくれた瞬間。


「……どうして、私を……その、ずっと探してくれていたんですか?」


 恐る恐る問いかけると、王妃は少しだけ目を伏せ、そして微笑んだ。


「あなたは……私の大切な娘だからよ。

 どんなに遠くにいても、どんなに時間がかかっても、必ず見つけ出すと、心に誓っていたの」


 その声には迷いがなく、まっすぐで。

 アテネの胸の奥が、じんわりと熱くなる。


「でも……私、王族らしい教養もないし、マナーも全然……」


「そんなこと、どうでもいいわ」

 王妃は首を振った。

「あなたが何を身につけているかより、どんなふうに生きてきたかの方が、ずっと大切。

 私は、あなたが無事に生きていてくれたことだけで、もう十分幸せなの」


 言葉が、心の奥まで届いた。

 孤児院で過ごした日々を恥ずかしいと思ったことはない。

 でも、王城というまぶしい世界に放り込まれて、自分の出自が小さく見えた瞬間は確かにあった。

 そのすべてを、王妃は否定せず包み込んでくれる。


「……ありがとう、ございます」

 声が震えた。


 王妃はそっと立ち上がり、アテネの隣に腰を下ろす。

 そして、ためらいなく抱き寄せた。


「小さい頃、あなたを抱きしめる時間は……まったくなかった。

 だから、今こうして触れていられることが、信じられないくらい愛おしいの」


 その腕は温かく、優しく、泣きたくなるほど安心する。

 アテネはこらえきれず、王妃の胸元に顔を埋めた。


「……ずっと……会いたかった」


 その小さな声に、王妃は頷く。


「ええ。私もよ、ダイアナ」


 呼び名はまだ少しくすぐったい。

 でも――嫌じゃない。

 これから少しずつ、この名前にも、この家族にも、馴染んでいくのだろう。


 二人はしばらく、何も言わず寄り添っていた。

 窓の外では月が静かに照らし、城下町の灯が遠くで瞬いている。

 アテネは、初めて心から思った。


 ――ああ、私は本当に帰ってきたんだ。自分の居場所に。


 やがて王妃はそっとアテネの髪を撫で、笑った。


「さあ、もう遅いわ。明日もきっと忙しい一日になるもの」


「……はい」


 名残惜しさを抱えながらも、アテネは王妃を見送った。

 扉が閉まったあとも、温かな抱擁の感触は、胸の奥で消えずに残っていた。

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