傘の置き場所

雨森 透

第1話『傘を忘れた午後』

 放課後のチャイムが鳴るころ、空が灰色に沈み始めていた。

 窓の外には細い雨。グラウンドの白線がゆっくりと滲んでいく。


 私は写真部の暗室で、現像液のにおいに包まれていた。

 小さな光の粒が、水の中でゆらゆらと浮かんでいる。

 シャッターを押した瞬間の風や、空の匂いが、少しずつ形を取り戻していく。


 ――この瞬間が好きだ。


 時間が少しだけ、戻る気がするから。


 扉の向こうから足音が聞こえた。

「雨森、まだ残ってたの?」


 振り向くと、瀬川 梢(こずえ)が立っていた。

 濡れた前髪を指先で払って、少し息を弾ませている。


「外、降ってるよ」


「うん、見てた。……傘、ある?」


「ない。朝は晴れてたじゃん」


 彼女は苦笑して肩をすくめた。

 濡れた制服の袖が肌に貼りついていて、少し冷たそうだった。


「私の、入る?」


「……いいの?」


「ひとつしかないけど、半分なら」


 そう言って傘を差し出すと、梢は一瞬ためらったあとで、ゆっくりと頷いた。



 昇降口を出ると、雨は少し強くなっていた。

 小さな透明の粒が、傘の布を叩いて軽い音を立てる。


 ふたりの間には、ほんの数センチの距離。

 けれど、肩が少し触れるたびに、心臓が静かに跳ねた。


「雨森って、雨の日好きそうだよね」


「うん。音が優しいから」


「私はあんまり。……でも、今は悪くないかも」


 梢が小さく笑う。

 横顔に落ちた前髪から、一滴の水が頬を伝って落ちた。


「写真、また撮ってるの?」


「うん。空ばっかり」


「どうして?」


 少し考えてから、私は答えた。


「空って、何にも言わないで変わるでしょ。

 でも、ちゃんと誰かを映してる気がするの」


「誰か?」


「……たとえば、いま隣にいる人とか」


 梢は少し驚いたように、目を瞬かせた。

 そして、傘の下でそっと笑った。


「じゃあ、今日の空にも私、映ってる?」


「たぶんね。うっすら」


「そっか。……それでいいや」


 そう言って、彼女は少しだけ私の方に寄った。

 肩と肩が触れて、息が交わる。


 雨音が少し遠のいたように感じた。



 校門の前で別れるころには、雨脚が弱まっていた。

 梢は傘の下から空を見上げて、

「また明日ね」と小さく手を振った。


 帰り道、彼女の笑顔がずっと頭の中に残っていた。

 まるで、現像液の中に沈む白い光の粒みたいに。


 ――消えそうで、でも確かにそこにある。


 私は傘を閉じて、しばらく空を見上げた。

 淡い雲の向こうに、少しだけ青がのぞいていた。

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