第7話


奇襲の日から十日が経ったある日の午後。


夕食の仕込みを終えたエリカが、調理場の裏口に鍵をかけた時、背後から挨拶をされた。

胸に響くその低い声に心当たりがあり、思わず息を呑む。


(まさか…)


振り返ると、そこにいたのは予想した通りの人物、トリスタン・カルゼルク。

ついでに斜め後ろにはサイモンもいたが、エリカには少し霞んで見えていた。


「久しぶりだな」

「…どうしてこちらに?」


目を見開くエリカへ、トリスタンは静かに笑みを浮かべ、落ち着いた足取りで歩み寄る。


「今、忙しいか?」

「い、いえ。夕食の準備まで少し時間があるので、部屋で休もうと思っていました」

「そうか。なら、その時間を少々拝借したい」


エリカは目を瞬かせる。思いがけない再会に頭の整理が追い付かない。


「君に頼みたいことがあって来たんだ」

「私に…?」




※※※





場所を移した二人は、宿舎の野外訓練場の端にある長椅子に並んで腰を下ろしていた。


「それは、山、という意味です」

「なるほど」


トリスタンは小さなノートにその文字を書きながら、口元には愉しげな笑みを浮かべている。


訪問理由は「バンゼル語で書かれた暗号の解読に力を貸してほしい」だった。

正直、聞かされた時は、はい?と思っていた。


王都にいるエリート騎士の中には、バンゼル語を習得している者も少なくないのに、わざわざ地方の街まで馬車に揺られ、ただの食堂の女に頼むというのは妙な話。


サイモンもさっき言っていた。


「…お前に頼む必要は全くないけど副長がどうしてもと言うからしょうがなく」

「サイモン、口を慎め」

「…すみません」


微笑を浮かべたまま注意され、サイモンは姿勢を正したが、不満げな顔はそのままだった。


よくわからないが、エリカはその頼みを断るつもりはなかった。

命の恩人が、それも騎士団の副長ともあろう方が、ただの食堂の女を、それも生い立ちが複雑で疎まれている自分なんかを訪問してきたのだ。

役に立つのならなんだってする。

だから「わかりました。私でよければ」と頷いていたのだ。


そうして単語を一つずつ訳しているのだが、出てくるのは驚くほど初歩的な単語ばかり。


(この程度なら王都で人を探した方が絶対に早かったと思うのですが…)


しかし、言えなかった。


サイモンは少し遠くの方で立っていた。

トリスタンに「盗み聞きされないよう、周囲に人が来ないか見張っていてくれ」と命じられていたからだ。


最近は冷え込み始め、肌をなぞる風が冷たさを帯びているが、エリカはむしろ熱いくらいだった。

隣に座るトリスタンとの距離がどうにも近いからだ。


最初は人ひとり分ほどの間隔があったはずなのだが、いつの間にか太ももの端が触れるか触れないかという絶妙な位置まで寄っていたのだ。エリカじゃなく、トリスタンがだ。


時折向けられる眼差しは、なぜか妙に柔らかく甘やかで、落ち着かなくなる。しかも、ふと漂ってくる匂いまで、好感が持てるいい香り。

しかしその時、ブルッと寒気がした。


(これは、……殺気?)


目を向けると、低木の陰から女たちが、嫉妬と怨念のこもった視線でエリカを射抜いていた。

普段こそ結束が固い食堂係の女たちだが、誰かが一足先に恋の甘い空気に触れようものなら、「妬みの的」としてマークされる。


そして女たちは盗み聞きをしているようにも見えなくないのに、サイモンは動かない。

気づいていないのだ。

この男もまた、エリカを睨んでいるから。


兄のように慕う上司が、よりによって素性の怪しい女に現を抜かしているように見えて仕方なく、その苛立ちがどうにも女の方に向かってしまうのである。


「寒くないか?」

「いえっ、全然!」


そう答えたのに、トリスタンは軍服の羽織をエリカの肩にかけた。

こんなこと、エリカは経験したことがない。

驚きと同時に、羽織に残るトリスタンの体温に胸がドキドキと跳ね、どうにも収まらない。

結局、余計に熱くなってしまった。


お返しします、というのも無礼なので、仕方なく熱いのを我慢し、向けられる殺気にもじっと耐え、エリカは翻訳の務めを果たした。


トリスタンとサイモンが馬車に乗って帰った時は、ようやく緊張の糸が解れ、腰が抜けるのだった。




※※※



エリカの働きが気に入ったからと、トリスタンは何度か足を運んできた。


その度に「次はこの暗号を」と新しい案件を用意してくるが、エリカは騎士団の副長がわざわざ自ら動くほど重要なことなのかと、次第に疑問に思い始めていた。


というのも、単語の翻訳はせいぜい二割ほど。それも簡単なものばかり。

残りの八割は、個人的な質問や世間話に費やされ、時には食事にも誘われる始末。

こんなに緩くていいのか、と首を傾げてしまうのだ。


「あの、トリスタン様…。この程度の翻訳なら、わざわざここまで馬車を走らせずとも、王都に適任の方がいるのではないでしょうか」


エリカは我慢できず、ついに言及した。


「君はバンゼルで十年暮らしていた。単に言葉を訳すだけでは得られない、些細な手がかりやヒントにも君なら気づきやすいと思ったんだ」

「そ、そうだったのですか…」


エリカは顔を引きつらせる。


(どうしましょう…。そんなもの気づかなかったわ。十年の経験も勘も、何も発揮できていないじゃない……)


志願したわけではないが、期待に応えられていない自分が情けなくて、思わず下を向いた。


「正直に言おう。翻訳の為だけに会いに来ているわけではない」

「え…?」


見上げると、その眼差しが熱を帯びているように感じられた。

トリスタンはエリカの耳に髪をかけながら、甘い笑顔を浮かべ、さらりと言う。


「君に興味があるんだ、エリカ」


その一言に胸がひときわ大きく跳ね上がった。


喜びが確かにエリカの胸に満ちるのを感じる一方で、燃える火に冷たい水をかけるように、すぐに冷静さを取り戻す。

その“興味”は、出生や生い立ち、これまでの人生など、きっとそういう部分に向けられたものだ。エリカはそう思う。


(だって私は、誰からも相手にされず、避けられ疎まれ、婚期さえ逃した女なのだから…)


トリスタンは距離を寄せ、真っすぐにエリカを見つめる。


「結婚に興味はなかったが、君とは運命を感じた。俺が結婚すると言うのなら、それは君以外に考えられない」


この人は何を言っているんだ、とエリカは瞠目する。


「エリカ・ホスタール。妻になってくれないか」


とんでもない言葉を受け、血の気が引いたような感覚を覚えた。


「ご、ご冗談を…」

「本気だ」

「うそ…」


こんな色男が、それも誰もが憧れる国民の英雄が、自分に運命を感じるなどあり得ない。

あり得たとしてもこれは一時の気の迷いだ。死の危機から助けたことで、感情を勘違いしているに違いない。


エリカはそう思い、すぐさま断りの言葉を述べた。

聞き間違いなど許さないとばかりにはっきりと。


この件は何が何でも断らなければならなかった。


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