第二十話 墜ちゆく鉄の空
突入の号令が下された瞬間、甲板に張りつめていた沈黙が、破れた帆のように一斉に裂けた。
風鳴り。鎖の軋み。帆布がはためき、魔力が熱を帯びて空気の層を幾重にも揺らす。夜明け前の空はまだ群青で、雲は低く、寒気が頬を刺した。
だが、甲板の上だけは熱かった。怒号と詠唱と金属の触れ合う音が、あらゆる温度を一つにかき混ぜている。
「――ラウニィー!」
銀髪が弧を描き、双剣が最短距離を走る。着地と同時にオリビアは足の裏で空気を掴むように旋回し、甲板全体の風の流路を一段、低く敷き直した。奔流が敵列の膝を払う。見張り台の笛が裏返り、矢が軌道を外す。
赤い髪がその風を切り裂いて追いつく。
「リヴィ、指示を!」
ラウニィーの弓はすでに半ば引かれていた。言葉より先に動ける関係。オリビアは短く頷き、周囲を一瞥するだけで配置を結ぶ。
「全員で甲板を制圧する! サンド、左舷の盾列を壊す! エルドゥ、右舷の矢衆を落とす! ラウニィーは援護射撃! セレナは後方で突入準備、負傷者の一次振り分け!」
「了解!」と三つの声が重なり、即座に離散した。
サンドは大盾を肩に預け、土の魔力を足底から甲板板材へと染み込ませる。木目がきしむ。板の繊維一本一本の「割りどころ」を掌が知っている。
「どけぇぇ!」
短い助走、踏み抜き、盾の面で突き沈める。左舷の盾列が崩れ、押し合いへと変質する。間髪入れず、土柱が足元から盛り上がり、敵の脛を跳ね上げた。
右舷では稲光。
「任された!」
エルドゥが大斧を肩から外し、刃の背に雷を這わせる。斜めに走る光の爪痕が、見張り台の支柱を焼き切った。
落ちる影の中を踏み込み、柄の石突で喉を突く。振り下ろしは最小限、回転で数を払う。そのたびに雷の残心だけが空に細い筋を引く。
ラウニィーは甲板の中央より一段高い通路を選び、左右へ刻むように移動する。
「フレイム・ナックル、三連!」
矢を三本、ぎりぎりまで番え、火の小片を指先で弾く。矢尻が息を吸い、ちいさく鳴った。放たれた矢は互いの後流を掴み、空中でわずかに角度を変え、同じ露台にいた三人の胸甲へ吸い込まれる。爆ぜる音はひとつ。
「エルドゥ、右下、もう一人!」
呼吸の合った連絡。エルドゥは頷きもせずに足だけで角度を変え、刃先の雷を一瞬だけ強めて投げるように突きを入れた。
セレナは後方。黒檀のような髪に朝の霜が降りている。
「止血は圧迫、次列! 魔力の消耗は地に集中、無理に火を焚かない!」
彼女の声は冷たいが、張り付く不安を切り裂く温度を持っている。動力室の方向を視界の端に固定しながら、味方の魔力線を観察し、無駄な重なりを外させる。
(突入まで五十数。甲板の制圧は……)
セレナが指を折る前に、ラウニィーの声が届いた。
「甲板、制圧完了!」
オリビアは短く剣を振り、風の層をもう一段、静かに落とした。
「よし、次に移るわ」
夜明けの縁が雲の端に光り、甲板の影がわずかに短くなる。息が白い。
「エルドゥ、甲板の守護はあなたに任せる。防衛線を築いて、脱出経路を確保」
「了解だ、オリビア中隊長」
エルドゥは大斧を甲板に突き立て、その周りに半円の陣形を描く。彼の立つ位置が「中心」になり、兵たちの視線が一点に収束する。中心がある陣は崩れにくい。彼はそれを知っていた。
「サンド、私と操舵室へ。道を切り拓いて」
「任せろ」
サンドの声は低く、短い。
「ラウニィー、援護」
「もちろん」
弦が、まるで笑うように震える。
「セレナは動力室へ。動力にされている人々の解放と保護を」
「任されたわ」
セレナは振り向かないまま、手の合図一つで選抜した魔法兵を引き連れた。彼女の歩幅は速い。しかし、ただ速いのではない。角の手前で必ず減速して、前方の魔力の揺らぎを看る。無駄な遭遇を避ける歩き方。治療班の足は、戦士より多くの命を連れている。
オリビアの号令とともに、部隊は動き出す。
甲板の風が背を押す。艦内へ続く扉が重い音を立て、闇が口を開いた。
――艦内は、匂いが違う。
オリビアは最初の一歩でそれを嗅ぎ分けた。油と魔力導管の熱、湿った木材、焦げた繊維。風が流れにくい。密閉された通路は淀み、空気が死ぬ。その死んだ空気に、彼女は自分の風を通す。風は「流れて」こそ風だ。
「先頭、私。サンドは半歩後ろ。ラウニィーは二列目から右壁沿い」
通路は狭い。三人横には並べない。だからこそ、オリビアの肩、サンドの盾、ラウニィーの矢の順番が活きる。
曲がり角の手前で息を一つ。
「――行く」
蹴り足の力点をわずかに後ろへ。肩の入りと同時に風を押し込み、死角で待っていた槍が風圧で床に叩きつけられる。サンドの盾がそこに重なり、金属音が鳴る。
「悪いな」
盾の縁が顎を打つ。ラウニィーの矢がその脇を滑り、詠唱しかけた魔法士の舌を焼いた。
「次の曲がり、二。段差あり。上から来る」
ラウニィーの声に、オリビアは視線だけを上げる。照明の梁の影。
「つぶす」
サンドが短く言い、土の魔力で梁を膨張させる。固定金具が悲鳴を上げ、上段の待伏せが自重で崩落した。埃が舞い、視界が白む。
「風」
オリビアが一息で埃の流路を定め、白い霧が一方向に流れていく。視界が戻るより早く、三人の足は次の角へ。
(悪くない。まだ呼吸は整ってる)
そのときだった。艦腹の奥、中央通路のさらに先から、耳孔の内側を爪で引っ掻かれたような魔力の叫びが押し寄せた。甲板で感じた風とは性質が違う。鈍い、重い、押し付けられる圧。
「……増援か?」
サンドが呟く。
「関係ない。押し通す」
オリビアの声は淡々としていた。だが、その淡々は無感情ではない。揺れない芯の音色だ。
サンドは笑い、盾を前に出す。
「おう」
操舵室へと上がる最後の踊り場。
そこは広場のように開けていて、階段状の通路が三方向から集まっている。守備隊を置くには最適な地形――実際、数十の影がそこにいた。
「来たか、エルフォード中隊――」
怒鳴り声を最後まで言えた者はいない。オリビアの風が喉を詰まらせ、サンドの盾が顔を押し潰し、ラウニィーの矢が詠唱を、音そのものを断つ。
「サンド、ここは任せる」
「通すな、だな?」
「お願い」
「任せとけ!」
サンドは片足を半歩引き、盾を床に半ば刺す。土の魔力が盾の縁と床材を縫い合わせ、即席の胸壁ができる。
「さあ、相手だ」
笑って、彼は前へ出た。巨体は壁のように道を塞ぎ、振るうのは大剣ではなく、圧倒的な「存在」の重さだ。彼の後ろを、オリビアは風の刃のようにすり抜ける。
操舵室の扉は重い。だが、重さは方向で裏切れる。
オリビアは取っ手を掴まない。蝶番側に風の楔を打ち込み、微小な歪みを連鎖させ、一息で蹴り抜いた。
――そこは、艦の心臓部だった。
床は黒い油で鈍く光り、壁には計器と魔力導管の脈が走る。窓の外は青黒い夜明け前。
守備兵が数人。
その奥に、肥えた男――マイケル大隊長。
腕に抱えられた若い娘。縄で手首を縛られ、布を噛まされ、怯えた瞳でこちらを見る。
オリビアの心臓が、わずかに跳ねた。
(……見覚えがある)
幼いころ。ラウニィーに手を引かれて通ったパン屋。焼き立ての小麦の甘い匂い。快活な声で「おまけ」を包んでくれた小さな手。店の奥から顔を覗かせて笑った――その娘。
戦場とは無縁だったはずの日常の顔が、油の匂いに塗りつぶされたこの場所にある。
マイケルの口元が粘つく。
「おっと、動くなよ。こいつの命が惜しけりゃな」
指先に力を込める仕草を、わざとゆっくり見せる。
(――人質)
胸の奥で、細く長い何かが切れた音がした。
守ると決めた。
その「守る」は、陣形でも地図でも作戦でもなく、顔に名前のある、温度のある「暮らし」だった。
味方であるはずの大隊長が、それを汚している。
それだけで十分だった。
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