第十二話 静かな夜、ほどけていく流れ
夜営地は、濡れた草の匂いに満ちていた。
焚き火の橙色が小さく揺れ、湿った空気の中でじりじりと薪が音を立てる。
遠くで夜警の足音が一定のリズムを刻み、それが心臓の鼓動と混ざり合って静寂を縫っていた。
――リュカとの戦いは、決して忘れられない。
敗北の重さは、兵一人ひとりの肩に深く沈んでいる。
誰もがそれを声にしないまま、焚き火の熱で生きている証だけを確かめていた
。
オリビアは焚き火のそばで、膝を抱えて空を見上げていた。
あの瞬間――水が応えたときの感覚を、もう一度たぐり寄せる。
あれは、思考ではなかった。ただ反射的な衝動だった。
冷たいものが喉の奥を満たし、体中を貫いたあの瞬間。
剣を振るうよりも早く、水は動いていた。
(……でも、あれは“知らない感覚”じゃなかった)
胸の奥で眠っていた記憶が静かに目を覚ます。
***
雨の夜。母の腕に抱かれた幼いオリビアは、屋根を叩く雨音を聴いていた。
その音は、まるで世界が呼吸しているようだった。
母の胸元の鼓動と重なり合い、冷たさの中に不思議な温もりを見つけた夜。
水は恐ろしいものではなかった。ただ、そこに“在る”ものだった。
***
次に浮かぶのは、あの雨の石畳。
震える肩を並べ、焚き火の赤に照らされたラウニィーの横顔。
雨の冷たさと焚き火の暖かさが交じり合い、夜の空気は不思議な優しさを孕んでいた。
ラウニィーが袖をぎゅっと掴んだとき、世界が“揺れ”から“安定”に変わった。
あの夜、水は彼女を守る空気の一部だった。
***
さらに港外れの訓練場。
帆布が風を孕み、暴れた瞬間、彼女は“流れ”を見抜き走り抜けた。
力でねじ伏せたわけではない。
ただ、そこにある風の形を“読んで”動いた――それが当たり前だった。
***
(あのとき……水も、きっと)
オリビアは指先を夜気の中に差し出した。
湿った空気が肌に纏わりつき、小さな渦が生まれる。
空気の温度と湿度が、指先に「流れ」を伝えてくる。
そこに魔力を流し込む。
命令するのではなく、ただ「合わせる」。
流れが水を呼び、水が魔力を受け止め、彼女の身体を中心に循環し始めた。
あの夜のように、自然と。
そして、あの戦場のように、確かに応える。
(……放つんじゃない。読むんだ。掴んで、流して、合わせる)
「なにしてるの、オリビア?」
ラウニィーの声が背後から落ちてきた。
振り向けば、火の光に照らされた紅い髪が雨の夜と重なる。
「ちょっと……流れを感じてただけ」
「ふーん、よくわかんないけど……顔がいつもと違うよ」
「違う?」
「うん。なんか、“迷ってない顔”」
ラウニィーはそれ以上何も言わず、いつものようにオリビアの隣に腰を下ろした。
二人の間を、夜風が優しく撫でていった。
⸻
帰還
翌朝、中隊は王都への帰還を開始した。
兵たちの足取りは重く、行軍列はどこか鈍いリズムを刻んでいた。
疲労と敗北の空気が、空を低く曇らせているようだった。
「やっと……戻れるな」
「生きてるだけで、奇跡だぜ……」
小さな会話が列のあちこちから漏れる。
笑いではない。ただ、生の重みを確かめるような声だった。
城門が見えたとき、兵たちの肩がようやくわずかに緩んだ。
勝利の帰還ではない。だが、生きて帰ったという事実だけが、沈黙の中に刻まれた。
負傷兵は療養棟と教会に運び込まれ、治療班が慌ただしく動いた。
軽傷者も休養を命じられ、戦える兵は半分以下。
補給部隊の係官が小声で「よく戻った」と呟いたとき、兵の何人かは泣き笑いした。
⸻
それぞれの時間
それから数日が過ぎた。
王都の空気は、表面上は穏やかに見えたが、街の奥底には戦の熱が残っていた。
療養棟には包帯を巻かれた兵士たちが並び、神官たちの祈祷と医師の声が絶えず響く。
倉庫では補給兵が物資を点検し、訓練場からはときおり乾いた剣戟の音が風に乗って流れてきた。
誰もが知っていた――これは“終わり”ではなく、“嵐の前”だと。
休養という言葉が与えられても、心を完全に休められる者はいない。
それぞれが、それぞれの形で戦いへの準備を始めていた。
静けさと緊張が同居する、奇妙な数日間だった。
サンドは盾を修繕し、筋肉の張りを確かめるように体を動かしていた。
「おい坊主!盾の持ち方が甘ぇ!」
「へい!」
叱り声にも、どこか温かさがある。兵たちの笑いが少しずつ戻っていった。
ラウニィーは射場に立ち、矢を放つ。
矢羽が空を裂き、的に突き刺さる音が夜明けに響く。
その矢筋には、敗北の影など一欠片もなかった。
エルドゥは雷の魔力を纏いながら、ひたすら走り込んでいた。
踏み込むたびに土煙が上がり、雷が地面を這うように広がる。
戦いの翌日も、翌々日も、彼はただ黙々と足を止めない。
「歳のせいで鈍ったなんて、言わせねぇ……!」
低く吐き捨てる声には、年長者としての矜持と焦りが混ざっていた。
ヴィンスは机に魔法理論を広げ、集中しすぎて周囲の声すら届いていない。
雷鳴の中で見たリュカの戦い。その一瞬一瞬を脳裏で反芻し、自分の魔力制御の精度を問い直していた。
彼にとって敗北は、静かな怒りだ。
ダナンは剣を振り続けていた。
若い瞳に宿る焦燥は、忠義と野心が絡み合った複雑な色をしている。
「次は……」
小さく呟いた声は、夜風に消えた。
オリビアは広場でひとり、目を閉じて夜気を吸い込んでいた。
魔力を放つのではなく、空気の中に“溶かす”ように巡らせる。
指先に集まる水の粒は、呼吸に合わせて波のように揺れた。
自分が流れの主ではなく、流れの一部である――その感覚が、静かに体に染み込んでいく。
(次は、流れを読む。奪う側になる)
⸻
作戦会議の日
数日後、伝令が本部から到着した。
緊張を孕んだその声は、兵たちの胸を一瞬で現実に引き戻す。
「C-7帯奪取作戦――決行日時、確定」
訓練場の空気が一気に張り詰めた。
疲労と痛みを抱えたまま、兵たちは再び剣を握る。
夜風が肌を撫で、空の高みには雲が緩やかに流れていた。
オリビアは夜空を仰いだ。
母の雨の音、焚き火の温度、港の風――あの夜の記憶が静かに重なっていく。
胸の奥にある流れが、今度は輪郭を持って応えた。
水は命令するものではない。
読むもの。汲み取るもの。流れと共に在るもの。
リュカの背中が、脳裏をよぎる。
彼が見ていたものの一端が、少しだけ見えた気がした。
(次は――あの“流れ”を奪う)
鐘の音が響いた。
作戦会議は明朝。
静寂の底で、戦いの気配が再び灯った。
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