辺境刻印屋レイ、ころと始める逆転生活
Style132
第1話 追放と銀針のはじまり
「欠陥は俺の刻みじゃない。——説明させてくれ」
「弁明は聞いた。出ていけ、レイ。工房の看板は汚させない」
「ころりん……」
「荷物はそれで全部か? 二度と戻るな」
扉が重く閉まる音が、胸の奥で長く響いた。工房の中庭に置きっぱなしの樽、焼けた板。焦げ跡は俺の癖じゃない。分かっているのに、権威の声は、指先の感覚より強かった。
背中の布袋に、道具はほとんど入っていない。唯一、手の中に馴染むのは細い銀針。握り直すたび、ひやりとして落ち着く。足元の丸い搬送ゴーレムが、うつむく俺の後ろをころころついてくる。
「行くぞ、ころ」
「ころりん」
工房門から見える市場は、昼の喧噪で白くゆれていた。呼び込みの声、油の匂い。俺は門の陰に立ち、しばらく息を整える。怒っているか、と自分に問えば、答えは意外に静かだ。悔しい。でも、怖くはない。
「……俺には、直せるものがある」
銀針の頭を軽く爪ではじく。小さな音が指に返り、胸骨の奥で合図みたいに跳ねた。ちくっ。
市場の端に、空き木箱がある。屋台と呼ぶには心細いが、雨をしのげる場所さえあれば始められる。看板の代わりに、ころの丸い背に「直します」の文字札を貼る。ころは誇らしげに少しだけ背をそらし、こつん、と木箱にぶつかった。
「看板役、いけるか?」
「ころりん!」
初日の目標は小さく——今日中に、壊れている何かをひとつ、直す。金をもらえなくてもいい。やれるところを見せたい。それだけだ。
通りがかった老婆が、壊れた柄の小鍋を抱えていた。目が合う。俺が会釈すると、老婆は首をかしげて近づいてくる。
「坊や、そこは店かね」
「始めたばかりの修理屋です。見ての通り、道具はすぐには揃いませんが……刻印で、応急はできます」
「銅の鍋に刻印? そんな洒落たものが要るのかい」
「割れ目を『縫う』刻みです。代金は要りません。練習……いえ、見本に」
老婆は少し笑って鍋を差し出す。ひびは小さい。銀針の先を鍋肌に触れ、呼吸を浅く揃える。蓄魔板を親指で押さえ、指先へ薄い熱を送る。
「一瞬、冷えます。がまんしてください」
「はいはい、冷えたらよく煮えるねぇ」
ちくっ。
針先がひびの縁をなぞると、淡い紋が光る。裂け目が、糸でとじたみたいに吸い合っていく。ころが横で心配そうに見て、ころり、と小さく揺れた。
「——これで、鍋底を軽く叩いてください」
「こうかい?」
こん。
音は澄んだ。割れ目は消え、鍋肌に小さな縫い目模様が一本。老婆は目を丸くし、次の瞬間、子どものように手を打った。
「まあ、見事だこと! 代は要らんって言ったね? じゃあ飴でどうだい」
「いえ、ほんとに要りません。宣伝になれば」
「なら言いふらしておくよ。新しい刻みの坊やが来たって」
老婆が去ると、通りの空気が少しだけこちらを向いた気がした。ざわめきの流れが変わるときの、あの背筋のむずむず。ころは看板を誇らしげに揺らし、ころりん、とひときわ高い音を鳴らす。
「やるじゃない、ころ」
「こてん」
「寝るな。まだ昼だ」
笑い声に紛れて、俺の名を呼ぶ声がした。
「レイ!」
振り向くと、鍛冶師のオルガが鍋蓋を肩に担いで立っている。工房の裏口で何度か顔を合わせた人だ。口が悪いので有名だが、腕は確か。
「追い出されたって聞いた。で、屋台? やるじゃない。火も水も無しで、どうやって回すの」
「応急と刻印の再起動だけ。大物は受けない。今日は見せる日」
「ふうん……その丸いのは相棒?」
「ころ。搬送と看板担当」
「名前だけはかわいいわね」
オルガは鍋蓋をどすんと木箱に乗せる。
「それ、歪んでる。火で戻す手もあるけど、刻みで締められる?」
「蓋の縁に“円抱”ひとつ。やってみる」
ちくっ。
縁の内側を滑らせるように紋を書く。軽い圧で金属がしゅっと縮む。蓋は元の鍋に吸い付き、空気が一滴抜けるみたいな音がした。
「……悪くない。値、つけな」
「今日は——」
「宣伝は最初の一つで十分。仕事には対価。そうやって自尊を守るのよ。じゃなきゃ舐められて潰れる」
言葉が胸に刺さる。俺は息を吸い直し、指で一を作って見せた。
「一枚。銅貨」
「安い。——でも初日ならいいわ。ほら」
銅貨が手のひらに落ちる。この重みを忘れたくない。オルガは踵を返し、振り向きもせずに指をひらひらさせた。
「夕方、鍛冶場に端切れが出る。欲しけりゃ拾いに来な。材料が無いと何も刻めないでしょう?」
「助かる。行く」
人の輪が少しずつ近づいてくる。壊れた匙、固まった木箱の錠、止まった風鈴。俺はひたすら、話を聞き、状態を見て、手を動かす。対価は小銭かお礼の菓子、かわりに次の紹介。ころは預かった品を運び、看板を揺らしては子どもと遊ぶ。木箱はそのうち、ほんとうに店みたいに見え始めた。
「若ぇの、鍵が回らねえ」
「溝が削れてます。『噛み合わせ』を少しだけ寄せます」
「寄せる?」
「歯を一本“太らせる”。痛くないです」
「鍵が痛がるかよ」
「たしかに」
ちくっ。
夕方、空の色が薄く冷えるころ、影が二つ、手前の屋台を横切った。目線を感じた。工房で見た衣の色。嫌な既視感が背に貼りつく。
「——誰か、見てる?」
「ころ?」
ころが小さく回り、影の方へじり、と動く。俺は制する。
「追わない。今日は売り場を守る」
影はすぐに消えた。風が一息冷たくなる。俺は銀針を摘み、針先の光を確かめる。ひとつ深呼吸、ちくっ。落ち着け。焦げ跡は俺じゃない。俺の刻みは、冷えて締まる。
日が落ちかける頃、ふらりと現れた中年の男が、木箱の前で足を止めた。腹巻きをぎゅっと締め、顔は穏やかなのに目が油商人のそれだ。
「こんばんは。ここ、新しい刻印屋さん?」
「はい。レイって言います。まだ屋台ですが」
「名前は……ころ?」
「それは相棒です。看板担当」
「いいね、目に留まる。私はトーマ。雑貨屋をやっててね。あんたの刻み、昼から三回は耳に入った。老婆、鍛冶屋、鍵の親父。連鎖がきれいだ」
「ありがたいです」
「で、明日の朝、樽を一本見てくれないか。割れてる。水じゃなくて油を入れるやつだ。油は漏れると信用が死ぬ。丁寧な人がいい」
喉が鳴った。最初の——正式な、依頼だ。
「もちろん。朝一で伺います」
「場所は市場通りの端、看板は『トーマ雑貨』。値はこっちからも出すが、あんたの口からまず言いな」
「……分かりました」
トーマは帰りぎわ、ぽん、ところを撫でた。
「いい看板。動く看板は流行るぞ」
「ころりん!」
薄闇が降りる。屋台を片付け、木箱を端に寄せる。夜風は少し湿って、遠くで屋台の鉄鈴が鳴っている。工房の寝床はもう無い。今夜からは、通りの共同宿に泊まるしかない。
「ころ、宿に行く前に、鍛冶場だ」
「ころ」
オルガの鍛冶場は火の赤が路地に滲んでいた。約束通り、端切れと歪んだ釘が籠に入っている。
「お。来たか。拾ってけ。怪我すんなよ」
「恩に着る」
「礼は仕事で返しな。——それと、ギルドの壁に変な貼り紙が出てた。『刻印師資格の臨時停止について』とか。文面があやしい。印璽が古い型かも」
「印璽……」
「気ぃつけな。あんた、目をつけられてる」
胸の奥がざわつく。古い型の印璽は、工房の倉に眠っているはずだ。誰が触れる? 考えるほど、嫌な線がカイルの影に繋がっていく。
「でも、今日は勝った顔してる。いい目だ」
「一枚、銅貨をもらった」
「はは、その顔だ。じゃ、また明日」
宿に戻る途中、通りの掲示板の前で足が止まる。やはりあった。『刻印師の資格停止に関する注意』。紙は新しいが、押された印は、ほんの少しだけ縁が欠けている。古い型で無理に押した跡。俺は銀針で端をそっと持ち上げ、細部を目に写し取った。
「証拠にはならない。でも、糸口だ」
宿の部屋は狭く、窓は小さい。ころは丸い体を半分布団に入れて、残り半分が転がり出ている。滑稽で、胸がほどける。
「ころ、明日は正式に受ける。値も、俺の口から言う。怖いけど、言う」
「ころり……」
「眠いのか。——おやすみ」
灯りを落とす。暗闇の中、連絡札だけが薄く光った。試しに、片手で二度、こつこつと叩いてみる。夜は片手二度打ち。それが合図だ。俺の合図は、俺が決めていい。
こつ、こつ。
返事はない。静かな夜。遠くで、木靴の足音が一度だけ止まり、また動いた気がした。明日の朝一番、雑貨屋トーマの樽。油は漏らせない。俺は目を閉じ、銀針の冷たい感触を掌で確かめる。
ちくっ。
——明日は、値を言う。
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