八星の勇者に選ばれた少年リアム

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第1章 リアムと八星の出会い

序章

 暗い森を、ひとりの少年が逃げていた。

 草を裂く音が、小さく震える呼吸に重なる。

 涙で濡れた頬を、冷えた夜風が切り裂いた。


「……たすけて……だれか……」


 震えた声は闇に吸い込まれ、返事はどこからも来ない。


 リアム――まだ三歳の、小さな子ども。


 ふらつく足で走るたび、胸が痛み締め付けられた。

 後ろから、黒い影が木々をかき分け足音が迫る。


「鬼ごっこは終わりだ」


 低い声が聞こえた瞬間、肩を掴まれ、体が宙に浮く。

 黒いローブの男が、真っ赤な瞳でリアムを覗き込んだ。


「やめ……っ、はなして……!」


「何故逃げる。お前は器に選ばれた。魔女様の器にだ」


 その瞳に宿る狂気に、喉が凍りつく。

 震える手が空を掴むように宙を泳いだ。


「パパ……ママ……っ、助けて……」


「泣く暇があるなら思い出すんだな。お友達の命が、どうなるかを」


 ◇ ◇ ◇


 その言葉で、リアムの涙が止まった。

 頭に浮かんだのは、夕暮れの道を歩いた幼馴染たちの顔。

 四人で騎士ごっこをして「大きくなったら英雄になるんだ!」そう笑い合った時間。


 しかしその帰り道。

 黒いローブの集団が現れ、幼馴染たちは捕まった。


「俺たちの目的はお前だ。ついて来い。さもなくば……お友達がどうなるか、分かるな?」


 リアムは恐怖に震えながら頷くしかなかった。

 幼馴染は息をしていたが、目を覚まさない。

 呼んでも、揺さぶっても、返事は無かった。


 ◇ ◇ ◇


「助けを呼ばれても困る。お友達は森に置いてきた。魔物に食われるか、幸運にも助かるか……楽しみだな」


 黒いローブたちの嘲笑が耳を刺す。

 その瞬間、リアムは泣きながら逃げ出した。

 だが子供の足では簡単に追いつかれた。


「ぐ……っ……!」


 首を締めつけられ、息が奪われていく。

 視界が白くかすれ、世界が遠ざかる。


「やりすぎるな。こいつは魔女様の器だ。すべてと適応できる……唯一の存在だぞ」


「気絶しただけだ。神殿に戻るぞ。今日、この世界に混沌が降臨する」


 最後に聞こえたのは、歓喜の声だった。

 そして少年の意識は、深い闇へと沈んでいった。


 ◇ ◇ ◇


 リアムの意識が目覚めると同時に、暗い世界が広がっていた。

 目の前に何も映らない。

 布が顔に巻かれ、光が一滴も入り込まない。


「……ここ……どこ……? だれか……いるの……?」


 声は耳に届くより早く闇に溶けた。

 手を伸ばそうとした瞬間、金属の冷たい音が響く。

 体が動かない。

 腕も足も、重たい何かに縛りつけられていた。


「や……やだ……はなして……」


 鎖が、リアムの小さな手首を擦る。

 痛い。動けない。喉が痛い。

 どれほど叫んでも返事はなかった。

 静寂が、まるで底の見えない井戸のように広がる。


 しばらくして――。


 コツ、コツ、と靴音が近づいてきた。


「……器を捕らえたようね」


 女の声だった。

 その響きは、まるで冷たい水を背中に流されたようにぞわりと肌を震わせる。


「た、助けてください……」


「あら。ずいぶん可愛い声。ねえ、器くん。何歳?」


「……さん……さい……」


「まぁ。まだまだ赤ん坊ね。でも残念。あなたの人生は、今日で終わりよ?」


 女は笑っていた。

 その笑いが、どす黒い支配の気配を帯びている。

 リアムの小さな胸がきゅっと縮む。

 この人を怒らせたら自分は死ぬ。

 そんな直感だけが、頭を貫いた。


「あなたは魔女の器になるの。光栄なことよ。ねぇ、嬉しい?」


 リアムは声を失っていた。


「……嬉しくないのかしら?」


 声の温度が一瞬で冷たく下がる。

 リアムは息を呑み、震える喉で絞り出した。


「……う、れしい……です……」


 涙が布を濡らす。嗚咽が喉を詰まらせる。


「うふふ。いい子ね。いい子にはご褒美をあげる。あなたが選ばれた理由、知りたくない?」


 リアムは弱々しく頷いた。


「あなた、血の継承体質だものね?」


「……継承……体質……」


「そう。その体質は一度だけ、取り込んだ血の持ち主のすべてを継承できる。能力も、魂も。どれほど強大な存在でも、一度なら取り込める。」


 女の声が狂気に歪む。


「そしてあなたには七人の魔女の血を同時に与える。その力を使い、私たちは世界を混沌へ堕とすの。この世界に絶望を刻む象徴になってもらうわ、リアム」


 床が震え、足元に巨大な魔法陣が浮かび上がる。


「さあ、儀式の始まりよ」


 遠くで、何万人もの声が沸き上がる。

 歓喜。叫び。祈り。狂熱。

 それが全て、リアムひとりのためだけに。

 儀式は、痛みの意味を知らない三歳の身体にはあまりに残酷だった。


 皮膚が剥がされ。血が抜かれ。肉が裂ける。


 リアムは泣くことすら許されず。

 死ぬことも許されず。ただ生かされた。


 回復魔法で最低限だけ修復されまた壊される。

 その繰り返しの地獄で、やがて彼の瞳は何も映さなくなった。


 感情も、痛みも、涙も、全部どこかへ消えた。

 四肢は鎖に吊られたまま、まるで壊れた人形のように動かない。


 やがて魔法陣の輝きが消える。

 女が勝ち誇ったように両手を広げた。


「儀式の準備は完了!魔女様の復活は、もうすぐ!」


 そして七つの血が同時に注ぎ込まれた。

 皮膚のない身体に、七本の血流が突き刺さる。

 その瞬間、世界が終わりを迎えた。

 リアムの瞳が光を宿す。


 魔女信仰者の歓声が上がり、それが最後の声だった。


 次の瞬間、神殿中の者たちが、声も出せず倒れた。

 圧死。爆裂。心停止。精神崩壊。

 理解する間もなく、数万の命が奪われた。

 リアムの身体が膨れあがる。

 魔女の力が暴走し、肉体が耐えられない。


 彼の周囲全て故郷さえも含めて、すべてが更地になった。


 だれも止められなかった。だれも救えなかった。


 そして、半日後。


 リアムの身体は裂け目に呑み込まれ、この世界から音もなく消えた。

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