12.二つの契約

 大量の回復薬と魔力回復薬を受け取った一行は、荒野の町ファランを出発し、広大なサハラーァの砂地を越えて、憩いの町ワーハへとひと月かけて辿り着いた。


 その間、不思議なことにザラームが『サラーブ・セイフ』の正しい使い方をアスファに教えてくれた。


「いいか。この『剣』を扱うときには、剣に魔力を奪われるのではなくて、意識して魔力を込めろ。魔力を込めたら、その魔力が拡散しないように、その場に留める必要がある。感覚としては、外に向かって逃げようとする魔力を手元に引き寄せるようなものだ。そうすることで刃の魔力密度が増し、攻撃力も向上する。もっと集中しろ」


 以前は口で説明されても理解できなかった。でも、踊り子の修行が進んでから、ようやく感覚で掴めるようになった。


 体内の魔力の流れに集中すると、その延長上に剣の魔力の流れがあることに気づく。油断すると拡散しようとする魔力を手元に押し留めるよう心の中に思い描く。すると、明らかに剣の刃の密度が増した。


「できた!」

「バカ、集中を解くな。その集中した状態を楽に維持できるようになれ」

「……難しい……」


 思わず弱音を吐いたアスファに、ザラームは追い打ちをかけた。


「本来は、『剣』を形成した状態で別の魔法を行使するのだ。このくらいで音をあげているようでは話にならん」

「も……もう一回」


 マイヤは何度もやめさせようとしたが、そのたびにハーディに止められた。アスファ本人がやる気になっているから、という理由で。これもまた彼女の宿命なのかもしれない。


 毎日、『サラーブ・セイフ』の起動を繰り返すことで、ようやくアスファはお喋りをしながらでも充分な魔力密度を保てるようになっていた。


 その日も、訓練の合間の何気ない会話をしているだけのはずだった。それなのに、どうしてあんなことになったのだろう。

 以後、アスファはその日の出来事を何度も思い返す羽目になる。


「なぁ、ザラーム。聞きたいことがあるんだけど」

「なんだ」

「あと十年足らずで第四カマル紀が終わる。そのとき、魔王はどうなる。人間として過ごすのか? それとも……」


 意外な問いに、ザラームはわずかに顔をしかめた。


「これまでは三度とも肉体を持たずに過ごしたな……何故、そんなことを聞く」

「いや、どうするのかと思っただけ。人間として過ごしてみる気はないのか?」

「好き好んで人間の中にいるわけではない。むしろ、俗物と縁が切れて清々する」


 俗物、という言葉に、アスファはほんの少しだけ悲しげな顔をした。


「そうか……」

「それがいったいなんだというのだ」

「なんでもない……」


 途端に元気をなくしたようなアスファの様子がザラームは気になって仕方がない。


「なんでもないことはないだろう。言え」


 不機嫌さを見せたザラームに、アスファは渋々答えた。


「……残念だと思っただけ。せっかく仲良くなったのに、消えてしまうことはないと思う」


 その言葉に、ザラームは思わず片方の眉を跳ねあげた。つまり、この少女はザラームがいなくなるのを惜しんでいるということだ。そう考えたら現金にも途端にザラームの機嫌がよくなった。それは犬猫などの愛玩動物に対するような愛着だったかもしれない。だが、ザラームの中には、この少女に対する執着が確かにあった。


「俺がいなくなるのは嫌か」


 頬に手を添えて顔を覗き込んでやれば、一人前にも顔を赤くするのが面白い。


「うん……寂しい、と思う」


 それでも目を逸らさずに答えたアスファに、ザラームは満足する。


「……ならば賭けをしよう」

「賭け?」


 首をかしげるアスファに、ザラームはうっそりと笑った。


「そうだ。俺に人間として生きる決意をさせれば、お前の勝ち。傍にいてやろう。ただし……俺の気持ちが変わらなければ、俺の勝ちだ。この器を殺し、お前も殺す。期限は、俺たち三人の『御魂分け』が完了するまで」


 発せられた言葉に、言霊に、アスファは血の気が引くのを感じた。自分たちは、いったいなにを。


「どうして……ザラーム……」


 ザラームの両手が、アスファの頬を撫で、ゆるゆると首筋を撫でていく。まるで獲物を手にかける寸前の猛獣のように。


 唇にヒヤリと冷たい感触を覚えた。冷たいのに温かい。それがザラームの唇だと気づくまでに、永遠とも思えるほどの沈黙があった。チュ、と音を立てて唇が離れていく。呆然としているアスファを見て、ザラームは凄絶に嗤った。


 唐突に、ゴチン、と派手な音を立ててザラームの頭が殴り飛ばされた。ハーディが拳骨を落としたのだ。


「ごめんなー、アスファお嬢さん、来るのが遅れて。怖かっただろ?」

「ハーディ……」


 何故か、ハーディの顔を見た途端に気が緩んだ。ハーディが来てくれた。これでもう、大丈夫。この息の詰まるような感覚から、逃れることができる。アスファは手を伸ばしてハーディに縋りついた。


「ハーディ……!」

「あぁ、うん。本当に悪かった。泣くな、泣くな。ちょっと目を離した隙に、こいつときたら……他になにかされたか?」


 よしよしと宥めるように頭と背中を撫でるハーディに、アスファは泣き声で訴えた。


「賭け、するって……」

「!」

「ごめんなさい……もう、契約から降りられない……」


 先ほどの口づけは契約の証。アスファは、魔王と契約してしまったのだった。ハーディの顔色が変わる。


「アスファお嬢さん、その賭けの内容、正確に教えて」

「えっと……魔王に人間として生きる決意をさせたら私の勝ち。傍にいてくれるって。ただし、魔王の気が変わらなければ魔王の勝ち。ザラームを殺して、私も殺すって……期限は、『御魂分け』完了まで」


 縋りついてくるアスファの言葉に、ハーディはわずかに瞑目すると、アスファの顔を覗き込んだ。


「……わかった。落ち着け、アスファお嬢さん。大丈夫。お嬢さんは死なせない。俺が護る。必ずだ。約束する」


 だから泣かなくていい。そう言われて安堵したときには、もう一度アスファの唇が塞がれていた。今度はハーディによって。


 ひとつは魔王との契約。もうひとつは、人を信じるという契約。どちらも、もう逃れられないものだった。



 その後の顛末は、怒号と悲鳴の飛び交う大混乱となった。


 結局、あのあと、現場を目撃されていたハーディはマイヤに平手打ちされ、バドルに足蹴にされた。


「信じられませんわ! まさか、よりにもよってアスファに手を出すなんて!」

「やっ、ちょっと待って、誤解だ、誤解だって! 先にアスファお嬢さんに手を出したの、俺じゃねぇし!」

「……どういうことですの?」


 鬼子母神のような形相で詰め寄るマイヤは普段がおっとりホワホワしているだけに相当怖かった。


「だからぁ、魔王のヤツが先にアスファお嬢さんに手を出したもんだから、消毒っつうか上書きっつうか……」

「それでも! 許せませんわ!」


 ハーディの断末魔の悲鳴が響き渡る中、アスファはポツリと口を開いた。


「……マイヤ姉様」

「なんですの? アスファ」

「ハーディの言っていることは本当……契約を……上書きしてくれた……私のこと……護ってくれるって……」


 アスファにはわかっていた。ハーディの口づけもまた、契約の証であることに。


「ごめんね……ありがとう、ハーディ」

「アスファお嬢さーん、それ、もうちょい早く言ってくれよー……俺、殴られ損、蹴られ損」

「どっちにしても、アスファに手を出した事実に変わりはありませんのよ!」


 怒れるマイヤに逆らうべからず。男たちは内心震えあがってそう認識したのだった。


「それにしても……あんた、よくアスファに手ぇ出す気になったよなー、魔王さんよー」


 ジアーがボソリと呟くと、ファリスもしかつめらしい顔をして頷いた。


「……ただの戯れだ」


 ザラームがそう嘯けば、ハーディが噛みついた。


「戯れで、無理やり契約させるかよ。しかも、あんな内容……」

「契約? なんの話だ」


 カウィの質問に、ハーディが事の次第を話して聞かせた。カウィはカンカンになって怒った。まずアスファに。


「だから、僕はいつも言っていただろうが! お前には危機感が足りないと!」

「う……」


 痛いところを突かれて、アスファが言葉に詰まる。カウィは続けて、ザラームを非難した。


「お前も、お前だ! こんな子供に無理やり契約させるなんて、正気か!? しかも、命を盾に取るとは……男の風上にも置けんヤツめ!」

「カウィ、そいつ、男である前に魔王なんだって……」


 ジアーが冷静にツッコミを入れる。ようやくカウィが落ち着いた頃、マイヤが二回手を打ち鳴らした。その場が一気に静かになる。


「よろしいですの? 確認しておきますけど契約した以上、魔王は約束を守るはず。つまり、『御魂分け』が完了するまではアスファに対して害を為さない、ということでよろしいですわね?」

「あぁ」


 ザラームの返事にマイヤが頷く。それからハーディにちらりと視線を寄越して目を眇めた。


「ハーディに関しては、今回は不問といたします。幸いにも? アスファを護る、と契約したようですし」

「全っ然不問じゃねぇと思うんだが……こんだけ痛めつけておいて……」

「黙れ、この人間クラゲ」


 小声で抗議するハーディに冷たく言い放ったのはバドルだ。


「話し合いたいのは今後のことですわ。ジアーは当てになりませんし……少なくとも、アスファはどうすべきか、わかっていますわね?」

「はい……ザラームと二人きりにはなりません」


 マイヤの迫力に、つい一番上の姉のナールを思い出して丁寧な喋り方をしてしまうアスファ。


「よろしい……では、各々、手が空いたときにはアスファの傍につくということで、よろしいかしら?」


 にっこりと綺麗に微笑んだマイヤに、誰も否と言えるはずもなく。


「私はそれでいいと思う。次からもう少し気をつけるようにするよ」


 バドルがそう答えた。ファリスとカウィも頷く。


「あたしは……」

「レイラちゃんはアスファお嬢さんと一緒にいること多いでしょ。舞踊の師匠なんだから。頼りにしているからなー」


 レイラの言葉を遮ってハーディが、へらっ、と笑う。レイラは自分の言葉を飲み込んだようだった。


「やれやれ、魔王さんはともかく、俺まで危険人物扱いかよ……」

「あら、違いますわ。役に立たないと言っておりますのよ? まったく、毒にも薬にもならない方ですこと」


 痛烈な批判に、ジアーは己の立場が不利だと悟る。


「毒になるよりマシじゃねー……?」


 控えめな抗議は黙殺された。


「結局、ワーハでは未来都市に関する情報は得られませんでしたわ。まぁ、小さな町ですもの。仕方ありませんわね……そういえば、聞きそびれましたけど、ハーディがファランの町で入手した情報ってどんなものですの?」


 マイヤの言葉にハーディは思わずがっくりと肩を落とした。


「今、それを聞くのかよ……まぁ、いいか。俺の聞いた話はこうだ。あるとき、町をすっぽり覆うほどの影ができた。なにかと思って見上げたら、巨大な積乱雲が上空にあった。数人の風使いたちが様子を見に出掛けたが、帰ってきた者は一人もいない……つまり、未来都市ムスタクバルは巨大な積乱雲の中にあるんじゃねぇかと」


 マイヤは秀麗な眉をひそめて反論した。


「冗談じゃありませんわ。もしそうでしたら内部は常に雷雨の嵐ではありませんの」

「そう。だから、もしかしたら雲に見せかけたなんらかの物質で覆われているのかもしれないって思って……」

「たったそれだけの情報で、あれほど得意げにしていたのか?」


 バドルの問いに、ハーディが、うっ、と言葉に詰まる。その時、アスファがポツリと呟いた。


「天空城……」

「なんだって?」


 聞き返したカウィに、アスファは繰り返した。


「どこかで似た話を聞いたと思ったけど、天空城の伝説に似ている。聞いたことはないか? お伽噺で……」


 それは誰もが子供の頃に大人から聞かされるお伽噺。それ故に、全員が目を丸くしたのであった。



 そして、再び獣車の中。


「信じてくれないとは、酷くないか?」

「俺もそう思う……アスファお嬢さんだけだぜ、俺の話を信じて真剣に考えてくれたのは……」


 アスファとハーディは二人でぶつくさと文句を言い合っていた。結局、あまりにも突拍子もない話だということで、誰も信じてはくれなかったのだ。


「雲の上にある天空城は、どういった仕組みかわからないけど、地上からは見えないという。ハーディの仮説とも合致すると思うのだけど……」


 うん、うんとハーディが頷く。


「だよな。こんだけ似ていたら、もうそのものって気もするよな……で、どういう話だったっけ? 実は粗筋だけであんまり詳しくねぇのよ、俺」


 ハハハ、と軽く笑うハーディに、アスファはため息をつくと説明を始めた。


「物語としてはよくある話で、伝説の勇者が魔王を倒して世界に平和をもたらすという勧善懲悪もの。その中で天空城は神の住まう城という位置づけになる。天空城へ辿り着くには世界一高い塔を登らなくてはならない」

「世界一高い塔? そんなもの、地上にはねぇぞ」


 思わず口を挟んだハーディに、アスファは最後まで聞けと続きを口にした。


「物語の中では空を飛ぶ手段がない。その代わり、世界一高い塔の中には天馬が封印されていて、その封印を解けば、天馬が天空城へ連れて行ってくれる」

「じゃあ、空を飛べたら問題なさそうだな。サマーァに、本性に戻って連れて行ってもらおうぜ」


 アスファは頷いたが、気になっていることがあった。


「だけど、どうして誰も帰ってこなかったんだろうな」

「んー、そのまま住み着いてしまったとか? 一応、行って帰ってきた人間がいないわけじゃないみたいだし」

「それにしては、地上に帰ってきた人間が少なすぎる気がする。なにか大事なことを見落としているような……」


 しきりに首を捻っているアスファに、レイラが口を挟んだ。


「天空の武器防具を身につけた勇者の存在を忘れているわよ」

「そうだ。物語にはその前提があった。詳しいな、レイラ」

「そりゃあね。旅芸人は吟遊詩人でもあるのよ。物語で吟遊詩人の右に出る者はいないんだから」


 胸を張るレイラに、アスファは尋ねた。


「天空の武器防具がない場合はどうしたらいい?」

「確か、天空人の血を引く人間なら無条件で出入りできるはずだけど……天空人って言われてもねぇ」

「天空城は神の城なんだろう? だったら、神の子孫ってことじゃないか?」


 ハーディの言葉に、アスファは思わずザラームを見た。ザラームは魔王。魔王は元・精霊。精霊は神の力だ。


「だとしたら、この中で条件を備えているのは、私、マイヤ姉様、カウィ、ファリス、そして、ザラームか」

「どうして?」


 レイラの質問に答えたのはマイヤだった。


「わたくしたち魔導師および魔法使いは精霊の血を引いていますの。精霊は神の力の一部。あり得ることですわ」

「サマーァを忘れているぞ。竜はもともと神の眷属だ。間違いなく天空城に入る資格を持っている」

「そうだった。悪い、サマーァ」


 律儀に謝罪するアスファに、獣車を曳くサマーァが問題ないとでも言うように嘶いた。


「っていうか、この獣車、サマーァが曳いているんだから、全員一緒に入れるんじゃねーの?」


 ジアーの言葉に、アスファ、ハーディ、レイラ、マイヤの四人が目を丸くした。そうかもしれない。


「たまにグサリとくるよな、ジアー」

「たまにはいいこと言うじゃありませんの」


 ハーディとマイヤの言葉に、ジアーは苦虫を噛み潰したような顔をした。


「あんたら、それ褒めてねーだろ……」


 アスファは我関せずとばかりに話を進めた。


「では、全員一緒に天空城もとい未来都市に入れるものと仮定する。問題は、空を漂う未来都市をどうやって見つけるかだけど……」

「それこそ風に聞け。お前の得意分野だろう」


 カウィの言葉にアスファはもう一度目を丸くした。それもそうだ。


「それに、先ほどから気になっていたんだが……天空城が未来都市であることを前提に話を進めているようだが、その前提に間違いはないのかい?」


 ファリスの疑問に答えたのは、なんとザラームだった。


「話を聞く限り、間違いではなさそうだ」

「何故わかる?」

「言い忘れていたが、この器の先天属性は『地』だ。大地から情報を集めれば嫌でもわかる」


 あっさりと言い放ったザラームに、バドルが噛みついた。


「お前の言うことなど、信用できん」

「その通りですわ」


 マイヤもバドルに賛同するが、ザラームは気にせずアスファを見遣った。


「……だそうだが、お前はどうする。決定権はお前にあるのだろう?」


 アスファの金色の瞳とザラームの金色の瞳が絡みつくように交錯する。息の詰まりそうな空気の中、アスファは途切れ途切れに言葉を紡いだ。


「私は……ザラームの言葉に嘘はないと思う。理由は前に言ったと思うけど、魔王は元・精霊で、精霊は言霊を大事にする。だから、魔王もその制約から逃れられない。それに、なによりも私自身が仲間の言葉を疑いたくないと思っている。だから……私は信じる」


 ザラームはアスファの答えに満足そうな笑みを浮かべた。


「お前、バカだろう。あんな目に遭ったというのに、まだ魔王を信じるというのか?」


 カウィの遠慮のない言葉に、アスファはうつむいて頷いた。


「ハーディとザラームは似ている気がする。黙っていることは多いけど、決して嘘はつかない。そんな感じだと思う」


 そう言い切ったアスファに、ハーディがギクリと身を強張らせたことには、魔王以外誰も気づかなかった。


 だがその信頼が、やがて新たな運命の扉を開くことを、このときのアスファはまだ知らなかった。

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