karte01:心療士ロイドと【依存する女】③

その夜、ロイドの診察室は、暖炉の炎だけが部屋を照らしていた。

マリーヌは、濡れた作業着を脱ぎ、いつもの黒いドレスに着替えていた。髪からは、まだ雨の雫が滴っている。

彼女は、ロイドの机の前に立ち、メモ帳を差し出した。

「……調査結果です。」

ロイドは、メモ帳を受け取り、ページをめくった。

暖炉の炎が、その文字を赤く照らし出す。

ロイドの目が、ページを追うごとに、険しくなっていった。

「……フィリップ・ダーウィンは、麻薬の密売人だった。」

マリーヌは頷いた。

「ええ。エリザベス・クロウに渡していた『頭痛薬』は、実際には阿片系の依存性薬物でした。『夢の粉』と呼ばれる、最近グリム地区で流行している麻薬です。」

「……そうか。」

ロイドは、メモ帳を閉じた。

「彼女は、薬物依存に陥っている。そして、その依存を利用して、ダーウィンは彼女を支配している。」

「その通りです。」

マリーヌは、報告を続けた。

「ダーウィンは、クラウン地区の中流家庭の令嬢たちを、意図的にターゲットにしています。最初は無料で『頭痛薬』を配り、依存症状が出始めたら高額で売りつける。そして……」

彼女の声が、わずかに低くなった。

「依存した女性たちを、『商品』として扱っています。金銭的な搾取だけでなく、性的な搾取も。」

ロイドの拳が、机の上で握りしめられた。

「……許せん。」

彼の声は、普段の穏やかなトーンとは違う、怒りを含んだものだった。

「エリザベスは……あの女性は、ただ孤独だっただけだ。愛されたかっただけだ。それを、あの男は……」

マリーヌは、ロイドの横顔を見つめた。

彼が怒るのを見るのは、久しぶりだった。

ロイドは通常、どんな患者の話を聞いても、冷静さを保つ。それが、心療士としての彼の強さだった。

だが、今、彼の目には、明確な怒りの炎があった。

それは、おそらく――かつて失った婚約者、アリシアのことを思い出しているからだろう。

マリーヌは、それを知っていた。

アリシアもまた、誰かに「依存」し、そして最後には――自ら命を絶った。

ロイドは、それを救えなかった自分を、今でも責め続けている。

だからこそ、エリザベス・クロウを救いたいのだ。

「先生。」

マリーヌは、静かに言った。

「私に、任せてください。」

ロイドは、彼女を見た。

「……マリーヌ?」

「エリザベス・クロウを、ダーウィンから引き離します。物理的に。そして、彼女がここで治療を受けられるようにします。」

「だが、ダーウィンは……」

「彼には、私が『話』をつけます。」

マリーヌの目が、冷たく光った。

「フィリップ・ダーウィンのような男は、法では裁けません。警察は彼と繋がっている。市議会も、彼の『献金』で黙っている。」

彼女は、窓の外を眺めた。

雨は、まだ降り続いている。

「だから、私が裁きます。」

ロイドは、何か言いかけたが、結局、何も言わなかった。

彼は、マリーヌの「裏の仕事」を、薄々知っていた。

そして、それを止める権利が、自分にはないことも知っていた。

なぜなら、マリーヌがいなければ、ロイドは患者を救えないからだ。

心の傷を癒すことはできても、患者を苦しめる「現実」を変えることはできない。

それができるのは、マリーヌだけだった。

「……マリーヌ。」

ロイドは、ゆっくりと口を開いた。

「あまり、無理はするな。」

マリーヌは、小さく笑った。

「心配しないでください、先生。これくらいなら、いつものことですから。」

彼女は、黒いコートを羽織った。

「明日の夜、ダーウィンに会いに行きます。そして……彼に、二度とクロウ令嬢に近づかないように『説得』します。」

「……わかった。」

ロイドは頷いた。

「だが、気をつけてくれ。」

「はい。」

マリーヌは、ドアに向かった。

だが、ドアノブに手をかけたところで、彼女は振り返った。

「先生。」

「何だ?」

「……あなたは、患者を救おうとしている。私は、それを手伝っているだけです。」

彼女の声は、いつもの冷たさとは違う、わずかな温かみを帯びていた。

「だから、罪悪感を感じないでください。私がやっていることは、私自身が選んだことですから。」

ロイドは、マリーヌの目を見つめた。

その目には、強い意志と、そして――ロイドへの、深い信頼があった。

「……ありがとう、マリーヌ。」

マリーヌは微笑むと、部屋を出ていった。

ロイドは、一人、暖炉の前に座った。

炎を見つめながら、彼は呟いた。

「エリザベス・クロウ。君の心の檻は、外側からも鍵がかかっている。だが、必ずそれを開く。君を、あの男から解放する。」

暖炉の炎が、静かに揺れていた。

三日後の朝、エリザベスは再びクリニックを訪れた。

だが、待合室に入ってきた彼女を見て、マリーヌは思わず息を呑んだ。

エリザベスの様子は、前回よりもさらに悪化していた。

顔は土気色を通り越して、青白く、まるで蝋人形のようだった。目の下には深い隈が刻まれ、その目は焦点が定まっていない。唇は紫色に変色し、ひび割れて血が滲んでいた。

彼女の手は、激しく震えていた。ハンドバッグを持つこともままならず、床に落としてしまう。

「クロウさん……」

マリーヌは、すぐに彼女に駆け寄った。

エリザベスは、マリーヌの顔を見ると、まるで溺れる者が浮き木にすがるように、彼女の腕を掴んだ。

「助けて……助けてください……」

彼女の声は、かすれていた。喉が渇ききっているのだろう。

「もう、だめなんです……フィリップが……彼が、もう薬をくれないんです……」

「落ち着いてください、クロウさん。ここは安全です。」

マリーヌは、エリザベスをソファに座らせた。

「先生を呼んできますから、少し待っていてください。」

だが、エリザベスは、マリーヌの腕を離さなかった。

「待って……待ってください……一人に、しないで……」

その目には、深い恐怖があった。

それは、薬物の離脱症状による不安だけではない。もっと根源的な、「一人になること」への恐怖だった。

マリーヌは、エリザベスの隣に座った。

「大丈夫です。私はここにいます。」

彼女の声は、いつもの冷たさとは違う、温かみを帯びていた。

エリザベスは、マリーヌの腕にすがりつきながら、震え続けた。

「私……私、どうしたらいいの……頭が、身体が、言うことを聞かないの……」

「クロウさん、あなたは今、とても辛い状態にいます。でも、それは乗り越えられます。」

マリーヌは、エリザベスの背中を優しく撫でた。

「先生が、あなたを助けてくれます。私も、あなたを助けます。だから、諦めないでください。」

エリザベスは、マリーヌの顔を見た。

その目には、わずかな希望の光が灯っていた。

「……本当に?」

「ええ、本当です。」

その時、診察室のドアが開き、ロイドが出てきた。

彼は、エリザベスの様子を一目見て、すぐに状況を理解した。

「エリザベス。」

ロイドは、彼女の前に膝をついた。

「よく来てくれました。辛かったでしょう。でも、あなたは勇気を出して、ここに来た。それだけで十分です。」

エリザベスは、ロイドの目を見つめた。

そして、堰を切ったように、涙が溢れ出した。

「先生……助けて……私、もう……どうしたらいいのか……」

ロイドは、エリザベスの震える手を、優しく握った。

「エリザベス、あなたは病気です。でも、それは治せる病気です。時間はかかります。苦しいでしょう。でも、私はあなたを見捨てません。」

「……本当に、治るんですか?」

「ええ。あなたが諦めなければ、必ず。」

エリザベスは、涙を流しながら頷いた。

「私……私、頑張ります……もう、こんな生活は嫌なんです……」

ロイドは立ち上がり、マリーヌに目配せした。

マリーヌは頷くと、エリザベスを支えて立ち上がらせた。

「クロウさん、まず、あなたをクリニックの上階に滞在させます。そこで、ゆっくりと休んでください。」

「でも……フィリップが……彼が、私を探しに来たら……」

「大丈夫です。」

マリーヌは、きっぱりと言った。

「彼は、もうあなたに近づけません。私が保証します。」

エリザベスは、マリーヌの目を見た。

その目には、強い意志があった。

それは、エリザベスを守ると誓う、確かな決意だった。

「……ありがとう、ございます……」

エリザベスは、力なく微笑んだ。

マリーヌは、エリザベスを上階の部屋へと案内した。

部屋は小さいが、清潔で、暖かかった。ベッド、机、そして窓からは、キラースシティの街並みが見えた。

「ここで休んでください。何か必要なものがあれば、いつでも呼んでください。」

「はい……」

エリザベスは、ベッドに横たわった。

マリーヌは、彼女に毛布をかけた。

「クロウさん、これから辛いことがたくさんあるでしょう。でも、あなたは一人じゃありません。先生も、私も、あなたの味方です。」

エリザベスは、涙を流しながら頷いた。

「ありがとう……ありがとう……」

マリーヌは、部屋を出た。

廊下で、ロイドが待っていた。

「マリーヌ、ダーウィンは?」

「今夜、彼に会いに行きます。」

マリーヌの目が、冷たく光った。

「そして、彼に二度とクロウ令嬢に近づかないように『説得』します。」

ロイドは、何も言わなかった。

ただ、彼はマリーヌの横顔を見つめていた。

彼女は、自分が決して踏み込めない「闇」の中で、患者を救うために手を汚している。

それは、ロイドにとって、感謝と同時に、深い罪悪感でもあった。

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