穏やかなる世界のために

うつぼ

岸本

 空を横断するヘリコプターのプロペラ音がやかましい。その影がアスファルト仕立ての道路に足跡を残し、蟻塚のような高層ビルが密集し立ち並ぶ。すき間から差し込む一瞬の太陽光、まぶしさに思わず目を細めた。

 街が人込みを作るのか。それとも、人込みが街を作るのか。鶏とひよこの理論に似ている。信号機の下、戦争の合図を待つ兵隊のように誰もが無意識に整列し、信号が赤から青へと変わるのを待っている。芸能人の派手な広告が覗き込むように笑っていた。信号が変わると同時に早まる足音とけたたましいクラクション、いつもと変わらないリズミカルな街だ。

 街のリズムに合わせて、踵の削れた革靴で道路を叩き鳴らしてみた。私の小さな足音など誰の耳にも留まらない。私は喫煙可能エリアであること、周りに誰もいないことを確認し、紙煙草に火を点ける。喫煙者撲滅運動激しい世の中、電子煙草全盛時代に紙煙草を吸う自分はレッドリストにある準絶滅危惧種と変わらない。ただし、誰も保護してくれないが。

 いつもの街は世界においてただ一つの点に過ぎない。大きな画用紙に穿たれた小さな点が街を作る。点は線となり、国を作る。国は面となり、立方体となり、世界を作る。点から未来への道が始まる。全ては穏やかなる世界のために。カワハラがそう言った。カワハラとしか分からない男の口車に何故乗ったのか。三〇年前のことを思い出すと少し笑えた。今更であるが、馬鹿げていると思う。馬鹿げているが、あの頃、あの時、それにすがるしかなかった。そして、私は救われた。紙煙草の煙を吐くと道行く人が顔をしかめた。ああ、もう時間だ。カワハラの指示通り事を成さねばならない。これは契約なのだから。



 芽生とは私と妻の娘だ。生まれて、三カ月で医師に拡張型心筋症と診断された。根治する方法は心臓移植しかない。心臓移植ができなければ、芽生に緩やかなる死が訪れる。臓器移植に関する法律、通称臓器移植法は幾度も改正され、現在の形に辿り着く。脳死を人の死と認めることから始まり、これまでは脳死状態のまま、失われていた希望を拾い上げることも可能となった。臓器移植の意思が確認できない子供であっても、代理人である両親の決断で臓器が提供できる。一五歳未満の子供であってもだ。

 法律の改正で救われる命はあった。それは稀な確率。法律で命の線引きを整備しても、脳死状態の我が子を切り刻みたい親などいない。子供は生きているのだ。こんなに子供が辛い思いをしている。声を上げられない子供に寄り添い、限られた時を費やす親が大半。それは正しい。間違ってなどいない。同じ立場であれば、私も妻もそう選択するだろう。それでも、芽生に心臓をくれ。誰でもいいから。そう願った。

 心臓をくれない世界を恨み、やりきれない思いだけがぐるぐると廻る。国内での心臓移植など絶望的な確率。国外ではどうか。それだけの資金がないから、国外で心臓移植をするため、クラウドファンディングで寄付を募る。興味本位でもいい。少しずつでもいい。芽生のためにできることを全てやる。そんな覚悟で始めたクラウドファンディングに興味を持つのは最初だけ。世界は冷たい。その後の結末はネット上の誹謗中傷だ。子供を食い物にする親と揶揄されても、私と妻は耐えた。芽生の心臓のため。それでも、届かない。ただ刻々と時間が過ぎていった。

 心臓が欲しい。ただそれだけを考えていた。そのためなら、悪魔に魂を売ってもいい。冗談じゃない。本気だ。心が壊れていく。そして、スマホが鳴った。

「やあ、はじめまして」、言葉が滑らかに絡みつく。

「岸本さんですね。カワハラと言います」、私はこのカワハラという男を知らない。またネット上の誹謗中傷に乗っかった輩だろう。何も言わず、電話を切ろうとした。

「電話を切ってはいけない。あなたの子供、芽生さんに心臓を与えることができるのは私だけですよ」、言葉が心に突き刺さる。芽生に心臓を与えることができる。何度も願い、足掻き、諦め、また願う。妻と二人で繰り返してきたことを簡単に口にし、カワハラは続けた。

「芽生さんに心臓をあげます。代わりにあなたにしかできない仕事をしてもらいます」、臓器移植がどれほど困難か身を持って知っている。これまで私と妻は足掻き続けた。それでも、心臓には届かなかった。そんな現実がこれからも続くと思っていた。まるで悪魔の囁きだ。心臓の代わりに仕事を。シンプルな飴と鞭。芽生の心臓と引き換えであれば、悪魔に魂を売ってもいい。私の願いが届いたのか。

「仕事を受ける。そう答えていただければ、臓器移植ネットワークから連絡が入ります。ドナーが現れたと。あなたが断れば、もう心臓は手に入らない。病院のベッドで青い空も、青い海も知らないまま芽生さんの世界は小学校に入る前に終わります。全てはあなた次第です」、小学校に入る前、つまりはあと三年しかないということ。三年という数字にどこか現実めいたものを感じた。

「岸本さん、あなたは断りません。あなたは芽生さんを愛しているのだから」

「分かった。何をすればいい」

「慌てないでください。まずは芽生さんの移植手術が先ですよ。十二分に幸せをかみしめてください。手術が成功し、時が来たら、こちらからご連絡します。全て穏やかなる世界のためなのです」、スマホがプツリと音を立てて切れる。

「おい、待て」、私は声をあげたが、すでにスマホは切れている。スマホには着信記録すら残っていない。これは幻聴だろうか。芽生に心臓をくれるという白昼夢に私は呆然とするしかなかった。


 家に帰ると受話器を持って、妻が泣き崩れていた。白昼夢のことを話すべきか迷った。こんな馬鹿げた話が余計に妻を傷つけるのではないか。口ごもる私に妻が先に言葉を吐く。「ねえ、芽生が治るよ。ドナーが見つかったの」、妻が喜び、声を上げた。芽生のためにずっと頑張ってきた。どんなに絶望的な未来しか見えなくても、必死でこらえてきた。「ああ、よかった」、私は妻の肩を強く抱いた。あれは白昼夢ではない。だが、今はいい。カワハラのことなどどうでもいい。ただこの幸せをかみしめよう。「うん、よかった。よかった」、何度も声に出して、私も涙を流した。

 ドナーが決まってからはトントン拍子に話が進む。心臓移植を心待ちにしながら、絶望的に過ごしたこの数年間が嘘のようだった。カワハラが言った通り、ドナーから心臓が提供され、スムーズに移植手術が行われ、成功する。

 手術後も順調だった。退院した芽生を連れて、海に行った。青い空の下、青い海で砂浜を元気に走り回る芽生、妻が涙ぐみながら喜んでいる。芽生との未来、これから始まる世界に妻は幸せな笑顔を見せる。私も一緒に笑ったが、あの白昼夢を忘れることができなかった。


 何の前触れもなくスマホが鳴る。予感だろうか。これがカワハラからの連絡だと出る前から分かった。

「やあ、岸本さん、手術の成功、おめでとうございます」、芽生の移植手術が成功したことも、もうすぐ小学生になることもカワハラは全てを知っている。

「よかったですね。本当に。あなたの望みを叶えた。理解できますね。では、仕事の話です」、飴と鞭、悪魔に魂を売った私の末路だ。断ることなどできない。カワハラがどういう人間か知らない。悪魔なのか。神様なのか。それも定かではない。だが、理解できない力を持っていることだけは分かる。

「街は小さな点です。点は線となり、国を作る。国は面となり、立方体となり、世界を作る。点から未来への道が始まる。小さな点から未来が始まっているのです。全ては穏やかなる世界のために。未来の起因となったその小さな点を抹消してもらいます。」

「小さな点?」

「そう、小さな点、佐伯慎吾という名前の男を殺していただきます」、カワハラが言葉を続けた。三〇年後の五月一〇日八時二八分に一八歳になる佐伯慎吾という男を殺すこと。これが飴と鞭の鞭だ。それ以外は何もしなくていいと言う。

「三〇年後?どういうことだ?」

「全て穏やかなる世界のためです」、カワハラは佐伯慎吾という男が何者かは言わない。全く話が見えなかった。いや、元々見えていない。名前しか知らない男。だが、芽生の心臓をくれた。未来をくれた。私はカワハラと契約をした。馬鹿げた契約である。反故すればいい。契約反故の代償はどうなる。芽生の未来を守らなくてはいけない。そのためにはこの契約を反故してはならない。

「一つアドバイスしておきますね」、契約反故の代償か。

「もし芽生さんの未来を守りたければ、私の指示通りにするといい。まず岸本という名前を捨てることです」

「何?」

「三〇年後、芽生さんが人殺しの娘にならないよう。三〇年後であっても、殺人者の家族では幸せになれませんよ。人の縁はかなり深いです」、意外な言葉だった。てっきり芽生の命を盾に脅されると思った。

「岸本さん、私は穏やかなる世界のためだけに動いています。ただ、そのために芽生さんまで犠牲になる必要はないと考えてます」、何を優先的に考えなくてはいけないのか。決断するのは私だ。だから、私は契約を守らねばならないのだ。

 私が考えるべきこと。愛する妻と芽生のためにできること。それは明らかだった。私という人間がいなくなることだ。妻と離婚し、養育費という名目で全財産を妻に渡す。三〇年後に人殺しとなる父親などいらない。二人を不幸にするだけだ。仕事を辞め、これから二人で生きていけるように全てを尽くすこと。「離婚しよう」、唐突に妻に突きつける言葉。「どうして?芽生が小学生になるのに」、妻の後ろに真っ赤なランドセルが見える。妻のすがる手をゆっくりと剥がす。「これしか方法がないんだ」、他に好きな人ができたとか、いっそくだらない嘘がつければよかった。最後の踏ん切りがつかないから、その言葉が吐けない。愛しているから別れる。そんな言葉も吐けない。芽生と妻から離れると決断したくせに。芽生のために悪魔に魂を売った。後悔していない。青い空の下、青い海に向かって、芽生と妻と三人で走った。脳細胞に思い出を刻みつける。悪魔に魂を売らなければできなかったことだ。これから芽生は色々なことを経験する。子供らしく笑い、その成長を妻が見守ってくれる。私はそれだけでいい。「頼む。別れてくれ」、私は泣いていた。妻の前で土下座をして、サインした離婚届を渡した。これでよかったのだ。これで。


 あれから三〇年経った。妻と芽生は今どこにいるかも知らない。二度と会わないと決め、二人が住む街を離れ、ひっそりと一人で時を刻み、二人の幸せを祈ってきた。そして、とうとう運命の日がやってきた。三〇年後の五月一〇日、八時二八分。私の目の前を男が通る。白いシャツにジーパン。耳には無線イヤホンを突っ込んでいる。情報通りの格好をしている。佐伯慎吾だ。紙煙草を吸い終えて、携帯用灰皿に吸い殻を入れる。これが最後の紙煙草だろう。私は佐伯慎吾の背後に忍び寄った。佐伯慎吾は私のことなど気にしない。右手で掴む紙袋には刃渡り一五センチのアーミーナイフが入っている。佐伯慎吾を殺すための凶器だ。アーミーナイフというチョイスも全てカワハラの指示。私は今岸本ではない。名前のない男だ。岸本という男はもういない。

 高層ビルはただ太陽光を反射する。光の中、流れていく人の群れが鰯の大群のように集団で動く。その集団の中で佐伯慎吾と私がいた。私は悪魔に魂を売った。芽生の心臓のために。涙が流れる。紙袋がカサカサと音を立てた。「背後からアーミーナイフを奥深く突き刺し、引き抜き、また突き刺す。確実にとどめを刺すんだ」、カワハラの指示通りアーミーナイフを佐伯慎吾の背中に刺した。噴出する血液に世界が赤く染まる。佐伯慎吾は前のめりに倒れ込む。私は馬乗りになって、その背中を刺し続けた。

 アーミーナイフが佐伯慎吾の内臓を裂き、骨に当たる。音と感触が手を伝って、脳に届く。私は何をやっているのか。芽生の未来と引き換えに奪う佐伯慎吾の命。佐伯慎吾という男が何者かも知らない。しかし、父も母もいるだろう。その父、母は子供の喪失に悲しみ震える。私と同じだ。心臓がなければ、私と妻は芽生を失い、埋められない喪失感を抱えたまま死んだように生き続けるしかなかった。そんな私の人生を請け負ったのはこの佐伯慎吾の父と母。私の代わりに深い悲しみと喪失感を抱えたまま死んだようにこれからを生きる。私は生きていていいのだろうか。このまま警察に逮捕され、名前のない私は被疑者Aとして裁判にかけられる。動機などない。カワハラとの契約も話す気はない。全て黙秘し、裁判はきっと無期懲役で終わる。何も知らないワイドショーは私の心の闇を解明しようと、私という人間の情報を探る。だが、岸本という人間を捨てた私にたどり着くことはない。一時的に被疑者Aという言葉がネット検索ワードのトップを飾り、新しい情報に上書きされ、ランク外に落ちていく。ランク外に落ちるだけ。世の中が決して私のことを忘れることはない。必ず私を思い出す。あの殺人鬼被疑者Aのことを。無期懲役であれば、マスコミの定期補給のいい餌だ。そのたびに佐伯慎吾の父と母は傷つき、悲しみ震えるだろう。だから、私が生きていてはいけない。私は罪を犯した。芽生のため、妻のため、罪を犯した。その裁きは受けなくてはいけない。

 パトカーのサイレンが徐々に近づいてくる。私を中心に人込みが淀み留まる。私が佐伯慎吾を殺す姿をスマホで撮影し、ライブ中継する。人混みの中に留まる彼等は佐伯慎吾を救うこともせず撮影を続けている。世の中はこういうものなのだ。興味本位で誰もが人を簡単に傷つける。とても穏やかなる世界のために。カワハラは言った。きっとそれは誰かの犠牲に成り立っている。カワハラは私にとっては神様であるが、きっと神様ではない。悪魔だ。

 佐伯慎吾の背中からアーミーナイフを引き抜き、自分の首元に当てる。このまま喉をかっきればいい。全て終わる。ああ、死ぬのが怖い。それでも、死ななくては終わらない。芽生が、妻が幸せであればそれでいい。それが私の世界の全てだ。幼き芽生の姿。不器用に一生懸命走る姿。嬉しそうに笑う妻。終わりのない空の青色。幾重にも重なる波間に泡立つ海。脳細胞に刻まれた思い出を忘れるな、その景色を。死という恐怖の前に歯を食いしばる。歯茎から血の味がじわりと滲んだ。ゆっくりと首元にアーミーナイフが食い込んでいく。皮膚を、筋肉を裂き、血管に到達する。人込みが震えて悲鳴を上げた。一瞬だ。弾力のある血管がはぜ、勢いよく血が噴出した。出血量と比例し、体から熱が溶けるように消えていく。じわりじわりと忍び寄る死の足音。すでに音は聞こえなくなった。サイレンの音も、街の騒音も何も聞こえない。視界に映るべく景色も色を失い、崩れていく。これが死だ。もう恐怖はない。とても穏やかな気分だ。ここはとても穏やかなる世界だ。

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