第34話 弘美、講師の笹本恒夫と親密になる
笹本恒夫が弘美を案内したのは祇園四条に在るラグジュアリーな雰囲気のカジュアル・フレンチ店だった。二人は窓際の席に向かい合って座った。
弘美は店の常連と思われる客達に眼を見張った。
彼女は人気急上昇中の若い俳優の方をじろじろ見ないようにした。名の売れた女性歌手も居た。テレビでよく見るキャスターとか、何と、文学賞を受賞したお笑いタレントも居たのである。棋士やスポーツ選手などのサイン入り色紙も数多く飾られていた。
笹本はワインとコース料理を注文してから、弘美に言った。
「家の人に電話をしておいた方が良いんじゃないかね」
「ええ、そうしますわ」
弘美は答えて洗面所の方へ行き、スマホの番号をプッシュして母親に嘘の言い訳を繕った。
「今日の講義は素晴らしかったの。で、これから、クラスの女性と一緒に、数人で食事をしながら講義の続きを語り合うことになったの。そう言うことなので、少し遅くなるけれど心配しないで」
母親はいつものように物静かに理解を示してくれた。
弘美は電話を切って席へ戻った。
笹本が訊いた。
「君はどんな仕事をしているの?」
「ええ、あのう、小学校の教師なの」
弘美が答えた。
「未だ、成って一年半ほどしか経っていないけど・・・」
「へえ~、小学校の先生?」
彼が好奇心を露わにした。
「驚いたなあ、小学校の先生に逢うのなんて、子供の頃以来だなぁ、それもこんなに若い美人の先生なんて・・・」
笹本は彼女の全ゆることを知りたがった。
どうして先生になりたいと思ったのか、嘗て憧れた先生は居たのか、目指すべき教師の理想像は有るか、これまで先生に裏切られたことは無いか、教師の役割や任務について、先生の毎日の生活について、彼女自身の将来について、成って欲しい子供の姿について、などなど、全てを知りたがった。
弘美はワインを啜りながらよく喋った。グラスを重ねる毎に喋繰りはエスカレートした。笹本は、まるでレストランの中に二人以外は誰も居ないかの如く、弘美に徒ならぬ注意を集中して彼女の話に聞き入った。
やがて、食事が終わり、二人は外へ出た。
「また話がしたければ、電話をしてよ」
笹本はそう言って泊っているホテルの前でタクシーを降り、足早やに別れて行った。彼は弘美をタクシーで家まで送らせた。彼女は運転手に言って近所の角の辺りで車を停めた。
家に入ると両親がリビングで起きて待って居た。
「ただいま・・・」
「遅いじゃないか、何時だと思っているんだ?」
父親が不機嫌に言った。
「少しワインを呑み過ぎたみたい」
「こんなことがこれからも起るようじゃ儂は許さんぞ」
父親は立ち上がりながら言った。
「カルチャー・スクールへ通い始めたからと言って、女学生のように振る舞って居ちゃ駄目だ。女ばかりが群れつるんで、一体、何時だと思っているんだ?深夜まで外で小説書きの話に耽るなんて・・・」
「それ、どういう意味?」
「お前は学校の先生なんだぞ!幼い子供を教育する責任ってものがお前には有るんだ。生徒に問われたら何と応えるんだ?」
父親は怒ったまま、母親を促して、寝室へ入って行った。
両親がリビングから出て行った後、弘美は思った。
わたしは二十四歳にもなるのよ。その私をまるで子供扱いしている。心配しなくてもちゃんとやって居るわよ、自分の娘をもう少し信頼したらどうなの?・・・
それから、弘美はせっせと何本もの小説を習作し笹本に見て貰った。彼は、それらを読んだのか読まなかったのか、何の講評も彼女に語らなかった。
だが、三カ月後、その習作の中の一篇に京都を舞台にした「京都慕情」という作品が在った。執筆に未熟な弘美には長いものは未だ書けなかったので、それはペラ三十枚ほどの作品を十篇集めた短編集だった。
ビッグな女性スーパースター歌手の切ない恋のひと時を描いた「ザ・グレイトスター」
両親と死に別れて寂寥と孤独を囲うOLと彼女を励まし愛しむ若き宮大工の深い愛「二輪草」
愛し合いながらも遠距離恋愛で互いの思いが届かず、男が高校の初恋の相手と寝たのを機に二人の愛が亀裂する「裏切り」
男に騙されて銀行預金を横領した美人行員と、彼女を自分の旅館に匿って女が服役してからも支え愛し続ける男の一途な愛「真夏の陽炎」
デビュー曲欲しさとテレビに出たさに作曲家に犯され、仲介した所属プロの社長を殺す歌手の卵とその恋人「喝采の陰影」
単身赴任の技術者と夫に死別したおばんざい屋の女将の秘めた大人の愛「秘めた愛」
愛する女の為に警察の犬となった男とカトリック信者の女歌手との哀しい恋「ボクサー崩れ」
弟の若い婚約者と逢った夜に自身の寂寥をしみじみ囲う三十路のホステスと、彼女に長年の思いを告白して求婚する高校の同級生「すれっ枯らし」
結婚を切望した相手の子を孕みながらも、曖昧で無責任な男の態度に堕胎を決断した女とそれを知った男との深い亀裂「背信」
報道カメラマンと女性記者の愛と別れと再会の物語「雨の再会」、などなど・・・
笹本が初めて批評らしい批評をした。
「京都を舞台に、人々の心が行き交い濃い人間関係が紡がれていく物語だね。温かい関りだけでなく別れや傷つけ合いなど、緻密でみずみずしい心情描写に強く共感出来るよ。人間がしっかり描かれている小説だと思う」
聞いた弘美は胸が躍った。
「この作品は京都の描写が非常に秀逸だよ。伝統ある日本文化の中心であり、雅な雰囲気が漂う京都の美しさの表現が卓越的だ。まさに題名通り、京都に対する慕情が心の底から湧き上がってくる。五山の送り火や歌人の名前など、京都ならではの固有名詞が挙げられていることからも独特の情緒が感じられて楽しい。君の豊かな感性が生き生きと文面から伝わってくる。また、最後にヒロインと主人公が再び結ばれる物語展開によって、とても温かい気持ちに包まれる。紆余曲折を経てお互いの気持ちを確かめ合い許し合う二人の姿がとても美しい。京都の長い歴史に沿い、人々が想いを紡ぎ続けるという物語の構成は非常に読み応えがある。京都を舞台にした物語はたくさんあるけれど、登場人物一人ひとりの個性がはっきりとし、喜怒哀楽が豊かに描かれているものはあまり無い。素晴らしい京都小説だよ」
彼は更に熱く語り続けた。
「しっかりとした文章で完成度の高い作品に仕上がっているよ。全体の構成も良く、キャラクター造形も巧みだ。小説作品で大切なのは、読者を如何にその世界に引き込むかと言うことだが、この作品は先へ先へとページを捲らせる力を持っているところが魅力的だね。単なる自己満足ではなく“読ませる”という意識の高さが伺えるよ」
最後に、笹本は弘美を激励するように、こう結んだ。
「君も知っているように、小説やエッセイなどの散文というものは様々な題材を取り上げ、書き手なりに料理しなければならない。この作品にみられる姿勢も良いけれども、よりじっくりとした姿勢でアプローチした方が上手く描ける題材も在る。小器用になる必要はないが、筆を使い分けるのもまた執筆の醍醐味だ。これからもこの感性を大切に色々なジャンルやテーマ、語り口に挑戦して、書くことを愉しんで欲しいと思うよ」
弘美は心が熱くなって言うべき言葉を失った。
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