第30話 二人は今や顔見知りになった 

 彼女は朝のいでたちも美々しく、眼に愛情を秘めて、足取りも軽やかに電車に飛び乗った。忠雄の執拗な視線に逢って彼女は此方に顔を向けたが、急いで眼を下に落とした。と、微笑が生まれ出る時のように一つの微かな襞が口の隅を少し窪ませた。忠雄は、未だ言葉こそ交わしていないものの、二人は今や顔見知りになった風に思った。


 夢想3・・・

陽春の好天気が続いている或る日、忠雄は美春を誘ってドライブに出かける。

大地は眼覚めて若返り、空気のかぐわしい温気が肌を撫でて胸に入り、心臓そのものにまで浸み込む。こういう季節には幸福に対する漠然とした欲望が湧いて来る。春を満喫したい、何か良い目にありつきたい、そんな欲望に駆られる。直ぐ先に来る薫風五月の到来を待つ心には、全身に廻った酒の酔いのように、満ち溢れた精力の迸りがある。街で出逢う人々は誰もが微笑んでいる。幸福の息吹が、蘇った春の温かい光の中、至る所に漂っている。街には魔風恋風が吹いている。渺茫たる青空の下で人の群が賑やかにざわめいている。

忠雄の隣には美春が座っている。如何にもファッションデザイナーらしい粋好み、こめかみでカールした髪の下に明色の可愛い顔が在る。縮れた光線のような髪の毛は耳元に垂れ、襟首まで走って風に靡いている。

車は何処をどう走ったのか、又、何故とも判らずに、鴨川の上流岸に出ている。川は静かに流れている。暖かな平和が辺り一面に漂っている。生命の囁きが空間を埋めているように思われる。

隣の美春が眼を挙げて微笑む。その様子が如何にも魅力的である。そして、その素晴らしい視線の中に諸々のものが見えて来る。忠雄のそれまで知らなかった諸々のものが、未知な深いものが見えて来る。愛情の美しさ、互いが夢見る詩、二人が絶えず探している幸福が其処に悉く見えて来る。忠雄は狂おしい欲情に駆られる。両腕を拡げて美春を何処かに浚って行き、愛の言葉の妙なる楽の音を耳元に囁いてやりたくなる。

車は市街を抜けて桜花爛漫の山間を直走っている。深い山間へ入ったところで忠雄が車を停める。辺りには車も人影も無い。

忠雄がいきなり美春を抱擁して唇を重ねる。

彼女は一瞬、抗って彼を押し返そうとするが、全身の力が抜けてしまって、忠雄に強く抱き竦められたまま夢中で彼の首に腕を廻す。

暫くして二人が顔を離した時、美春の頬を涙が伝い落ちる。

「悪かった・・・」

そう言って、忠雄が美春の涙を吸い取る。

「好きなんだ、君が!初めて逢った時から・・・いつかこんな日が来ることを予感していたんだ、僕は」

「あたしも・・・」

美春が渇いた声で言って、忠雄の胸に顔を埋める。

忠雄が美春の躰をシートの上に押し倒して彼女の上着を剥ぎ取ろうとする。美春は一瞬、眉を険しく寄せ、息を詰めて忠雄を凝視する。

と、突然、忠雄の肩を、もう一人の上原忠雄の手が叩く。

「お前。恋は幻だぞ!恋は危うい!要注意だ!」

忠雄は眼を挙げて、顔を顰める。

上原忠雄が続けて言う。

「寒気と雪を伴った冬がやって来ると、医者は患者に言うだろう、“冷え込み、風邪、気管支炎、肺炎に用心するように”って。其処でお前は厚手のシャツを着たり外套を羽織ったりして用心するだろう。ところが、暖気と花と軟風と共に春がやって来ると、取り留めない悩みと訳の判らぬ感傷から身も心も浮足立って恋に堕ちるだろう。恋は要注意だ。恋は危うい!恋は至る所に待ち伏せしてお前を狙っている。あらゆる奸計を張り巡らせている。恋のあらゆる武器は研ぎ澄まされている。恋は要注意だ。それは風邪や気管支炎や肺炎よりも危険だ。取り返しの着かない厄介を齎す。“春来る!恋に注意!”だ」

忠雄が不快な貌で言う。

「要らぬお世話だ、放っといてくれ!」

上原忠雄が続けて言う。

「否々、お前は今、恋に捕まえられようとしている。それを前以って言うのは俺の義務だ。危険な場所で溺れかかっているお前を見て、知らぬ顔は出来ないよ。春になって陽気が良くなると、女が特別よく見えるものだ。女には酔わせるような、ぼう~っとさせるような、何か一種特別のものが在る。チーズで飲む酒と全く同じだよ」

「それで?」

「お前はこれまで毎日飽きることなく執拗に彼女を眺めているだろう?」

「そうだ・・・それがどうした?」

「じい~っと観察した結果、もう話を切り出しても良いと思っているだろう?古くからの知合いのような気がしているだろう?」

「まあ、な」

「彼女も毎日お前の値打ちを鑑定して、躊躇いつつも、承知するだろう、きっと。この川岸にも、若葉の新芽が太陽の光を浴びているし、愛し合っている小さな昆虫もうようよ居る。小鳥の歌も処々方々から聞こえて来る。お前も彼女も小躍りしながら、飛び跳ねながら、駆け出すだろう。時によると、人間なんて動物と同じなのだよ」

忠雄が躰を離して美春を見遣り、美春も彼をじっと見詰める。二人は眼と眼を何時までも見合う。美春の眼が忠雄を攪乱し、侵入し、占有し、支配する。彼女のその眼は思わせぶりと無限を湛えて深々と忠雄を見詰める。まるで魂を見る眼の如きである。忠雄は夢中になり、狂いそうになって、彼女を再び抱こうとする。

「手を引っ込めろ!」

忠雄は、その気になれば、今、彼女を物にすることが出来る、と一瞬思うが、然し、其処で彼は考え、悟る。

・・・二人が求めているものは肉体じゃなく、愛情なんだ。理想なんだ。感情に走ってはいけない。時間をもっと有効に使うべきなんだ・・・

美春が独り言ちる。

「今日は一生に幾日も無いような日だわ」

忠雄はドキッとして心臓が張り裂けそうになる。

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