未練タクシー東京営業所
ヤスダ ニシキ
第1話 線香に誘われて
時刻は深夜一時。
冬の東京は容赦なく冷え込む。
昼間はまだ耐えられるが、夜中になると骨の中まで冷気が入り込むようで、ハンドルを握る指先までじんじんと痺れてくる。
僕は今年で34歳になる。世間ではまだ「若い」と言われる年齢だ。
けれど、体は正直で、20代の頃のように無理はきかなくなった。
朝から10数時間の乗務。腰は固まり、肩は重い。眠気と疲労が、体のどこかに常に居座っている。
気づけば深夜のこの時間に、わざわざ練馬の外れまで流れてきてしまったのも、どこか集中力が切れていたからだろう。
暖房を入れていても足元は冷え、ハンドル越しに伝わる路面の振動がやけに骨に響く。
ふとバックミラーを見ると、疲れ切った自分の顔が映った。
「30代って、こんなに疲れるもんだっけな」と、独り言を漏らす。
環七沿いのコンビニの看板が、ぼんやりと目に入る。
明かりを見た瞬間、少しだけ救われたような気になり、僕は車を路肩に寄せた。
普段ならこんな場所まで来ないが、今夜のタクシーはやけに静かで、暇すぎる時間が僕をここまで流してきた。
エンジンを止めて外に出ると、夜気の冷たさが即座に体を刺す。ドアを施錠した音も、乾燥した空気のせいかやけに大きく感じる。
吐いた息が白く広がり、頬が痛いほど冷える。寒さに肩をすくめながら、コンビニまで早足で歩いた。
店内は暖房が効いていて、ドアが閉まる瞬間、背中にまとわりついていた冷気が剥がれ落ちるような感覚がした。
トイレを借りたあと、眠気に勝つために熱い缶コーヒーを一つ手に取る。
温かさが手のひらにじんわり広がり、それだけで少し生き返った気がした。
鍵を開け、運転席に乗り込む。嗅ぎなれない匂いがする。線香?
そんな匂いのするお客さんは乗せた覚えがないな、と思いながらふと助手席側に目を向けると、視界の端に何かが映った気がして体が強張る。
いないはずのお客が後部座席に「いる気配」がする。恐る恐る後部座席へ目を走らせる。
———いた。
スーツ姿の男性が、静かに後部座席へ座っていた。
こちらを見つめながら…いや、厳密にいえば僕のさらに奥を一点に見つめながら、無言で着座している。
凍り付いたように強張った口をゆっくりと動かし、僕は声を出す。
「お客様、いつ乗られたのでしょうか。」
絞りだした声は、喉を押し広げしゃがれ、息が詰まりそうなほど心臓が高鳴っていた。
「…自宅まで、お願いします。」
男性が一点を見つめ続けたまま口を開く。すると車内の線香のような香りはより一層強くなり、僕はゆっくりと体を前に向け、ゆっくりと深呼吸をして、バックミラーに目を向けると、そこには何も映っていない。
———この人は、生きていない。そう確信した。
ふと車載のカーナビに目をやると、打った覚えもない住所が入力されており、恐怖で全身を震わせながらも、シートベルトを着用してゆっくりと車を発進させる。僕の脳内では、今までに見聞きした怖い話が走馬灯のように駆け巡り、最悪の可能性を想像して涙が溢れそうになった。
しかし、万に一つこの人が普通のお客であるという可能性にかけて、僕はマニュアル通りの接客をし始める。
「……ご乗車ありがとうございます。運転手の山畑です。目的地までの指定のルートはありますか。」
と口にし、数秒待ったが返事はない。まだ後ろに気配はあるが、相変わらずミラーには誰も映っていない。
やむを得ずナビの指定するルート通り走行することを決め、僕は目的地に向かってアクセルを踏み進める。
目的地まで半分くらい走らせた頃だろうか。仕事への慣れからか車を走らせているうちに何も感じなくなってきた。不思議と、なぜこの人は僕のタクシーに乗り込んできたのだろう、などとたくさんの疑問が湧いてくる。コミュニケーションを取る方法はあるのだろうか、などと考えながら少し後ろに目をやると、プレゼントの梱包のようなものを持っているのが目に入った。ああ、何か未練を抱えているんだなと思い、僕は怖がってしまったことを少し申し訳なく思い、背筋を伸ばしてハンドルを握りなおした。
「———出張中だったんです。」
突然、後部座席から声がした。
ミラーには相変わらず何も映らない。それでも確かに、そこにいる気配だけはある。
「帰る途中で…事故に遭いました。」
言葉は淡々としている。
けれど、言葉の奥にはどうしようもない後悔の重みがあった。
「そうですか、それは……残念でしたね。」
どう返していいのかわからず、僕は濁した返事を返す。
「今日、息子の誕生日でして。一度だけでも顔を見たくて。」
僕はゆっくりと息を吐いた。恐怖は、不思議と少しだけ薄れていた。
バックミラーをもう一度見ても、そこには何も映らない。
でも、ガラス越しに差し込む街灯の明かりが、後部座席にいる何者かの姿をぼんやりと照らし出す。
プレゼントの紙袋が、かすかに擦れた音を立てる。
僕は少しだけ、言葉を選んで口を開いた。
「ご自宅までお送りいたします。」
返事はなかった。でも、車内の線香の香りが、ふっと弱くなった気がした。
―
無言で車を走らせていると、ナビはとある住宅街の中へと誘導していく。
深夜で寝静まり、寂しさを漂わせながらも温かみのある新しい戸建てが立ち並んでいる、まだ新しさを感じさせる住宅地だった。
ゆっくりと誘導に従い車を走らせると、ある一軒家が目的地になっていた。おそらく、ここがお客さんの自宅なのだろう。
何も話しかけずに車を停めると、リビングらしきところにまだ明かりが灯っている。
「お客様、到着しました。」
声をかけながら後部座席に目をやると、そこにはもう姿がなくプレゼントの袋だけが残されていた。「帰ってこられてよかったですね。」と呟き、ふと家の方に目を向けると、カーテンを開けて奥さんらしき人が目を丸くしてこちらをのぞき込んでいるのが見えた。
僕はハザードをつけ、ゆっくりとプレゼントの袋を手に取った。
届けてほしい、——そんな気配を、言葉ではなく、雰囲気で理解した。
車を降り、玄関に近づく。奥さんらしき女性は、まだ驚いた顔でこちらを見ていた。小さく会釈をすると、女性はドアを開け震える声で言った。
「何か、あったんですか。」
息を飲みながらこちらを見つめられる。
確かに説明のつかない状況だ。僕は、正直に話すしかなかった。
「先ほどコンビニから旦那様を乗せました。こちらについたら、この袋を残したままいなくなっていまして…。」
女性は、一瞬だけ息を呑んだ。
その顔は驚きだけじゃなく、どこか安堵したような複雑な表情であった。
「今日、息子の誕生日なんです。主人は半年前、出張中に事故に遭って。それで……。」
女性の声は震えており、目の端に涙を浮かべている。
ずっと泣いていたのだろう。目元は擦った跡で真っ赤になっている。
僕は袋を差し出し、小さく頭を下げた。
女性は受け取ろうとして、一度手を止めた。袋の口が少しだけ空いていた。中身が見える。
それは、子供用の小さな野球グローブだった。
女性はそっと袋を抱きしめ、目から大粒の涙を流し続けながら下を向く。
「ありがとうございます。きっと、帰ってきてくれたんですね。」
その言葉を聞いた瞬間、線香の香りが僕の横を通り抜け、女性を包み込んだような気がした。
僕は頷き、車に戻るため一歩、後ずさった、そのとき家の中から小さな足音が聞こえた。
寝起きの少年が、目をこすりながら玄関に顔を出す。
「ママ、どうしたの?」
少年は玄関先で涙を流している女性を不思議そうに見つめている。
するとふっと風が吹き、女性が持っている袋の口がほんの少しだけ開いた。
少年は中を覗きこみ、目を丸くした。
「あ、欲しかったやつだ!」
少年の声は、嬉しさが溢れ出るように震えていた。
女性は、声を押し殺し、涙を隠すように微笑んだ。
僕は黙って会釈し、車へ戻った。
運転席のドアを開けた瞬間、あれほど強かった線香の匂いが、まるで初めから存在しなかったかのように消えていた。
エンジンをかけようとキーに手を伸ばし、ルームミラーに目をやる。
そこには、やはり誰もいない。
でも確かにさっきまで、誰かが座っていた気配だけが残されていた。
不思議と恐怖心は完全になくなり、僕は後部座席を見ながら微笑む。
「幽霊のお客さんは初めてだったな。……そういう日もあるか。」
僕は小さく呟き、車を発進させた。
走り出して数分後、無線が鳴る。
『山畑さん、お疲れ様です。付近で一件顧客対応お願いできないでしょうか。』
僕は深く息を吸い、答えた。
「了解。向かいます。」
そしてアクセルを踏み込む。
今日の東京は、いつもより街灯の明かりが温かく、穏やかな気がした。
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