天才少女『Gauss』
天然えび
第1話 予備校
#1プロローグ
駅前の雑踏を抜け、三井 幸(みつい・こう)は、いつものように予備校の自動ドアをくぐった。
都会の喧騒が遠のき、代わりに空調の低い唸りと、生徒たちの話し声が耳に入る。
直線的な壁と、グレーのフロアカーペットが、どこか静けさを助長しているようだった。
幸はそのまま教室へ向かおうと、廊下に目を向ける。
しかし、一歩踏み出そうとした瞬間――見慣れない光景に、足が止まった。
廊下の奥。教室の前で、小柄な少女が講師と何やら話し込んでいる。
ランドセルこそ背負っていないが、背丈も顔立ちも、どう見ても小学生だ。
「……ああ、あの子?」
二浪中の先輩が、幸の視線に気づいて声をかけてきた。
「小学生だよ。もう大学受験を見据えてるらしい」
幸は思わず鼻で笑った。
――親が分かってないんだ。大学受験の厳しさも、子供の限界も。
だが、その数分後。
物理の授業が終わった教室で、幸は目を疑った。
難解で有名な物理講師が、黒板に大学レベルの数式を走らせながら、少女の質問に答えている。
しかも、少女は眉ひとつ動かさず、時折「それって、こういう場合にも成り立ちますか?」と食い下がる。
講師の口元には、浪人生相手には見せたことのない笑みが浮かんでいた。
――何だ、この子……。
授業後、幸は先輩を捕まえた。
「えっと、あの子、名前は?」
「雅 有珠(みやび・ありす)。あだ名はガウス」
先輩は肩をすくめる。
「数学も物理も、たぶん俺らより上だよ」
その瞬間、幸の中で、さっきまでの憐れみは音もなく崩れ落ちた。
代わりに、得体の知れない興味が、静かに芽を出し始めていた。
***
その日も、駅前の予備校の教室は、蛍光灯の白い光に満たされていた。
いつもの席に腰を下ろした幸は、ふと横から椅子を引く音を聞く。視線を向けると、あの小学生が、当然のように隣に座ってきた。
――いくら優秀でも、合格実績にならない小学生を、よく受け入れたもんだ。
心の中でそう呟いた瞬間、前方のドアが開き、化学の講師が入ってくる。
「前回のところから始めるよ。教科書の三十四ページ」
教室中が一斉にページをめくる音に包まれる。
幸は何気なく隣を盗み見た。
机の端に積まれた本の束から、少女が教科書を引き抜く。その表紙の隅に、くっきりと書かれた名前――雅有珠。
「ああ、なるほど。雅でガ、有でウ、珠でス、か……」
小さく納得の息を漏らす。
授業が始まり、黒板に化学式が並び始める。幸は講師の声を追いながらも、どうにも隣が気になる。
視線をそっと滑らせると、少女はノートにペンを走らせていた。
講師が描いた化学式の周囲に矢印を引き、そこへ数式を補足する。
さらに、講師の言葉を文章にして書き写し、その後ろに――講師が口にしていない数式を続けている。まるで何かを検証するかのように。
時折、ふんふん、と小さく頷く仕草。字は正直、子供らしく雑だ。だが、その内容は大学生顔負け、いや、専門の院生にすら匹敵するのではないか。
――何者なんだ、この子……。
そう思った瞬間だった。
少女が、バッと顔を上げる。
その大きな瞳が、まっすぐ幸を射抜く。
逃げる間もなく、視線が絡み合った。
教室のざわめきが、遠くへ引いていく。
「見てたでしょ」
その声は、思ったより低く、はっきりしていた。
続けざまに、彼女は言う。
「あなた達がわたしを子供みたいに扱うと、わたしまで先生にふざけてると思われるの。だから、関わらないで」
言葉の刃先に、幸は反射的に「はい…」と答えるしかなかった。
化学の授業が終わると、何人かの生徒が帰っていく。
その中で、彼女は講壇に立ち、講師に質問を投げかけていた。
黒板の式をさらに発展させるような、高度で具体的な問い。
他の生徒たちは、順番を待ちながらも、彼女のやり取りが終わると、少し聞きづらそうにしているのが分かった。
ノートを抱えて戻ってきた彼女は、また幸の隣に腰を下ろす。――まだいるのか。
この後は夜間授業、終わるのは九時近く。小学生なら、大学に入るまで時間の余裕はたっぷりあるはずだ。
親は心配していないのか、それとも自分から望んでいるのか。
そんな疑問が頭をよぎる間に、次の講師が入ってきて、再び授業が始まった。
結局、彼女は最後の授業が終わるまで予備校にいた。
荷物をまとめ、休憩室へと歩いていく後ろ姿を、幸は目で追う。
自分は隣の自習室へ。授業後すぐの復習が最も身につく――それが幸の経験則だった。
トイレに向かう途中、廊下に休憩室の光が漏れていた。
覗くと、長机に座った有珠が弁当を広げている。
広い室内には、彼女を除いて二、三人。
コンビニのサンドイッチを食べながらスマホを眺める者、筆箱と蛍光ペンを投げ出して音楽を聴く者。
誰も彼女に関わろうとはしない。
授業が終われば、廊下や教室は節電で薄暗くなる。
その中で、休憩室だけが蛍光灯に満たされ、白い折り畳みテーブルの上に弁当箱が置かれている。
光に照らされた彼女は、まるで無機質な箱の中に閉じ込められているように見えた。
幸は、胸の奥に小さな痛みを覚える。
その夜、幸が予備校を出たのは二十二時前。
だが、彼女が先に帰る姿を見ることは、ついになかった。
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