愛してる

 「なぁ、セレーナ」

 「分かってるわ。普段より随分と静かね」

 「ああ、普段ここに暮らしてる動物たちの気配がしねぇな」


 随分と、静かだ。風で木々が揺れる音、俺たちの足音以外の音が感じられねぇ。

 一見、森にこれといった異常は見られないが、動物の気配がなさすぎるのが引っかかる。


 「どうする? 引き返すか?」

 「いいえ、様子見をしましょう。明らかな異変という程でもないし、何かあるなら調べておいた方が良いもの」

 「だが、ラスティを連れたままじゃあ、危ねぇだろ?」

 「パパ? ママ?」


 ラスティが不安げな瞳でこちらを見つめてくる。

 心配かけちまったか。ラスティは今日のこと一番楽しみにしててくれてたしな。安心させてやらねぇと。

 俺はラスティの頭の上に軽く手を載せ、慎重に撫でる。そうしてやればラスティは少しだけ安心したように顔を緩めた。


 「ラスティ、心配することはねぇ。ただ少し森の様子が変だから一旦様子見をしよう」

 「ピクニックはやめちゃうの?」

 「それは森次第だな。 もし今日行けなくなっちまったらまた今度行こう。そんでもって今日は街で買い物でもするか」

 「うん!」

 「それじゃあ、私が森の中を見てくるわ。リギルはラスティとここで待っててちょうだい」

 「大丈夫か?」


 セレーナの提案にそう問いかける。ラスティもどことなく心配そうにセレーナのことを見ている。

 だがその問いかけに対して、セレーナは口元に淡く笑みを浮かべて返す。


 「あら、私を誰だと思ってるの?」

 「……いらねぇ心配だったな。だが、気を付けろよ?」

 「ええ。何か見つけたら一旦帰ってくるつもりよ」

 「それなら良い」

 「ママ頑張って!」

 「ええ。頑張るわ」


 ラスティの頭を撫でつつそう答えたセレーナは、武器を手に森の奥へと入っていった。

 俺の方もここから何か分かることがねぇか探しておくか。

 まず周囲を観察する。


 森そのものが汚されたりはしてねぇようだな。環境の変化で動物たちがいなくなったって訳でもねぇだろ。水が汚染されたとかはここからじゃ分からねぇが、その辺りもセレーナが見にいってくれるはずだ。


 次に着目すべきはやはりこの静けさだろうな。動物はまだしも魔獣も気配がしねぇ。魔獣は基本的に動物より環境への適応や単純な力が強ぇから、そうそうここから離れるなんてことは起きそうにないんだがな。

 やっぱりここからじゃあ、分かることが少ねぇな。 セレーナの報告を待つか。


 あらかた周囲の観察を終えれば、ラスティが俺に何かを問いかけてくる。


 「ねぇ、パパ。ママほんとに平気?」

 「ん? ああ、平気だ。さっきも話しただろ? ママはすっごく強い狩人なんだ」

 「……うん」

 「心配か?」

 「うん」

 「パパもだ」

 「パパも?」

 「ああ。だから、何かあったら一緒にママを助けに行こうか」

 「うん!」


 本当に、優しい子に育ってくれた。俺も、言っちゃ悪りぃがセレーナもガサツで大雑把なとこがあるからな。こうしてみると俺にゃあ似ても似つかねぇかもな。でも、俺たちの子だ。だから、その優しさを消しちゃあならねぇ。

 俺はそんな優しい愛し子の頭をもう一度撫でるため手を伸ばす。

 そして手が頭に届くその直前。


 木々を薙ぎ倒した轟音が、地響きを伴って俺たちに届いた。


 「ラスティッ!」

 「パパッ!」


 咄嗟にラスティを抱き抱える。

 どうやら、届いたのは音だけだったようで特に被害は無かった。

 だが、その音の発生源はおそらく。


 「ラスティ。俺はセレーナを助けに行きたい。でもラスティを一人にも出来ない。ついてきて、くれるか?」

 「うん! さっき言ってたもん。一緒にママを助けに行くって!」

 「ありがとう。ラスティは優しいな。だけど危ないから俺のそばを離れるんじゃないぞ?」

 「分かった!」


 元気の良いラスティの返事を聞き届け、俺は背中にラスティを乗せる。

 ハルバードを手に持ち、足に力を込め、駆ける。音の発生源へ、セレーナの元へ地を蹴り駆けていく。

 セレーナ。今行く。無事でいろよ。


 駆けて、駆けて、辿り着いたのは今日ピクニックを行う予定だった回復の泉。

 深い森の中、唯一ひらけたその場所に居たのは、魔獣。

 何十、下手すれば何百といった多種多様な魔獣がそこにいた。

 そして、その中央で一人戦うのはセレーナ。


 この数の中、隙間を潜り抜けながら魔獣を一振りの剣で相手どり、圧倒している。

 だが、それでも数が圧倒的だ。まるでこの森の魔獣全てを集めたかのように。


 「セレーナァッ!!」


 叫ぶ。彼女に俺の存在を知らせるために。

 数が圧倒的だが、そこまで強ぇのはいねぇな。俺も加われば道を作るくらいは出来そうだ。

 離れた安全の確保できる場所にラスティに待機してもらい、俺も斬り込みながらもう一度セレーナを呼んだ。

 だが、返ってきた返事は予想通りのものでは無かった。


 「来ちゃ駄目! リギル!」


 拒絶。それも相当焦った様子で。

 セレーナの反応に一瞬身体が硬直するも、襲いかかってくる魔獣に対処するため無理やり動かした。


 「なぜだ!? 俺が行けば道を切り開くくらい出来るだろう!?」

 「違う! そうじゃないわ!」


 しかしセレーナは否定する。

 どういうことだ? 何が違う? セレーナは何に対してそんなに焦っている?

 迫る魔獣をまとめて薙飛ばしながらも、思考する。


 そして、それはすぐに現れた。

 異様だった。あまりにも。

 身体中が切り傷に包まれ、血がとめどなく流れている。今にも死に体のそれは、しかし、この場の何よりも存在感を醸し出していた。

 それが一振り尾を振るう度、何百といた魔獣たちがただの肉塊へと変貌していく。

 突如として泉の中から現れたそれは、ものの数秒でその場を蹂躙した。


 なんだ、あれは。

 いや、分かっている。魔獣だ。全長十五メートルはゆうに超える巨体の蛇を模った魔獣。

 きっとこれこそが、セレーナが俺を止めた理由だろう。そして森の異変の原因。既に死に体だというのに繰り出されたあの膂力に、今なお感じさせられる絶対的な存在感。こちらを見てすらいないにも関わらず鋭く突き刺さるような威圧感。


 生物としての、格が違う。本当に、なんだあれは。

 ふと、腕を引かれる。見ればセレーナがそこに居た。

 俺が圧倒されている間に近づいていたようだ。


 「リギル。今のうちに逃げるわよ。あれは戦って良いものじゃないわ」

 「あ、ああ」


 その通りだ。あれに気付かれるのはまずい。それにラスティと合流しなければならない。

 ラスティの待機しているであろう場所へと、俺とセレーナは撤退する。


 「ラスティ?」


 そこで、ラスティが倒れていた。


 「ラスティッ!?」

 「待って。大丈夫よ、気絶してるだけだわ。あの蛇に当てられたのね」

 「そ、そうか。それなら早くここを離れねぇと」

 「ええ、行きましょう」


 そうして、その場を発つ直前、脳内に声が響く。


 『足りぬ』


 そう一言。


 『この森にいる全ての魔獣を集めたが、到底この傷を癒すには足りんな。そこで、人間よ。一つ問いたい。貴様らの住処はどこにある?』


 は? なんだこりゃあ。頭の中に直接響いてきやがる。


 「もう、遅かったようね。いえ、最初から気づかれていたのかしら?」


 セレーナのその言葉に、俺もようやく思い至る。

 そうだ、今確実にコイツは俺たちに語りかけてきた。気づかれている。あの化け物に。

 それに、魔獣を集めただと。一体どうやって。


 いや、まさか。

 振り返る。もうそこに両の眼をこちらに向けた大蛇がいた。

 あまりに異質な、血に塗れたその身体。

 自らの血の匂いで、呼び寄せたっていうのか?


 「なんなんだ、テメェ」


 思わず、口からこぼれ落ちる。


 『問うているのはこちらなのだが、良かろう。吾は〈メティス〉。全てを奪うものだ。さあ問いに答えよ、人間」


 鷹揚な態度のメティスと名乗る魔獣がこちらへと再び問いかける。

 それに対して、セレーナが一歩魔獣の方へと踏み出した。


 「セレーナ?」


 そう問いかけるも、セレーナは応じずただ真っ直ぐにメティスを見ていた。


 「それを答える前に、私も聞きたいのだけど。私たちの住んでいる場所を知って、何をするの?」

 『答える必要があるか?』

 「なら、教える義理も無いわね」

 『愚か者め』


 空気が変わった。ピリピリとした、緊張感が張り詰めるような、そんな感覚を覚える。


 「ごめん、リギル。ラスティを連れて、逃げてくれる?」

 「おい、待て。セレーナ!」


 そう呼び止めるも、セレーナがこちらに向けた笑みに止めることは叶わないと悟る。

 だが、逃げられるはずもなかった。セレーナ一人を置いて逃げることなどできるはずもない。


 ふざけるな。何もしないつもりか。セレーナはあの化け物に一人で挑もうとしている。きっと、俺たちを守るために。

 なら、俺はどうすれば良い。今俺の背にいるラスティを巻き込むことは出来ねぇ。セレーナを一人戦わせることもしたくねぇ。


 そんな葛藤に頭を抱えていれば、もう戦いの火蓋は切られていた。

 先に動いたのはセレーナだった。セレーナがメティスのもとへ駆ける。

 対するメティスはカウンターのように尾をセレーナに向かって突き刺した。


 「セレーナ!」


 迫り来る尾に対してセレーナは勢いを損なうことなく身体を翻し、それを避ける。

 そして続け様にメティスの伸び切った尾を駆け上り始めた。

 セレーナは大蛇の鱗の上で軽快に舞う。何度メティスが振り落とそうとしようが、重力などないかのように駆け上がっていく。

 俺はその姿を昔に何度見てきたことだろう。何度、憧れてきたことだろう。


 血飛沫が舞う。

 セレーナが、メティスの右目に剣を突き立てていた。

 その姿はもはや『戦姫』そのもので。


 しかし。

 鈍い音が鳴った。まるで何かが潰されたような、生理的に嫌悪してしまうような、そんな音だった。

 その直後、黒い影が吹き飛ばされるようにして、俺のすぐ側を流れていった。

 見れば、そこには血を吐き倒れ伏す、セレーナがいた。

 衝突した木々があまりの衝撃からか、半ばからへし折れる。


 「セレーナァァァッ!!」


 今、何が起きた。メティスがまた尾を振るったのか? いや、そんなことよりも。

 俺がセレーナのもとへ駆け寄ると、セレーナは口から血を吐き、盾に使ったであろう左腕は折れていた。

 そこに、追撃の尾が迫る。

 ふざけるなよ。これ以上セレーナがくらえば怪我じゃすまねぇぞ!?


 「うぉぉおおおおおおっ!!」


 なんとかセレーナとメティスの間に身体を割り込ませる。

 前面に盾のように構えたハルバードにその尾が触れた瞬間、俺はセレーナ同様吹き飛ばされていた。


 なんっだ!? この質量は!? 

 ただの一振り、無造作に振るわれたそれがこの威力だと!? ふざけるな!

 ハルバードでも防ぎきれずに、内臓を痛めたのか口から血が溢れる。


 『面倒だな』


 メティスが云う。

 目を潰されたことなど無かったのように、平然と。

 そしてメティスが、ラスティを見た。

 先ほどの衝撃で振り落とされたのだろう。木にもたれかかるセレーナの近くでラスティは倒れていた。


 『先に、心を折っておくとしよう』


 待て。止めろ。その子に手を出すな。まだ、九歳の子供なんだ。

 俺たちの、たった一人の……。


 そして、無情にも尾は迫る。

 身体は動かず、間に入ることは叶わない。


 ただ、それを見ることしかできず――


 「え? ママ?」


 ――血飛沫が舞った。

 メティスの尾が、セレーナを貫いていた。


 「セレー、ナ?」


 ただ、赤が広がっていく。

 その中心にはなぜかセレーナが倒れていて。

 そこに、起き上がったラスティが近寄っていく。


 「ママ?」


 ラスティの声がか細く、響いて。

 そこでようやく、俺は現状を理解した。


 「セレーナ? セレーナ!!」


 身体の引きちぎれるような痛みを無視して、そこへ駆け寄る。


 「パパ? パパ、ママがっ!」


 セレーナの腹に、穴が空いていた。

 血がとめどなく流れて止まる気配を見せない。

 息は荒く、吐血を繰り返している。

 このままでは、セレーナが、死ぬ。


 「はぁっ……げほっ……退きなさい……蛇っころ……!」

 「セレーナ!」


 血反吐を吐きながら、セレーナがメティスへと言う。

 メティスは今なお、こちらをじっと見つめていた。


 『貴様、何をした?』

 「……毒よ。私のっ、剣には……はぁっ……毒が塗られている。今すぐ、対処しな、ければ、ならない、ほどの……」


 それだけ聞くと、最後にこちらを鋭く見つめ、メティスが去っていく。

 あっという間にその姿は見えなくなっていった。


 残されたのは、涙を流すラスティとただ無力だった俺。

 そして、今にも死に向かっていくセレーナ。


 「ママ! ママッ!!」


 ラスティが叫ぶ。それに対してセレーナは笑みを浮かべていた。


 「ごめん、ね。ピクニック、一緒に、行けなくて」

 「やだ! 一緒に行くもん! 約束、したもん!」

 「セレーナ、もう少し耐えてくれ! すぐに医者にっ」


 腕を、握られた。とても弱々しく、温度を失っていくその腕。

 セレーナが首を横に振る。もう意味がないと、そう言う。


 嘘だ。そんなはずはない。まだ!

 それなのに、セレーナは、もう一度、笑みを浮かべた。

 そして。


 「リギル、ラスティ、ごめんね」


 そして。


 「――愛してる」


 セレーナが、死んだ。


         *


 森を進んで行く。

 フールとニックには悪いが、交代で行っている見張りの間に抜け出してきた。

 俺の事情に、これ以上巻き込みたくはねぇんだ。

 こんな時間であっても、この森は光源に困ることは無く、やがて目的地へと辿り着く。


 そこには予想通り、規格外の魔獣にして怨敵である、一匹の大蛇が鎮座していた。

 そいつに対して、俺は自身のハルバードを突きつける。


 「話をしに来た。付き合ってもらおうか、メティス……!」


 俺はありったけの怒りを込めて、その名を呼んだ。

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