第7話:離れた距離、更新される感情
出向先のオフィスは、静かだった。
色も、音も、熱もない。ただ、キーボードの打鍵音だけが、時を刻むメトロノームのように単調に響いている。
月曜日。僕の仕事は、データ入力。かつて自分が設計したシステムに、ただ、情報を流し込むだけの作業。思考は必要ない。分析も、洞察も。僕の脳は、今やただの高速タイピングツールに成り下がっていた。コーヒーの香りだけが、まだ仕事の匂いを覚えていた。
火曜日。窓の外は、冷たい雨が降っていた。あの日、美咲が見送ってくれた日から、一週間が経っていた。デスクの引き出しに、彼女が貸してくれたボールペンが、まだ残っている。
水曜日。あの日以来、僕たちは一度も話していない。部署が違う。フロアが違う。世界が、違う。昼休み、食堂で彼女の笑い声が聞こえた気がして、振り返る。誰もいない。
夜、誰もいない部屋に帰り、スマホを開く。
LINEのトーク画面を開き、文字を打ち込んでは、消す。
『元気か?』
『仕事は、慣れたか?』
『あの後、佐久間とは……』
どれも、違う。送るべき言葉が見つからない。
結局、僕はいつも、当たり障りのない一文だけを送る。
【体調に気をつけて】
すぐに、画面の端に小さな文字が灯る。
――既読。
だが、返信はない。
それが、三日続いた。
一週間、続いた。
指先で既読をなぞる。恋の残骸が、指に染みつく瞬間。
(感情ログ、未更新。既読の二文字が、最大のノイズだ)
未読より、残酷だよな。
もう届いてるのに、何も返ってこない。
拒絶ですらない、ただの無。
それが、僕たちの今の距離を、何よりも正確に示していた。
(守られた罪悪感が、好き、を加速させる。陽太のメッセージを見るたび、胸が痛い。既読を押す指が、震える。返信したら、好きが溢れて、全部壊れちゃいそうだから。返信なんて、できない)
美咲は、スマホの画面を閉じた。
ある日の深夜。
単調な作業に疲弊しきった僕は、気分転換に社内チャットのログを眺めていた。様々なプロジェクトの、膨大な会話ログ。かつての自分が、その中心にいたことが、遠い昔のように思える。
スクロールする指が、ふと、止まった。
見慣れた名前を見つけたからだ。
【高橋美咲】:プロジェクト『リンクス』、第二フェーズの遅延、必ず取り戻します。私に、チャンスをください。
それは、プロジェクト全体のチャンネルに投稿された、彼女の決意表明だった。
僕が去った後、プロジェクトは立て直しを迫られているのだろう。
その責任を、彼女は一人で背負おうとしている。
【佐久間悟】:高橋さん、一人で抱え込むな。チームで乗り越えよう。
【同僚A】:そうだぞ、高橋!
【同僚B】:俺たちも手伝う!
チームのメンバーからの、温かい返信。
そのやり取りを、僕はただ、無言で見つめていた。
そして、その流れの最後に、彼女の短い返信があった。
【高橋美咲】:ありがとうございます。がんばります。
その、たった一言。
平仮名だけの、何の変哲もない、その言葉。
(「がんばります」って打つ指が、陽太を呼んでるみたいで、苦しい)
画面の光が、まるで彼女の声みたいに胸を打った。
それを見た瞬間、僕の中で、何かが、弾けた。
(ああ、そうか)
僕の脳内で、最後の分析が始まる。
【感情データ再解析】
・観測対象:高橋美咲
・トリガー:『がんばります』
・心拍グラフ:安定した低空飛行から、急上昇。
・思考ノイズ:98%が彼女のことで占められる。
・結論:これは、恋だ。
――好きだ。
失う確率100%になって、初めて、好きの重みがわかるなんて。なんて陳腐なアルゴリズム。
だが、それが、僕の出した、最終的な答えだった。
感情は、更新された。
僕のシステムは、静かに、再起動を始めていた。
もう一度、何かを設計してみたい――そんな衝動が、一瞬だけ脳裏をかすめた。
その時、一通のメールが届いた。
【人事部より:新規プロジェクト立ち上げに伴う、部署横断での人員募集について】
添付ファイルを開くと、そこには『次世代AI感情分析エンジンの開発』という文字が躍っていた。
それは、ほんの小さな、希望の光だった。
その頃、美咲は自分のデスクで、スマホのトーク画面をじっと見つめていた。陽太からの「体調に気をつけて」というメッセージ。その隣には、自分が打っては消した、「あなたの『好き』に、返信したかった」という言葉の残骸が、霞んで見えた。
でも、好きはいつも送信エラーになる。
(第七話 終)
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