第2話:観測者効果と恋のバイアス

 観測するという行為が、観測対象に影響を与えてしまう。僕たちは互いを観測してしまった。そして、もう元には戻れない。


 ◆


 唇が離れた瞬間、世界の音が一斉に戻ってきた。


 新幹線の規則的な振動。遠くで聞こえる車内アナウンス。そしてすぐ隣で鳴り響く僕自身の心臓の音。


 ドクン、ドクンと観測史上最も異常な数値を叩き出している。


 目の前の美咲はさっきまでの挑戦的な光を瞳から消し、かわりに潤んだそれで僕をただ見つめている。頬は夕日よりも赤く、触れた唇は小さく震えていた。


 まずい。


 システムが警報を鳴らす。


 これは、ただのバグじゃない。致命的なエラーだ。


 僕は慌てて身を引き、散らばった資料の山に視線を落とした。平静を装うための、唯一の逃げ道。


 僕は慌ててスマホを取り出し、メモアプリを開いた。


 指が震える。


「……心拍132、体温+1.8℃、呼吸波にノイズ。サンプル数1で標準偏差求められない……」


 我ながら、どうかしている。

 こんな状況で、やっていることがこれだった。


「――は?」


 我に返った美咲が、信じられないものを見るような目で僕を睨んだ。


 その声は、絶対零度。


「あんた、いま、なにしてんの?」


「だから、今のキスという事象が、被験者……つまり僕たちに与えた影響を客観的に……」


「あんたねえっ!」


 美咲の声が、静かな車内に響き渡った。


「今のがっ、データに見えたわけ!? この……この……」


 彼女は言葉を探すように口をパクパクさせた後、


「……あんた、脳みそCPUだけにしてちゃんと呼吸してる? 心臓の代わりにハードディスク入ってんじゃないの!?」


 罵詈雑言の嵐。

 だが、今の僕には、それに反論するだけのCPUリソースが残っていなかった。


「いい、よく聞いて。今のは、事故。不可抗力。ハプニング。資料が落ちてきて、バランスを崩して、偶然そうなっただけ。分かった!?」


「いや、しかしだな。物理法則上、あの状況から唇が接触する確率は……」


「分かったって聞きなさいよ!」


 美咲は僕の言葉を遮ると、顔を真っ赤にしながら叫んだ。


「今のは、なかったこと! いいわね、絶対に、なかったことだから!」


 床に散らばった一枚の資料を拾い上げようとした僕の指先が、同じくそれを拾おうとした彼女の指と、微かに触れた。

 ピリッ、と走る静電気のような感覚。


 彼女はそう一方的に宣言すると、慌ててその手を引っ込め、ぷいっと窓の外に顔を背けてしまった。


 耳まで赤い。


 そして、小さな声で。


「……私のも、記録して」


「え?」


「なんでもない!」


 彼女は慌てて否定したが、その声は震えていた。


「なかったこと」と言いながら、その全身が「あったこと」を雄弁に物語っている。


 観測者効果。


 観測するという行為が、観測対象に影響を与えてしまう現象。


 僕たちは、互いを観測してしまった。

 そして、キスという名の観測によって、僕たちの関係性は、もう元には戻れないほど、変質してしまったのだ。


 沈黙が、痛い。


 僕はただ、暴走する心臓の音を聞きながら、過ぎ去っていく景色を眺めることしかできなかった。


 ◆


 ホテルに到着した頃には、気まずさは最高潮に達していた。


 チェックインを済ませ、それぞれの部屋のカードキーを受け取る。


「……じゃあ、明日の朝、ロビーで」


 僕がそう言うと、美咲は一度もこちらを見ずに「……うん」とだけ答え、さっさと自分の部屋に消えていった。


 まるで、猛獣から逃げるウサギのような速さだった。


 一人、部屋に残される。


 荷物を置き、ネクタイを緩めながら、ベッドに倒れ込んだ。


(なかったこと、か……)


 そう呟いてみるが、唇に残る感触は、あまりに鮮明だった。


 柔らかさ、温かさ、そして、微かな甘い香り。


 それらが脳内で再生されるたび、また心拍数が跳ね上がる。


 これは、恋なのか?


 いや、違う。断じて違う。


 これは、ただの生体反応だ。予期せぬ接触に対する、身体の正常なエラー。


 そう結論づけようとした、その時。


 ポケットのスマホが震えた。


 画面には、マネージャーの名前。


 嫌な予感しかしない。


「……はい、相葉です」


『よう、お疲れ。出張先には着いたか?』


「ええ、今しがた。それで、何か?」


『ああ、急で悪いんだが、一つ追加で検証してほしいデータがあってな』


 マネージャーの、やけに楽しそうな声が、電話口から聞こえてくる。


『実は、例のアプリに新しい機能を実装するんだ。「カップル向け・デートシミュレーション機能」ってやつをな』


「……デートシミュレーション?」


『ああ。実際のカップルに、アプリが提案するデートコースを体験してもらい、その間の会話データや生体データを収集する。より精度の高いマッチングロジックを構築するためにな』


「はあ……」


『そこでだ。投資家から直命が来てな。「相性0%カップル」で実証実験したいってさ。君らが被験者拒否したら、開発予算カットされる』


「――は?」


『せっかく男女ペアで出張に行ってもらってるんだ。悪いが、陽太と高橋で、その機能の被験者第一号になってくれ』


「――は?」


 僕は、自分の耳を疑った。


「いや、無理です! 僕と高橋はカップルじゃありません!」


『分かってるよ。だから「シミュレーション」だろ?』


 マネージャーは、面白がって笑っている。


『これは、ただのデータ収集じゃない。君たち二人の「相性の悪さ」が、このシミュレーションでどう変化するのか。それ自体が、非常に興味深いデータなんだよ』


「僕たちを実験台にする気ですか!?」


『人聞きの悪いこと言うなよ。「あれは実験結果だ」って、他人の恋愛を分析するのは君の得意分野だろ?』


 ぐうの音も出ない。


 それは、僕が新幹線の中で、美咲に言い放とうとした言葉そのものだった。


『じゃ、そういうことで。詳しいマニュアルは今送ったから。明日、早速頼むな』


 一方的に、通話は切れた。


 すぐに、スマホに通知が届く。


【極秘】デートシミュレーション・マニュアル.pdf


 僕は、そのファイル名を見つめて、立ち尽くした。


 嘘だろ。


 あの女と、デート?


 しかも、恋人同士のフリをして?


 脳が、理解を拒否する。


 コン、コン。


 不意に、部屋のドアがノックされた。


 恐る恐るドアを開けると、そこには、部屋着姿の美咲が、スマホを握りしめて立っていた。


 その顔は、怒りと羞恥で、また真っ赤に染まっている。


「……見たわよ、マニュアル」


「……ああ」


「あんた、マネージャーに何か言ったでしょ! 私たちを実験台にするなんて、あんたが提案したんじゃないの!?」


「するわけないだろ! 僕だって今、初めて聞いたんだ!」


「じゃあ、どうするのよ、これ!」


 美咲が、スマホの画面を僕に突きつける。


 そこには、マニュアルの第一項目が、無慈悲に表示されていた。


【ステップ1:まず、お互いをファーストネームで呼び合うことから始めましょう】


「……」


「……」


 沈黙。


 そして、どちらからともなく、深いため息が漏れた。


「……仕方ない」


 僕が、かろうじて言葉を絞り出す。


「これも、データのためだ」


 そう言った僕の顔は、きっと、美咲と同じくらい、真っ赤だったに違いない。


 ……そうでも言い聞かせないと、今夜、到底眠れそうになかった。


 観測者は、被験者になった。


 恋のバイアスにまみれた、世界で最も奇妙な共同作業が、今、始まろうとしていた。


(第二話 終)

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