伊田の悩み
vertinno
1.渓の中の島のごとく
日高から紀州へ、ひたすら東へと向かう道のりは、いつだって骨が折れる。
いくつもの小さな山を越え、でこぼこの土道を通り抜けて、ようやく豊東野高校の赤い塔が見えてくる。普段なら、同じ制服を着た生徒たちがちらほらと行き交っているのが見えるけれど、休日ともなると、その姿はまるで蜃気楼のように消えてしまう。
そんな山道を自転車で走るのは至難の業だ。特に、夏場には。
海から吹く風は湿気をたっぷり含んでいて、肌にまとわりつくような不快さがある。シャツは汗でじっとりと濡れ、それが乾くこともなく体に張り付く。けれど、自転車に乗らなければ、家から学校まで歩いて三十分はかかる。
睡眠を何よりも重視するこの私にとって、それは到底受け入れがたい現実だ。朝早く起きて、重たい足を動かしながら家を出る……そんな想像をしただけで、全身からやる気が霧散していく。
しかも、今日は休日なのに学校に行かなきゃいけない。それだけで気分は最悪だった。太陽の光がやけに眩しくて、ただでさえ落ち込んでいた目線がさらに下がる。
胸の中を支配するのは、終わりの見えない憂鬱。それでも、父さんと母さんのあの怖い眼差しを思い出してしまった以上、引き返すという選択肢はなかった。
ああ、時間を飛ばせたらいいのに。まばたきをしたら、すべてが終わって、帰り道を歩いている――そんな都合のいい妄想をしながら、私はペダルを漕ぎ続けていた。
異変に気づいたのは、すでに手遅れになった頃だった。
細いタイヤが砂混じりの道を滑り、耳障りな音を立ててスリップする。どうにかハンドルを立て直そうとしたけれど、前輪のぶれは逆に加速して、バランスを完全に失った。
そのまま坂を転がり落ちて、硬い地面に全身を打ちつけた。頭がぐらりと揺れ、視界が霞む。
……よかった。これで、嫌な用事をしなくても済むんじゃないかな――最初に浮かんだのは、そんな不謹慎な考えだった。
痛みの感覚が、自分のものとは思えないほど遠く感じる。私はそのまま、倒れた姿勢のまま空を見上げた。
青くて、眩しくて、どうしようもなく暑い空。
何も考えたくなかった。だから、もう少しだけこうしていたかった。そうしていると、視界の端に、もう一つの「青」が映り込んだのだ。
「……あの、大丈夫ですか、伊田さん?」
近くから、不安げな女の子の声が届いた。その声に思考を現実に引き戻され、私はようやく自分の足に痛みを感じた。
うつむいてみると、制服のスカートの下から見える左足には擦り傷ができていて、赤い血がすねを伝って流れていた。何滴かが乾いた土の上に落ち、たちまち砂埃に紛れて消えていく。
恥ずかしいところを見られてしまって、少しだけ気まずい気持ちになる。
「手、貸しましょうか……って、聞くまでもないですね」
そう言って、彼女――松坂さんは、私に手を差し伸べてきた。彼女の手は白くて小さくて、繊細で、汚れた自分の手を重ねるのを一瞬ためらってしまうほどだった。
彼女は隣のクラスの子で、親友の比嘉と同じ部活に所属している。何度か一緒に話す場面もあったから、名字くらいは覚えていた。でも、下の名前は知らない。
彼女のことを覚えていた理由は、たぶん、あの印象的な青い長髪のせいだ。
ここで手を差し伸べてくれたってことは、きっと汚れるのも気にしていないんだろう――勝手にそう解釈して、私は彼女の手を取った。
転がっていた自転車を道端に置き、松坂さんに肩を貸してもらいながら、近くの木陰へと移動する。岩の上に腰を下ろして、ようやく一息つけた。
「ありがとう」
足を軽く伸ばすと、傷口がぴりっと痛む。彼女は「気にしないで」と首を振り、バッグの中から水筒を取り出して、中の水をそっと傷口にかけてくれた。
消毒薬もないこんな場所では、これが精一杯の処置だろう。
……と思っていたのに、彼女はさらにバッグを探り、包帯を取り出して、膝をつきながら丁寧に私の足に巻き始めた。
えっ、包帯まで持ち歩いてるの?
もしかして松坂さんって、旅をしながら人助けする詩人とか? ……いや、違うとは思うけど、なんだか尊敬してしまう。
すぐに血は止まり、私は立ち上がった。松坂さんが制止しようとしたけれど、私はその場で足を軽く動かして見せた。
「表皮だけだし、歩くのには支障ないよ」
そう言って微笑むと、彼女も安心したように頷いた。
「でも、本当はちゃんと処置したほうがいいよ? ご家族に連絡して迎えに来てもらおうか?」
優しい子だな、松坂さんって。
「大丈夫。私、あそこに行かなきゃだから」
私は前方を指差した。豊東野高校の赤い塔が、もう見えていた。
「えっ、学校? 休日なのに? 補習?」
彼女の口から飛び出す連続の質問に、思わずむっとしてしまう。補習なんて言われると、ちょっとだけ傷つく。
「……違うよ。ちょっと、私用」
私は目を逸らしながら答えた。聞かれたくないことだった。
「そっか……わかった。でも、本当に大丈夫?」
彼女はそれ以上は踏み込んでこなかった。ただ、心配そうに私の足元を見つめていた。
「うん、大丈夫。学校に着いたら、保健室でちゃんと処置する。助けてくれてありがとう、この恩は忘れないよ。じゃあ、また月曜にね」
私は逃げるように松坂さんから離れ、坂の下に戻って自転車を起こした。フレームに歪みがないことを確かめて、再びサドルにまたがる。
道の向こうに消える前に、もう一度だけ振り返って、木陰に立つ彼女に手を振った。
######
(注:本作は二人のヒロインの視点で描かれています。「######」の記号は視点の切り替えを示すもので、登場するたびに別のヒロインの視点に切り替わることを意味します。以下では繰り返し説明しません)
もしかして、あの子……私の名前、もう忘れちゃったのかな。ちょっとショックだ。
でも、まあ当然か。私みたいな人間なんて、わざわざ覚えてもらえるほうが不自然だもの。
別れ際に「また月曜日ね」って言っていたから、少なくとも同じ学校だってことは覚えてくれてるはず……いや、私、制服着てたし。そりゃ気づくよね。そう考えると、やっぱり名前までは覚えてないんだろうなぁ。
……はぁ、なんだかどんどん落ち込んでいく。
頭を振って、湧き上がってくる不安を振り払う。私は土の道に戻り、家へと続く道を歩き始めた。
にしても、伊田さん、どうして休みの日に学校に行ってたんだろう。あの子はいつも落ち着いてて目立たないけど……そんなに綺麗で、勉強もできるんだし、有名じゃないわけない。だからさっき、補習に行くのかってわざと聞いてみた。本当は違うだろうってわかってて、否定させて、ついでに理由を聞き出そうと思ったのに……結局、はぐらかされちゃった。
まあ、私には関係ないことだ。ただ、ちょっと気になるだけ。この世界じゃ、知りたくても知れないことだらけ――それくらい、私だって分かってる。
リュックを持ち直して歩き出す。すると、さっき絆創膏……じゃなくて、包帯を取り出して伊田さんの傷を手当てしてあげたことを思い出した。……彼女、私がなんでいつも包帯を持ち歩いてるのか、気になったりしてるだろうか。
だって、怪我することなんていくらでもある。こんなに長い間生きてるんだもの、最低限自分を守る術くらい身につくよね。自分でそう割り切ってることに、苦笑するしかなかった。
リュックは重い。中に瓶がたくさん入っているせいだ。歩くたびにガラス瓶同士がぶつかって、カランカランと音を立てる。どうか伊田さんに中身が酒だって気づかれてませんように……と心の中で祈る。
女子高生のリュックに、安っぽい酒の瓶がぎっしりなんて……どう考えてもおかしいよね。もう一度苦笑して、じりじりと照りつける太陽の下、重い足取りで歩き続けた。
######
「それでは、鈴木先生、失礼します」
「はい、お気をつけてね、伊田さん」
席に座ったままの先生にもう一度丁寧にお辞儀して、私はそっと職員室を出た。扉を静かに閉め、無理に足を前に動かして廊下を数歩進んだところで、糸が切れたみたいに力が抜け、白い漆喰の壁にもたれかかる。大きく息を吐いた。
……最悪だ。
さっきの私、言葉遣い、態度……何か失礼なところ、なかったよね?
考えれば考えるほど頭が重くなる。
和歌山のお茶は有名で、鈴木先生はお茶が好きだから喜ぶはず――と、父は言っていた。でも、先生が喜んでくれたかどうかに関係なく、私の心は少しも軽くならなかった。
悪いことは、何をどうしても悪い。
じゃあ、強制されてやった私は……悪いのだろうか。
わからない。
人間、生きていれば、そういう面倒なことは避けられない。私はきっと、同年代よりずっと早くそれを理解して、そして味わってきたのだ。
これ以上考えたくない。頭が回らない。
私は顔を上げて、ゆっくりと校門へ向かった。
今日も容赦なく暑い。
来た道を戻るのはやめた。近道だけど、あそこは日陰がなくて地獄だ。
自転車にまたがり、木陰のある遠回りの道へと曲がる。
この道だと家まで十分くらい余計にかかる。でも、途中に雑貨屋があったはず。最近流行ってるチャームが欲しかったんだし、せっかくだから寄ってみよう。
そんなことを考えながらハンドルを切り、曲がり角を曲がった、――その瞬間。
目の前で、日常じゃない光景が破裂した。
怒鳴り声、物が割れる音。
小さな家の中から飛び出してきた影が、よろめきながら地面に倒れ込んだ。頭を抱えた手の隙間から、血が流れ落ちている。
……え?
見覚えのある、あの青。
家の中の罵声など気にも留めず、松坂さんは無言で立ち上がった。横目で私に気づき、驚いたように目が揺れ……そしてすぐに、光が消えた。
声が、出ない。
衝撃が大きすぎて、言葉が喉に引っかかったままだ。
ふらつく足取りで低い塀のそばに行き、置いてあったリュックを引き寄せると、松坂さんはおなじみの包帯を取り出した。
黙って、淡々と傷を巻いていく。
私はただ立ち尽くしていた。
包帯を巻き終え、彼女が立ち上がる。無言のまま、反対方向へ歩き出す。私は慌ててその背中を追った。
角を曲がると、大きな木が影を落としていた。松坂さんはその根っこに腰を下ろす。
「……ごめん」
「……どうして松坂さんが謝るんですか?」
戸惑う私に、彼女はふっと笑った。額の包帯と、その笑顔があまりにもちぐはぐで、胸が締めつけられる。
「私の名前、ちゃんと覚えてくれてたんだね」
「だって、あんなみっともないところ、見せちゃったから」
「だったら、私なんて坂道から転がり落ちたところ見られてるし。どっちもどっちですよ」
自転車を止め、私も隣の根っこに腰を下ろす。
私は何も言わず、ただ彼女が話し出すのを待った。
そして、ぽつりと。
「よくあることなんだよ」
ため息と一緒に、彼女は言った。
「酒が少ないって怒って、殴る。空き瓶投げつけてくるしさ。五百円しかくれないのに、安酒だってそんなに買えないよ」
私の顔に浮かんだ疑問に気づいたのか、彼女は視線を下げて呟く。
「……父親の話」
「……それ……ひどすぎます」
何と言えばいいかわからない。父親のことを悪く言うのも違う。でも、胸の奥が煮えるような気持ちだった。
小さい頃、計算を間違えて頭を軽く叩かれたことはあった。でも――暴力なんて、そんな話は噂でしか知らなかった。
目の前で見るなんて、初めてだ。
「はは」
乾いた笑い。
「ごめん」
また謝る。
暴力より、自分の秘密がばれたことのほうが気になっている――そんな風に見えた。
「ずっと……こうだったの?」
少し迷ってから、彼女は言った。
「……母さんが死んでからずっとらしい。でも私、覚えてない。小さい頃に亡くなったから」
「誰かに相談したことは……」
「ない。言っても無駄でしょ」
「そんなこと……警察に相談すれば……」
慌てて口を挟んだ私の言葉を、松坂さんは淡々と切る。
「警察に言って父親捕まえて、親のいない私が施設で暮らす? 何が変わるの? むしろ悪くなるだけじゃない?」
返せなかった。
現実は、私の知っている“正しさ”よりずっと重い。
気まずい沈黙。
私は余計なことを言ったのでは、と胸がざわつく。
視線を向けると、彼女は焦点の合わない目で、自分の足を揺らしていた。
暴力のある家。
支えのない生活。
想像しただけで、息が詰まる。
だから――
「助けさせてください。少しでもいい。何か、できること、教えて」
友達には“受け身だ”って言われたことがある。
だけど今だけは違う。これは、覚悟だ。
松坂さんはぼんやりと私を見た。
読めない光。胸が締めつけられる。
「……今日のこと、誰にも言わないで。お願い」
結局、彼女が言ったのはそれだけだった。
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