第10話 修羅場
そこかしこから聞こえていた楽しげな声は、一瞬にして静まり返り、大ホールの中が静寂に包まれた。まるで時間そのものが凍りついたようだ。
全員の視線を一身に浴び、血の気が引いていく。私を睨みつけるルパート様の、見たことのないその恐ろしい形相に、耳鳴りがするほどのショックを覚えた。靴を履いているはずなのに、冷たい大理石の感触だけが、やけに鮮明に足の裏から伝わってくる。
「……一体、何のことですか? ルパート様……、お、落ち着いてください……」
半ば無意識に発せられた自分の声は、緊張と恐怖で掠れ、震えていた。
そんな私のことなどお構いなしに、ルパート様は怒鳴り続ける。
「分かっているはずだ!! 僕があんなにも、お前に忠告していたのに……! 繊細でか弱い王女殿下のお心を傷付けることのないよう、気遣って学園生活を送ってくれと! それなのにお前は、慎みを欠いた無神経な振る舞いで王女殿下のお心を抉った! ベルミーア王国の希望であるエメライン王女殿下を軽んじる行動……看過することはできない!!」
……意味が分からない。まさか、遠回しに学期末試験の順位のことを言っているのだろうか。それ以外には一切心当たりがないけれど、あれだってどうしようもなかった。私なりに配慮して試験を受けた結果が、ああだったのだから。
誰しもが息を呑み、ルパート様と私の方を見つめている。凍りついた空気の中で突き刺さる、大勢の驚きと好奇と目。明日にはきっと、社交界全体にこの修羅場の話が広まる。みっともないぼさぼさ頭と黒縁眼鏡のハートリー伯爵令嬢が、婚約者から学園の大ホールで罵倒されていたと。どうやらハートリー伯爵令嬢は、エメライン王女殿下に対して何か無礼な行いをしたらしいと。
喉の奥が激しく痛み、視界が滲む。唇が震える。この場でルパート様に反論すれば、婚約者に楯突いたことでますます無作法な娘と噂されるのだろうか。伯爵家の娘が侯爵家の子息に恥をかかせたとなれば、父も兄も立場を失う……?
混乱する頭の中にそんな考えがよぎったけれど、黙ったまま泣いてはいられなかった。私はそんなにも悪いことをしただろうか。いくら何でも、ルパート様のこの態度はひどすぎる。
情けないほど震える声で、私は自分の名誉を守るべく必死の反論を試みた。
「何のことをおっしゃっているのですか、ルパート様。成績のことでしたら、私にはあれ以上どうすることもできませんでした」
「黙れ!! ロザリンド!!」
「あ、あなたに渡されたあの禁止事項一覧表を、私はこの数ヶ月間、可能な限り守ってきました……! こんな格好をして……できるだけ皆の前で笑わないように、目立たないようにと……。あなたに命じられた通りに、自分を押し殺して学園生活を送ってきました。それでもあなたは、私をこんな風に責め立てるのですか」
「う、うるさい!! 今はそんな話はしていないだろう! 論点をすり替えるなよ、卑怯者!!」
静寂は徐々に薄れ、周囲から様々な声が聞こえはじめた。「禁止事項一覧表……?」「何? それ。フラフィントン侯爵令息は、彼女に何を命じていたのかしら」そんな声が耳に届く。
隣に立つノエリスは唇を真一文字に結び、黙ったままルパート様を睨みつけている。その時だった。
「フラフィントン様……」
甘く弱々しい声が聞こえ、私はそちらに視線を向けた。
両手で口元を押さえたエメライン王女が、私たちのそばにおずおずと歩み寄ってきている。いつものように、その後ろには騎士科の男子生徒たち。王女が現れた途端、また大ホールに静けさが戻った。これからどうなるのか。何が起こるのか。皆が興味津々でこちらを見守っているのがひしひしと伝わってくる。
ルパート様はすばやく王女の方を振り返り、また私に向き直った。そしてますます大きな声でまくしたてる。
「お、お前という人間は……言い訳ばかりして、王女殿下を辱め……ろくな女じゃないな!!」
「もういいのよ、フラフィントン様……。あたくしは大丈夫だから……」
エメライン王女はか弱く震える声でそう言うと、その空色の瞳に涙を湛える。彼女のその姿を見て、私は呆然とした。ルパート様をたしなめてくれるために来たのかと思ったけれど、こんな態度を見せられたら、まるで本当に私に落ち度があって王女を深く傷付けたかのようだ。
それとも……私は本当に、それほどまでに悪いことをしてしまったの……?
尋常ならざるこの状況に、追い詰められた私は冷静な判断力を失っていく。皆の好奇と批難の目。侯爵令息である婚約者の激しい怒り。美しい王女の涙。心が押し潰されそうだ。
ルパート様は私が謝罪するまで攻撃を続けるつもりなのか、まだ何やら喚き散らかしている。頭にも視界にも霞がかかったような感覚がして、消えてなくなりたいと思った。
その時だった。
ノエリスのよく通る凛とした声が、大ホールに響き渡った。
「いい加減に場をわきまえたらいかが? フラフィントン侯爵令息。王女殿下の名誉とやらを盾にしてご自分の婚約者を罵倒するなど、無礼を働いているのはあなたの方よ」
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