サンカリ 竜守の少年
神楽きさら
プロローグ
サンカリが竜に初めて会ったのは四歳のときだ。
「さあ、おいで、サンカリ」
家の裏山の洞窟。今まで父が決して入れてくれなかった場所に、サンカリは招き入れられた。
松明の明かりに照らされた剥き出しの岩肌が続く道を、父に手を引かれて歩いた。サンカリは初めて見る光景に好奇心を刺激されつつも、どこか恐怖を感じて、父の手をしっかりと握りしめていた。
ひんやりとした澄んだ空気が不意に消え失せ、開けた空間に出た。洞窟の最深部に着いたのだ。天井は高く、空気は暖かい。岩肌のてっぺんに大きな穴が開いていて、柔らかい日差しが入り込んでいた。
そして、その中心にシーヴェンはいた。
彼は両手両足を器用に折りたたみ、山のように積まれた藁の上に両翼を投げ出して、くつろいだ様子で静かに目を閉じていた。首は短く尾は長い。ふさふさとした金色の体毛に覆われた体が、呼吸に合わせて上下している。
「シーヴェン。息子のサンカリだ」
父の言葉にシーヴェンの耳がぴくりと動いた。それから彼はゆっくりと目を開けた。サンカリの顔ほどもある大きな鼻からふんと息を吐き出すと、つぶれた藁がいくつも宙に舞った。
恐怖心が一気に膨れ上がった。サンカリは父の後ろに回り込んでジーンズの生地にしがみついた。
「大丈夫だ。恐くない。さあ」
父はサンカリの肩に手を回し、背中を押し出した。つんのめるようにして一歩前に進み出たときには、シーヴェンはずんぐりとした首をもたげていた。
サンカリの視界を完全に埋め尽くすほどの巨大な顔が目の前にある。炎のように赤く、氷のように鋭い竜の瞳がじっとサンカリを見つめていた。
「初めまして、サンカリ。イーサから話は聞いてるよ。これからよろしくね」
巨体に似つかわしくない、丸くて柔らかい声。シーヴェンが目を細め、瞳孔を縦に長くする。
この竜は自分に危害を加えたりしない。それはサンカリにも分かった。だが、初めて会う竜にいったい何を言えば良いのか分からず、その場でまごまごしたあと、結局は父の背中に隠れてしまった。
「おいおい、サンカリ。しょうがない奴だな」
「君の小さいころとそっくりだよ、イーサ」
「何を言うんだ、シーヴェン。俺はここまで引っ込み思案じゃなかったぞ」
一人と一匹が笑う。父がこんな表情で笑うところを、サンカリは初めて見た。
日差しがシーヴェンに降り注ぐ。金色の体毛に覆われた翼が美しく光り輝いた。
「うわあ」
気づけばサンカリは父の背を離れ、シーヴェンの翼に触れていた。ふかふかで、もこもこで、ほのかに温かい。
不意に翼がふわりと羽ばたいた。顔面に柔らかな風の直撃を受けてサンカリは「わっ」と声を上げた。香ばしい藁の匂いが鼻腔をくすぐる。驚いてシーヴェンの顔を見ると、彼はとぼけた表情で目を細めていた。
「ふふふ」
恐怖心は氷解していた。サンカリには想像もつかないほど長い時間を生きているはずの竜が笑う姿は、まるで飼い主にじゃれつく子犬のようで、サンカリもつられて笑った。
「サンカリ、見てごらん」
父はシャツの胸元からネックレスを取り出してサンカリに見せた。革の紐の先にサンカリの親指ほどの大きさの石がぶら下がっている。それは父がいつも肌身離さず身に着けているものだ。
「これが虹の石。竜守の証だ」
父は革紐を首から外し、虹の石を空に透かして見せた。湾曲した石は太陽の光を受けて緑色に輝く。
まるで竜の翼みたいだ、とサンカリは思った。
「持ってごらん」
父に促され、サンカリは竜の翼の形の石を手にする。すると、石はその色をさっと青に変えた。同じように太陽の光が当たっているのにもかかわらず、だ。美しい緑がもう一度見たくて、サンカリは革紐につながれた石を縦に横にと傾ける。しかし、サンカリがどんな角度に傾けてみても、石はとうとう緑色に輝いてはくれなかった。
「どうして?」
父はサンカリの質問には答えず、代わりにこう言った。
「竜とともに生きよ」
「竜と、ともに……?」
「そう。それが竜守の役目だ。父さんがお前のお祖父さんから、お祖父さんがひい祖父さんから、そして先祖代々から受け継いできた、たった一つの竜守の役目だ」
サンカリには父の言葉の意味がよく分からなかった。祖父はサンカリが生まれる前に既に亡くなっている。父も昔はサンカリと同じ子どもであり、父にもまた父がいたということを、サンカリは上手く思い描くことができなかった。ましてや、それよりも前の世代のことなど全く想像の及ばない世界だった。
「いつか、その役目の意味が分かったとき、虹の石はお前の手の中で緑色に輝くようになる。そのとき、お前は竜守の役目を継ぐんだ」
父は大きな手でサンカリの頭を撫でた。髪の毛がわさわさと音を立てて、日向の匂いがした。
シーヴェンはそんな二人の様子を見て、目を細めていた。
笑っている。サンカリは不意に気がついた。彼の目を細める仕草は、彼なりの笑顔なのだ。
もはや恐怖心は残ってはいなかった。サンカリも竜に笑顔を返した。
「よろしくね、シーヴェン」
シーヴェンはサンカリの言葉にほんの一瞬だけ驚いて、
「うん、よろしく」
すぐに目を細めて尻尾をはためかせた。
シーヴェンが大声を出すほどに笑ったら、どんな表情になるのだろう。逆に怒ったときは? 何を食べているの? 好きな色は? いつもここで何をしているの? 今までどれほどの時間を過ごしてきたの?
サンカリは知りたかった。シーヴェンのことを、もっともっと。サンカリは新しい友達が出来たことに心躍らせた。
サンカリは、まだ青い光しか放たない虹の石を握りしめ、父を見上げた。
「僕、竜守になるよ」
それが、サンカリが四歳のとき。もう十年も前のことになる。
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