第5話 不思議な気持ちの日

その夜――焦げ臭かった事務所の空気も、ようやく換気したおかげで少しマシになった。そのおかげで随分と寒い思いをしたが、妖霧は文句を言える立場にはなかった。

というより妖霧の心は、ほとんど地に堕ちていた。


「……二度負け、か」


天井を見上げながら、ぼそっとつぶやく。

風のマナ使いとして最強と呼ばれた自分が――たった一日で、二人の少女に負けたのだ。

それも、まともな攻撃を返せずに、だ。

どんな相手にも、負けを知らなかった妖霧にとっては、大変ショックな出来事だった。


「ただいまー。二人とも、留守の間大丈夫だった?」


あかりが外の聞き込みから帰ってくるなり、そんなことをのん気に言ってきた。


「ええ、何にもありませんでしたよ……ね、妖霧さん?」


フレイヤはふんと鼻を鳴らし、バカにしたように彼に言ってのけた。


「たしか、こんなこと言ってましたっけ……そこをどかないと、遊びじゃ済まなくなるぞ。キリッってね」


「うわああああああ」


恥ずかしさのあまり、妖霧は両耳をふさいで部屋の隅でガタガタと震えていた。

そんな様子をあかり不思議そうに見て、それから笑った。


「何だか、いい感じに仲良くなったみたいね。よかったよかった」


この女、かわいい顔して狂ってあがる……鼻歌を歌いながら夕食の準備をするあかりを見ながら、妖霧は改めて恐怖した。

フレイヤは夕食を手伝わないようで、ただどっかりと机に座ると、あくびをしながら漫画を読みはじめた。


「それで? 探偵事務所に入る気にはなった?」


いつの間にかトレーナーに着替えたあかりが、ふと妖霧に話しかけてきた。


「……」


「とりあえず、夕食にしよ? お腹減ったでしょ?」


「別に……」


そう言っている間に、妖霧のお腹がぐーっと鳴った。

恥ずかしさのあまり顔を上げられなかったが、くすっとあかりが笑う声が聞こえた。



「はい、夕ごはん、できましたよ。二人とも、さあ座った座った」


おいしそうなカレーライスが、机に三つ並べられていた。

妖霧は気恥ずかしくて、うつむいたままそのうちの一つの前に座った。


「まあ、ドンマイってことで。さあ、食べますよー」


「……いただきます」


フレイヤはそれだけ言うと、カレーライスをがつがつと食べはじめた。


「さあ、きみもどうぞ?」


あかりは屈託のない笑顔を見せる。


「大丈夫。毒なんて入ってないから」


「……」


ずっとこの事務所に閉じ込められて、お腹が減っているのは事実だ。

恥を忍んで、仕方なく。妖霧は一口、カレーを口に入れた――。


う、うまい……うますぎる!


「おいしいでしょ? あたしの愛情たっぷりだもん」


「あい……愛、情……?」


妖霧の顔が一瞬で赤くなる。


顔を見られたくなくて、彼はそっぽを向きながらカレーを口の中に詰め込んだ。

だが、ふと気づく。

孤独に戦ってきた彼を、覆っていた冷たい空気が――今は少しだけ、温かい。



「……で。探偵事務所ってのは、何をするんだ?」


夕食を終え、片付けを手伝いながらふと妖霧はあかりに尋ねた。

あかりは手伝わなくていいと断ったが、カレーライスをごちそうになっておいて、何もしないというのはどうも気分が落ち着かなかったのだ。


「依頼人から相談を受けて、マナの被害を調べたり、行方不明者を探したり……って感じかな。

わたしたちは登録したプログラムの中でも弱小チームだから、依頼も少ないけどね」


尋ねられたあかりは、皿を洗いながら嬉しそうに説明を始める。


「報酬は?」


「一応出るけど、ほとんどボランティアみたいなもんだよ」


「……なるほど。道理でお前ら、こんなぼろぼろな事務所に住んでるのか」


「こら。それは言わない約束でしょ」


あかりがむっとほおを膨らませ、妖霧に反論した。


「あたしには、最高の夢があるの。いつかマナ使い初の探偵事務所として、外の世界でみんなのために活動するって」


「こんな所長ですが、所長なりに信念を持っているんですよ。

『マナ使いになったわたしたちは、絶対に正しい心を忘れない』ってね」


フレイヤはくすっと笑い、熱いお茶を注ぐ。


その言葉に、妖霧の胸が少しだけチクリとした。

マナ使いとして力を得てからは、妖霧は「奪うこと」と「支配すること」しか考えてこなかった。

マナ使いとして、この世界に復讐するために……それが妖霧にとっての、ポリシーだったから。



「……そんなのは理想だ」


そう言いながらも、心の奥にわずかな違和感が残った。


「そうかもね。でもあたしさ、どうしてもこの探偵事務所を続けたいんだ。

マナの力で泣く人たちを、放っておけないの」


「……ふーん」


「でも人手が足りない。だからさ、きみ、手伝ってくれるだけでもいいの。正式に入らなくてもいいから」


妖霧は少しだけ考え、視線をそらす。

あかりの青い瞳が、まっすぐに自分を見つめていた。

――どうしてだろう。負けた相手なのに、嫌な気分にならない。


「……手伝うくらいなら、やってやらんこともない」


「やったぁ!」


あかりが手を叩く。


「じゃあ契約書にサイン――」

「いや、それはダメ!」


妖霧が慌てて断る。


「おれはその、マナリーグのプログラムに参加予定だから!」


フレイヤが苦笑しながら、あかりの肩を叩いた。


「ああ所長、ダメですよ焦っちゃ……あともう一押しですから。

あとは所長の色気で、この子堕ちますから」


「そ、そうかな……?」


あかりとフレイヤが勝手に盛り上がっているのを、妖霧はため息をついて見つめていた。



そして夜中……電気が消え、部屋が静かになった頃。

妖霧はそっと寝かされたベッドから、身を起こす。

二人には申し訳ないが――今なら、逃げられるようだ。


陰の気配を発動し、足音を立てずに立ち上がる。そして玄関へと身体をよじる――次の瞬間!


「うわっ!」


妖霧は無理やり木の床に倒されてしまった。

足元を見るとあかりが、ユーカリの木にしがみつくコアラみたいになっているのが分かった。


「げっ! 起きてたのか?!」


「むにゃ……逃げるな……」


あかりは目を閉じたまま、気持ちよさそうな表情のまま寝言を口にした。

ね、寝てるのか……?

安堵したのもつかの間、あかりは寝ながら妖霧の足をぎりぎりと締め上げはじめた。


「いぎぎぎぎ! ギブアップ、ギブアップ!」


妖霧は悲鳴をあげたが、あかりは抱き枕でも扱うかのように彼の足の関節を締め付ける。


「助手候補……逃がさない……」


このまま逃げようともがけば、多分足の関節が逆を向くことになる。

妖霧はあきらめて、その場に倒れこんだ――こんな足にしがみつかれたら、ベッドに戻ることもできない。



その辺りの手ごろな毛布を彼女にかぶせると、妖霧はそのまま目を閉じた。



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