第五章 第三話 “ただいま”のあとで

 夜は、すっかりけていた。


 玄関の扉をそっと開ける。

 廊下の灯りが静かに灯り、橙色だいだいいろの光が靴の先に落ちた。


 惠美は靴を脱ぎながら、まだ今日の余韻よいんを胸の中に抱えていた。

 渋谷の人波。

 クレープの味。

 彩音の、頬にクリームをつけて笑った顔。


 そのすべてが、まるで温かな絵のように胸の奥で揺れていた。

 李守義りしゅぎの記憶には存在しない“穏やかな幸福”。

 それは彼にとって、かつて戦場いくさばでは決して得られぬ夢のような一日だった。

 

 だが、その温度は――

 玄関の敷居しきいを一歩またいだ瞬間、氷のように凍りついた。


 リビングのソファに、見知らぬ男が座っていた。


 五十代半ば、白シャツの襟を二つ外し、ネクタイを緩めた姿。

 煙草たばこの煙が淡く天井へと昇り、

 その灰色のもやが、男の笑みとともに部屋の空気をねっとりと包み込む。


「おっ、惠美ちゃん。帰ったのか。」

 男は気安げに笑った。

「お母さんから聞いたよ。最近、学校に通い始めたんだって? えらいじゃないか。」


 惠美の足が止まる。

 空気が一瞬で変わった。

 そこは“家”ではなかった。


 鼻を刺すタバコの匂い。

 胸の奥がきゅっと縮み、胃のあたりが熱くなる。

 頭のどこかが、警鐘を鳴らしていた。


 耳の奥で、微かに誰かの泣き声がする。

「やめて」「お願い」――そんな言葉が、遠い水底みなそこから泡のように浮かんでくる。


 ――これは、身体からだの記憶。


 李守義りしゅぎは息を呑んだ。

 指先がわずかに震える。

(この男……この身体の“過去”に、何をした?)


「……こんばんは。」

 惠美は、静かに、しかし冷たく声を発した。

 その声音こわねには、氷の刃のような張りつめた冷気が宿っていた。


 男は笑いながら煙を吐く。

「いやぁ、ちょっと仕事の話でね。お母さんとつい長居しちゃってさ。

 君も困ったことがあったら、いつでも声をかけて。若い子の力になれるのは、うれしいことだから。」


 その“親しげな調子”が、逆に不快感を増幅させる。

 男が立ち上がると同時に、煙の熱とともにあつが迫ってきた。

 背丈せたけ体格たいかく――その影が、まるで壁のように惠美の上に覆いかぶさる。


 その瞬間、階段の上から足音がした。


「惠美? もう帰ってたの?」

 母――貴子たかこが姿を見せた。

 一瞬、その表情がこわばる。

 だが、すぐに作り笑いを浮かべた。


「……あ、紹介するわね。こちらは大島おおじまさん。私の職場の上司じょうし。前に一度、会ったことあるでしょ?」


「そうでしたか。」

 惠美は淡々と答え、わずかに会釈えしゃくした。

 視線は、男の目を避けたままだ。


「いやぁ、若い子は覚えてないよねぇ。」

 大島は乾いた笑いをこぼし、灰皿にタバコを押しつけた。

「さて、もう遅いし、おいとまするよ。」


 そう言って外套がいとうを羽織り、玄関へ向かう。

 そして去り際、振り返って、惠美の肩にぽんと手を置いた。


「お母さん、頑張ってるんだ。君も支えてやってな。……おじさん、期待してるから。。」


 ――穏やかに、柔らかく。

 けれど、その声の底にはどこか湿しめった温度があった。


 その“かるさ”はまるで、

 びついたくぎはだをなぞるように、背筋せすじさる。


 

 惠美の身体が、反射的はんしゃてきに跳ねかけた。

 だが――動けなかった。

 ただ静かに、こぶしを握りしめたまま立ち尽くす。


 ――戦場の恐怖とは違う。

 これは……身体の記憶が拒んでいる。


「カチリ」。

 ドアが閉まる音が、やけに長く響いた。

 その音が消えた瞬間、部屋の空気がようやく息を吹き返す。


「……あの人、急に寄っただけなの。」

 母の声が震える。

 努めて平静を装っていたが、手の先がわずかに揺れていた。

「仕事の話で……あなたも遅いって言ってたから。」


 惠美は返事をせず、コップに水を注いだ。

 氷が当たる音だけが、やけに澄んで響く。


 母は娘の背を見つめ、何かを探すように言葉を選んだ。

「……あの人ね、仕事ではずっと私を助けてくれてて。頼りになる人なのよ。」


「そうですか。」

 

「恵美、なんだか少し変わったわね。

 前だったら、嫌なことがあるとすぐ部屋にこもってたのに……今日は落ち着いてる。」


「……長く、修行を積んだから。」


「え?」


「いや、なんでもない。」


 母の口元に、かすかな安堵の笑みが浮かんだ。

「……そう。少し、大人になったのね。」


 その言葉は、

 互いに逃げるための、ささやかな“理由いいわけ”だった。


「そういえばね。お父さんの出張、もうすぐ終わるの。来週には帰ってくるって。」


「……そうですか。」

 

「久しぶりに三人でご飯でも食べましょうね。」


「……はい。」


 惠美はゆっくり頷く。

 灯りの下、その横顔がわずかに陰る。


 コップの中の氷が溶け、水面が静かに揺れた。


 それはまるで、

 過去と現在のあいだに沈む、見えない波紋のようだった。

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