5. シスコンブラザー

 おでかけの日から7日ほどが経った頃。ラボでは楓を加えた新たな日常が繰り広げられていた。窓際には鉢に植えられたバーベナが置かれており、朝一番に楓が水やりを済ませて花や葉には水滴が滴っている。何もなかった奥の空き部屋も、今や楓色に染まった彩りのある空間へと様変わりしていた。


「おはよー、楓ちゃん。今日も一日元気に労働しよー」


 入口のスライドドアが大きく開くと同時に、明るくも煩い神原の声がラボ内に響き渡る。


「ってあれ、楓ちゃんの代わりに遊馬さんがいる」


「おはよう神原。楓なら近くのスーパーに買い出しに行ってくれているからいないぞ」


「こんな朝一からどうしたんですか? 普段なら時差出勤とか言って10時頃から出勤するくせに」


 部屋の壁時計は時刻8時30分を示していた。


「今日9時くらいに津麦兄妹の来訪があるだろ? そのための資料整理だよ」


「なんだそういうことでしたか。てか遊馬さん、頑張れば早起きできるじゃないっすか。この調子で明日からも9時出勤頑張りましょうね」


 遊馬はゆっくりと視線を手元のPCへと向け、何事も無かったかのように作業を再開する。遊馬からの返答は、ただの無言だった。


 神原がカバンをソファに投げ置き、ガーベラの鉢が置かれた陽だまりの窓際へと鼻歌を歌いながら足を進める。


「花って良いですよね。存在ひとつで空間が色鮮やかになるっていうか、その場の人の内側まで色鮮やかにしてくれる。そう、心安らぎ、余裕ができるんですよね」


 小さな花びらに滴る雫を、指で掬い取るようにして撫でながら言葉を漏らした。


「どうしたー、頭でも打ったか? まだその臭い台詞にはギリギリ共感できるとして、そのキモい仕草はやめてくれ。見るに堪えん」


「って昨日楓ちゃんが言ってました」


「同じ言葉でも、語り手ひとつでこんなに印象が変わるとはな...」


 神原はしばらく無言でバーベラの花をじっと見つめていた。その間、部屋にはカタカタとキーボードを入力する音だけが鳴り響いていた。


 やがてバーベラの鑑賞に飽きた神原は、今度はのそのそとコーヒーメーカーの方へと足を進めた。


「遊馬さん頑張りますねぇ。そんな頑張る遊馬さんには、可愛い後輩から労いのコーヒーを入れてあげましょう」


「あ、コーヒーの豆が切れてるんだ。それを今楓に買いに行ってもらっている。あと楓のオレンジジュースも切らしていたから、ついでにそれもね」


「そういうことでしたか。てか今更ですけど、楓ちゃんひとりで行かせてるんですよね。その、大丈夫なんですか? 迷ったりしませんかね?」


「ちゃんとスーパーまでの道のりは教えたぞ。まあ大丈夫だろうさ」


 コンコンっ。


 突如、部屋の入口のドアを誰かがノックする音が鳴り響く。時計は時刻8時50分を示していた。


「おっ、ちょっと早めのご来訪かな」


 入口のスライドドアがゆっくりと開き、そこから遊馬たちには見慣れた姿が現れた。高身長で落ち着いた雰囲気を纏った若い男。彼こそが先の隕石実験の協力者である津麦兄妹の兄、津麦つむぎ まことだ。もうひとりの協力者である妹の津麦つむぎ 緋月ひづきも彼と一緒に来訪予定だったのだが、どうやら今は見えていないようだ。


 真の姿を見つけるや否や、遊馬はすぐさま入口に駆け寄り、部屋中央にある会議机へと案内した。


「津麦くん、この前の実験はありがとうね」


「いえいえ、あんな面白い実験、共犯者にならない理由なんてないですよ!」


「神原もそうだったが、共犯者と言うのはやめような。少し心が痛むじゃないか」


「主犯格が何言ってんですか」


 神原と真はタイミングよく声を揃えて、遊馬に突っ込みを入れた。


「津麦くん今日は珍しくひとりなんだね。てっきり妹さんも一緒に来るかと思ってたんだけど」


緋月ひづきのことですか。無論一緒に来てますよ。僕と緋月が一緒じゃない時があるとお思いで? 否、そんなことはあり得ません」


「じゃあその緋月さんはどちらに?」


「ここからすぐそこのスーパーに寄り道してから来るって言ってましたよ。心配だから一緒についていこうかって言ったんですけど、いらないと一言放たれましたよ。まったく緋月は、照れ隠しか何かですかね。まあそれはそれで可愛らしいんですけど。ああ、でもやっぱり心配だなぁ。道に迷ったりしてないか、変な奴に絡まれてないかなぁ」


「過保護にシスコンに饒舌と、フルコンボだドン! 津麦くんのシスコン節が垣間見えはじめましたよ」


 神原が遊馬にそっと耳打ちし、遊馬はつい笑みをこぼす。


「ま、まあ、大丈夫なんじゃないかな。この辺は割と治安良い方だし、道だって迷うほどの複雑さでもないしさ」


「そうだと良いんですけどね...」


 真はおもむろにスマホを取り出し、チャットアプリを開けた。緋月とのトーク画面に文章を打っては消してを繰り返しているようだ。慎重に思い悩むその姿は、青春時代の甘酸っぱさを彷彿とさせる一幕であった。


 遊馬たちはそんな彼の姿を微笑ましく見守っていた。


「そういや楓さん、でしたっけ? 親戚の子をここで預かってるって聞いてましたが、どちらに?」


 真がふと思い出したかのように話題を振り、スマホから目を離して遊馬たちの方を向いた。


「ああ、楓なら今近くのスーパーへ買い出しに行ってくれているんだが...ちょっと帰りが遅いんだよな」


 遊馬は少し心配そうな表情を浮かべ、ちらりと扉の方を気にするように目を向けた。


──


「ここ...どこ?」


 スーパーから少し離れた県道沿いの歩道。行き交う車の走行音やエンジンの唸りを片耳に、塀にもたれかかって項垂れている少女がいた。


「どうも、方向音痴な私です...」


 なんとかスーパーにたどり着いたは良いものの、今度は帰り道が分からなくなってしまったのだ。


「もうかれこれ数十分は歩いたな。こんな道、来た時には通らなかったよね」


 遊馬に頼まれたお使いの品を入れたビニール袋を両手でぎゅっと握りしめ、その小さな肩は不安で震えていた。


「わたし、帰れないのかな」


 辺りを見渡すも、目に映るは見知らぬ景色ばかり。まるで別世界に迷い込んでしまったかのような孤独感が胸に広がり、じわじわと恐怖が押し寄せてくる。


「こわい、怖いよ」


 時間が経つにつれ、押し寄せる恐怖が次第に全身を覆い尽くすようだった。目元には知らぬ間に涙が滲み、ぼんやりと視界が揺れる。そしてその涙は雫となり、静かに頬を伝い、ぽつりと地面に落ちていった。


 ──遊馬さんと神原さんは、私の帰りが遅いことを心配してくれてるのかな。私がラボに戻らなかったら、遊馬さんと神原さんは探しに来てくれるのかな。そうだと...嬉しいな。


「あすま......さん」


 切実な思いを乗せて遊馬の名前を呟くも、その声は車道を行き交う車の音に無情にも掻き消されていく。


「君、大丈夫? こんなところでどうしたの?」


 俯いた顔を上げ、声のする方に目を向けと、そこには心配そうに楓を見つめる女性の姿があった。

 その女性は膝をついて、楓の顔を覗き込むようにして様子を伺っていた。


「えっ、はい。だ、大丈夫、です」


 反射的に返事をする楓。だがその声には力なく震えており、どこか弱々しかった。


「うーん、大丈夫そうには見えないけどなぁ」


 女性は楓の頬を滴る涙に気付いていた。楓は慌てて袖で涙を拭い、どうにか平静を装おうとしている。


「もしかしてだけど君、迷子だったりする?」


「え、なんで分かったんですか?」


 驚いた表情で楓が問い返す。


「勘だよ。泣いていたみたいだし、それにちょっと困ってそうな顔をしてたからね。それで、どこに行きたいの?」


 楓は困ったように口をつぐむ。遊馬たちのいる研究施設の名前を思い出せないのだ。だが施設自体は大きく、この辺りでは特徴的な場所だから、もしかしたら曖昧な情報でも伝わるかもしれない。そんな思いで楓は知り得る限りの情報を絞り出して女性に伝えた。


「おぉ、奇遇だね。私も今からそこに向かうところだったのよ。だったら一緒に行こっか。それならもう迷子になる心配はないでしょ?」


「うぅ、ありがとうございます」


 やや距離を保ちながら、ふたりは横に並んで目的地である研究施設へと歩き出した。楓はふと視線を前に戻しながら、隣の女性の存在を意識する。彼女の歩調に合わせるようにして進む中、心の奥で微かに緊張が解けていくのを感じていた。


「君、お名前は?」


「津麦 楓っていいます」


「やっぱりそうだ。さっきゆうくんの名前を出してたからもしかしたらって思ったけど、君が楓ちゃんだったんだね」


「私のこと、知ってるんですか?」


「うん、知ってるよ。結くん、あ、遊馬くんのことなんだけどね。彼から楓ちゃんのことは聞いてたんだ。親戚の子を預かってるって言ってたし、もしかしてって思ってさ」


 知らない女性かと思っていたが、遊馬の知り合いであったことに少し安堵する。そして同時に、遊馬の意外な下の名前に驚きを隠せない楓であった。


「そうだったんですね。お姉さんは遊馬さんの知り合いなんですか?」


「うん、知り合いだよ。と言うより、共同研究者って言った方が正しいのかな。まあ堅苦しい関係に見えるかもだけど、結くんとは友達みたいに気楽にやってるよ」


 にこやかに微笑む女性に、楓も自然と笑みを返した。


「そういえば私の名前をまだ言ってなかったね。私は津麦 緋月って言います。私たち同じ苗字だなんてこれまた奇遇だよね。『津麦』って結構珍しい苗字だと思うんだけど、私たち強い運命か何かで結び付けられてたり? なんてね」


 楓は一瞬、はっとした顔を浮かべた。思い返せば、遊馬から今日『津麦』と言う名の共同研究者が二人訪問に来ると聞いていたことを思い出し、ひとり納得する。


「津麦 緋月......津麦 緋月......」


 楓は小さく、繰り返すように呟いていた。


「楓ちゃん? どうかした?」


「あ、いえ、なんでもないです」


 楓は慌てて頭を振り、話を元に戻そうとする。


「ほんとですね。同じ苗字で同じ知り合いがいるなんて。なんだか不思議な縁を感じますね」


「だよね。これから一緒に仲良くやっていこうね!」


 緋月は楓の肩をポンと叩く。その親しげな仕草に楓は少し驚きながらも、暖かさを感じ取った。


「は、はい。よろしくお願いします、津麦さん」


「ちょっと待った。津麦さんって呼ばれるとなんだかややこしく感じちゃうから、名前で呼んでくれると嬉しいかな」


「それもそうですね。じゃあ、緋月さん。これからよろしくお願いしますね」


 そんなやりとりを交わしているうちに、楓たちの向かう研究施設が視界に入り始めた。


「見えてきましたね。てか、スーパーから研究施設ここってこんなに近かったんですね。私なんでこんな道で迷子になってたんだろう...」


 自分の情けなさに肩を落とす楓。緋月は優しく笑い、明るい声で楓を励ました。


「まぁ、誰だってそんなことはあるよ。気にしないで。さ、着いたし、結くんたちのところに戻ろうか」



 心配の念を抱えながらも、遊馬たちは楓と緋月の帰りを待ちつつ、真が持ってきたお菓子をつまみつつ軽い雑談を交わしていた。


 そんな中、突然入口の扉が音を立てて大きく開いた。


「みんなお待たせ~! 楓ちゃんも一緒に連れて帰ってきたよ」「みなさん、お待たせしました」


 緋月と楓が並んで扉の奥から姿を現す。と同時にふたりの男が入口の方へと駆け寄ってきた。


「楓、随分と遅かったじゃないか。心配したんだぞ、大丈夫だったか?」「緋月! お兄ちゃん心配したんだぞ」


 目的こそ違えど、ふたりの男の口から出るのはほぼ同じセリフ。そんなふたりの姿に神原はクスっと笑みを浮かべた。


「あっ、ご、ごめんなさい。ちょっと帰り道に迷っちゃって。でもね、この緋月さんが助けてくれてね......」「真、近いってば。というか、こんなことでいちいち心配しすぎだよ。まあでも、一応ありがとね」


 楓と緋月は各々返事を返す。楓は少し緊張した面持ちで言葉を紡ぎながら、無意識のうちに遊馬の手をぎゅっと握りしめていた。


「遊馬さんも真くんも、お互い似た者同士ですねぇ。こりゃ遊馬さん、人のことを『シスコン』なんて言えなくなりますよ」


 神原はその微笑ましい光景を目にしながら、独り言のように声を漏らして微笑んでいた。


 楓と緋月を含めた軽い挨拶を終えた後、みんなで世間話を交えながら和やかな雰囲気に包まれていた。

 ふと神原が遊馬の横に寄り、ツンツンと軽く肘でつつく。遊馬は驚いたように目を丸くし、神原の方へと顔を向けて話を中断した。


「ん? どうしたんだ神原? 何かあったか」


 察しの悪い遊馬は首をかしげ、神原の顔を見つめる。その姿にやれやれと呆れた表情を浮かばせ、神原は耳元で囁いた。


「楓ちゃんの件、今のうちに聞いておかなくて良いんですか?」


 今日の津麦兄妹との会合は、単に研究に関する議論をするためだけではなく、楓の父親に関する情報を得ることも目的のひとつなのだ。


 遊馬は「あぁ!」と思い出した様子で頷き、何事もなかったかのように津麦たちの方へと顔を向け直した。


「そういえば津麦さん方。君たちにひとつ聞きたい事があるんだが、いいかな」


「はい、大丈夫ですけど。どうしたんです?」


「確か君たちに子供はいなかったよな?」


 真と緋月は一瞬顔を見合わせた後、「はい」と短く答えた。


「では単刀直入に聞こう。君たち、もしかして隠し子がいたりしないか? それも17歳くらいの」


 その言葉に部屋の空気がピタリと止まった。全員が予想外の言葉に驚き、卓上のお菓子へ手を伸ばす手さえ止まっている。一拍置いてから、真は困惑した表情で問い返した。


「え、今...なんと?」


「いやだから隠し...」


「ちょっと待った!」と神原が遊馬の口を素早く手で塞いだ。


 ふたりは顔を寄せてひそひそと話し始める。そこに何の話をしているのだろうと、楓もそっとふたりの隣に移動し、耳を傾けていた。


「ちょっと遊馬さん、何言い出すんですか!」


「いや、まずは楓の父が津麦くんである可能性から潰そうかなって」


「津麦くん、多分僕と同じ20代後半くらいですよ。そんな人に17歳の子供をがいるとでも?」


 ああなるほどと。遊馬は納得したように頷き、再び真の方へと向き直った。


「すまない、なんでもない。忘れてくれ」


 津麦たちは不思議そうな表情を浮かべ、何が起こったのか理解できない様子で互いに目を合わせていた。


 遊馬が軽く咳払いをして仕切り直す。


「では改めて。津麦くんたちの親族で、17歳くらいの女の子供を持っている人っていたりしないか?」


「17歳くらいの子供ですか。17歳と言うと、ちょうど楓ちゃんくらいの子ですよね。いや、そんな歳の子はうちの親族に居ないですね」


 緋月も隣でうんうんとうなずいている。


「そうか、分かった。すまない、ありがとう」

──これで楓の父探しの件は振り出しに戻ったか...


 その時、楓が肩を落としているのが目に入った。どこか寂しげで、期待が裏切られたような表情だった。


「にしても遊馬さん、どうしてそんなことを?」


「えっ? あーいや、ちょっと、ね。ほら、あれだよ。あれ」


 不意に質問の意図を尋ねられ、動揺を隠せない遊馬。終いには語彙を失って、ははっと曖昧な笑みを返すことしかできなくなっていた。


 その様子に神原はため息をつき、さっと話題を切り替えた。


「さあ。世間話もこのくらいにして、そろそろ先の実験のミーティングを始めましょうか」


 神原の一言に一同は壁時計に目をやる。


「おぉ、もうこんな時間じゃん。神原くんの言う通り、そろそろ始めようか」


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