「TIME Coffee」——自家焙煎珈琲と静かな時間 土曜日の図書館、サファイアの午後 番外編
橘 瑞樹
第1話 はじめての一杯
その日、紫郎は阿蘇の町を歩いていた。
図書館は休館日。そしてホテルの仕事も休みだった。
春の風がやわらかく、どこか懐かしい香りを運んでいた。
ふと、通りの角に小さな看板が見えた。
「TIME Coffee」——自家焙煎珈琲と静かな時間
木の扉、白いカーテン、そして湧水の音。
紫郎は、吸い寄せられるように扉を開けた。
—
「いらっしゃいませ」
その声に、紫郎は思わず目を見張った。
カウンターの奥に立っていたのは、シャーロットだった。
「シャーロットさん……ここで働いていたんですね」
「はい。図書館のない日は、こちらでお手伝いをしております。ようこそ、お越しくださいました」
シャーロットは、エプロン姿で、いつもより少しだけ柔らかい雰囲気をまとっていた。
紫郎は、カウンター席に腰を下ろした。
—
「何かおすすめはありますか?」
「おじいさまのブレンドを、ぜひお試しください。私の誇りです」
そう言って、シャーロットが奥に声をかけた。
「おじいさま、一杯お願いします」
—
現れたのは、堂々たる体格の白髪の男性だった。
北条光時——身長一九〇センチ、体重一二〇キロくらいはあろうか。
その大きな手が、静かに豆を計り、ミルを回す。
「……はじめまして。式部紫郎と申します。いつもシャーロットさんにお世話になっております」
光時は、紫郎を見て、にやりとして、うなずいた。
「シャーロットの知り合いか。なら、シャーロットのブレンドのほうがよかろう。シャーロット、淹れてみなさい」
「ですが……」
「いいから。ただし、わしの代わりに出すのだから、最高の一杯を頼むぞ」
—
やがて、湯気とともに香りが立ちのぼる。
一口、口に含んだ瞬間、紫郎は目を見開いた。
「……やさしい味ですね。けれど、芯がある。まるで——まるで、シャーロットさんの声のようですね。いや、すみません。うまく言えなくて」
シャーロットが少しだけ照れたように微笑んだ。
「いや、いい答えだ。わしもそう思う」
光時はそう言うと、シャーロットが淹れたコーヒーの残りをカップに注ぎ、口に含むと、にやりとして言った。「まだまだ、修業が足りんがな」
—
その日、紫郎は一杯のコーヒーとともに、
シャーロットのもう一つの顔と、彼女の“根”に触れた気がした。
そして、心のどこかで思った。
——この人のそばに、もっといたい。
—
店を出ると、春の風がまた吹いていた。
紫郎は、胸の奥に残る香りを確かめながら、静かに歩き出した。
それは、はじめての一杯。
けれど、きっと忘れられない一杯だった。
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