宝石のような子

@sunohara_kao

水無瀬翠の話



 私は物語の結末を知らない。読みもしない小説を借りるようになって数ヶ月。雨と汗の匂いが混じった車両では、汗ばんだ肌が触れ合っている。電車に乗りたいのは、皆同じ。とはいえ、わかっていても不快なのだ。だから、半袖が着られなかった。が、今は匂いも、肌も割と耐えられる。それより恐ろしいものは、目の前にいるのだ。

 本の先で、黄みがかった柔らかそうな髪がちらついた。冷房の風がその髪を撫でる度、シャンプーの香りがふわりと漂う。顔を上げると絡む視線は、私を逃してくれそうにない。壁際に追いやられた私を守るかのように囲う太い腕は、とにかく意地が悪かった。

「翠ちゃん」

 掠れた甘ったるい声で、私を呼ぶ美しい顔の幼馴染は、樹岡琥珀という。顔のみならず、名前も美しい。こんなにも名前に説得力がある人間を、私は彼以外に知らない。きっと、天は二物も三物も与えるのだ。天は二つ、三つと同じ人間に長所や美点を与えた分、社会のバランスを取るために、誰かには一つも与えない。そうして生まれた凡人以下。それが自分だ。

 呼びかけに気付かないふりをしようと思ったが、植え付けられた罪悪感が手の甲をつねった。記憶の中の彼――琥珀くんは、いつも私の名前を呼んでいる。名前を呼ばない日など、きっとない。病める時も、健やかなる時も、私の手の甲をつねる時も、必ず琥珀くんは名前を呼ぶ。

 ――翠ちゃん。

 痛いのはこちらなのに、まるで自分が被害者だとでも言いたげに、琥珀くんはいつも悲しそうに顔を歪めていた。私のなにがいけなくて、なにが気に入らないのか、いくら尋ねても納得出来る答えは返ってこなかった。

「翠ちゃん」

 先程まで甘い響きを持っていた声が、苛立ちを含む声になった。つねられなくなってから、もう数年が経つ。しかし、私へ意地悪は依然として続いている。つねるのは曰く「飽きた」とのことだが、仮に今理由を尋ねても、きっと納得する答えはもらえないのだろう。

「なあに」

 返事をすると、琥珀くんが小さくふふっと笑う。この笑みを求める人は、この世にきっとごまんといるはずだ。だが、万人が欲しがるだろうその笑みですら、私は望んでいない。

「翠ちゃん、大好きだよ」

 そう囁かれた瞬間に、電車のドアチャイムの音が鳴った。満員の電車から次々と人が降りていき、電車の中はぽつぽつと空席が出来る。琥珀くんは、ため息と名残惜しそうな視線を残して、ドアの方へ向かっていく。

 私が降りるのは次の駅だ。これから、放課後まで束の間の安息を得る。ホームに目をやると、琥珀くんがこちらをじいっと見つめていた。大きな目を細めた琥珀くんは、私をつねった時と同じ顔をしている。その顔が何を思ってのことなのか、私にはわからない。

 やがて、ドアは閉まり、電車が動き出した。ガタンゴトン。ガタンゴトン。スピードを増していく電車の中で、漸く息が自由に吸えるようになった気がして、大きく息を吐いた。

「嘘つき」

 琥珀くんに言いたくて、言えない言葉が電車の中で漂っている。

 本当に好きだったら、意地悪なんてしない。好きだなんて、嘘なんだ。

 そう思うのに、繰り返し繰り返し囁かれた甘い言葉は、しっかり脳に張り付いている。まるで、アスファルトにこびり付いたガムのみたいだ。簡単に剥がせない言葉など、早く溶かしてしまいたいと思うのに、それは毎日毎日こびり付く。

 用済みの本をしまって、ぼんやりと外を見ると、雨の勢いが家を出た頃より増していた。強くなった雨の匂いは、シャンプーの残り香を洗い流していく。琥珀くんより、いっそ私を流して欲しいと思った。放課後になる前に。或いは、人生が終わるまでに。


 琥珀くんは、私と手を繋ぐのが大好きだった。体を動かすことが好きな琥珀くんの手は、いつも汗で濡れていて、どくどくと脈打っている。私は、そんな手がとても嫌だった。琥珀くんは、手を繋ぐふりをして、手の甲をぎゅうっとつねるからだ。

 あまりの痛さに私が声を上げて泣くと、琥珀くんは薄く笑う。笑うのを堪えているかのような、中途半端な表情はただでさえ不気味なのに、その後は悲痛な顔をする。「翠ちゃんがいけないんだよ」と言われている気がして、私の心には罪悪感が山ほど植え付けられた。

 私がつねられて泣く度に、母とおばさん―琥珀くんの母―は「あらあら、翠ちゃん。また始まったの」と笑った。私のあだ名は「泣き虫翠ちゃん」で、泣くことなんて毎日のことだったからだ。しかし、母は私が泣く理由を知らない。「どうしたの?」と聞きはしても、私が泣き続けるばかりだったので、深掘りすることもなかった。遠足で集合写真を撮る時に、カメラを前にしただけで泣くような子どもの話など、いちいち聞いてられなかったのだと今では理解出来る。それでも、どうにかして欲しくて、一度だけ母に相談したことがあった。

「琥珀くんがつねるの」

「えぇー?」

「つねるの!すごく痛いんだよ!」

「……あんたなんかしたんじゃない?琥珀くんに。そういうことする子かなぁ。あんたがとろいのを、いっつも琥珀くんが引っ張ってくれるじゃない。あー、それにイライラしてるのかな」

 母はいつも、何かの片手間に私の話を聞いていた。だから、昨日話したことを覚えていない。なんなら今日のことも怪しい。そんな人が少し考える素振りを見せたので、期待したのも束の間。まるで、奈落の底に蹴り飛ばされたような気持ちになった。

 お母さんは、私より琥珀くんを信じるんだ。昔、琥珀くんのお母さんに言ってたなぁ。

 ――琥珀くんは琥珀くんって感じよね。私はマタニティハイだったのかな。翡翠の翠なんてつけちゃって。恥ずかしいな。

 だからなの?私が宝石みたいに綺麗じゃないから、私が琥珀くんみたいじゃないから。私が泣き虫でとろいから

 つねられたところより、胸が痛くなった。少しずつ口の中から空気が抜かれて、胸の中がぺしゃんこになっていく。体が冷えて、喉がきゅうっと絞まっていった。

「琥珀くんは、そんなことしないでしょ」

 もう、母の顔は見えなかった。琥珀くんにつねられるより、何倍も苦しい。息が上手く出来なくなった。母は、泣き喚く私に呆れてため息を吐いた。

 琥珀くんは、歳の割に礼儀正しく落ち着いていて、なんでもそつなくこなすスーパーマンのような男の子だった。それだけではなく、誰が見ても美しいと言うであろう顔をしていて、愛らしい。そんな子がとろくて、泣き虫な私のような人間に寄り添う姿は、周りから見れば天使の子のように思えたことだろう。私が信用において琥珀くんより上になることなど、母相手にもない。そう知って、もう諦めてしまった。自分が悲しい思いをしたというのに、また深く悲しい思いをするのはもう嫌だったのだ。

「ほんと、泣き虫翠ちゃんね。早く直さなきゃね。そんな簡単に泣かないでよ。早く泣き止みなさい」

 母にこれ以上、呆れられたくない。そのために、私は泣き虫翠ちゃんをどうしても卒業しなくてはならなかった。しかし、琥珀くんが私をつねる限り、私はずっと泣き虫翠ちゃんのままだ。

 翌日ふと思い立って、琥珀くんに聞いてみることにした。

「どうして、私のことつねるの?」

 砂場で一緒にお山を作っていた琥珀くんは、ぴたりと止まった。止まった拍子に琥珀くんが持っていたスコップが滑り落ちて、せっかくのお山が崩れていく。

 頑張って作ったのに。

 そう思うと、目の前が滲んだ。まだ見える視界の中で、琥珀くんは眉間に皺を寄せる。その顔だって、綺麗なのだから私は本当に救われない。なんて、惨めなんだろう。拾われたスコップが、お山の根元にぐさりと刺さされた。そのさりげない行動にでさえ、私の体の空気を抜いた。

「私が、泣き虫で、とろいから、つねるの?」

 やっと口に出した疑問は、途切れ途切れでさぞ聞きにくかったことだろう。なのに、琥珀くんはいつも私が言っていることを理解する。いつもそうなのだ。私が物事の悲しさを口に出せなくても、琥珀くんは全てわかっていた。私に必要なフォローを知っていた。母よりも。だから、尚のこと惨めだった。

 ――翠は、琥珀くんがいないとだめね。

 ――琥珀くんがいてくれて良かったね。

 だめじゃない。良くない。母の望みが、これ以上手のかからない娘になって欲しいであろうことであろうことは、幼いながらに理解していた。一人で出来るように、一人でも頑張れるように、ならなきゃいけないのに、いつも琥珀くんが側にいるから、私はいつまでも何も出来ない。

 琥珀くんは、ポシェットに入ったハンカチを私の頬に押し付けた。私が泣くんだろうとわかれば、いつもこうだ。私だって、ハンカチくらいあるのに。

 一粒涙がこぼれて、ハンカチが涙を吸った。渋々受け取る琥珀くんのハンカチは、いつも良い匂いがした。

「好きだから」

「えっ」

「翠ちゃんが、好きだからだよ」

 そう言う琥珀くんの顔は、いたく真剣だった。元より琥珀くんは、よく笑うタイプの子どもではない。周りをじいっと観察しては、その場面に適した行動をひけらかすこともなく、静かにとる。それを見た大人に褒められても淡々と「ありがとう」と言うだけで、認められた喜びや幸せを求めていないようだった。大体の時間を無表情で過ごす琥珀くんに、真摯さが見えたのは初めてだった。

「で、でも」

「うん」

「好きだったら、意地悪しないよ」

 私は、真剣にそう思っていた。好きなら、大切にしなければいけない。傷付けたり、怒らせたり、怖がらせたり、とにかく嫌なことはしてはいけない。その頃の私は、好きな人を想像すると必ず母が浮かんだ。母と琥珀くん、おばさん、先生、たまに父。私が構築出来た人間関係はそれだけだ。同世代に友達は一人もいなかった。琥珀くんがいたから、作る一歩も踏み出せなかったが正しいのだけど。

「じゃあ、翠ちゃんは俺のことが好きなんだね。俺に意地悪しないもん」

「ち、違うよ」

 琥珀くんの眉間の皺が更に深くなった。琥珀くんの怖い顔は、昔読んだ絵本の雪女の顔に似ている。だからきっと、私の体の周りに冷たい空気がまとわりついているみたいな錯覚を覚えるのだ。

「初めて会った時ね、翠ちゃんは俺のことを見て泣いたんだよ。それからずっと翠ちゃんが好き。泣いてる翠ちゃんが一番好きだな」

 空気と言葉がぐさりと刺さった。このお山は、私だ。琥珀くんはきっと知らない。言葉がどれだけ人に刺さるのか。どれほど痛みを与えるのか。だから、ずっと無神経でいられるのだ。涙がまた頬を滑った。意地でもこのハンカチは使ってやらない。押し付けられたハンカチを太ももに置いて、ポシェットから自分のハンカチを取り出そうとする前に、頬に柔らかいものが触れた。熱い息が頬にかかったかと思うと離れていって、何をされたのか理解する。琥珀くんの唇は、私の涙で濡れていた。

「翠ちゃん、大好きだよ」

 もう琥珀くんがどんな顔をしているかわかるほどは、視界ははっきりとしてはいなかった。公園には、ただただ私の泣き声が響いていた。


 その日から、琥珀くんは殆ど毎日、私のことを大好きと言う。なのに、やっぱり私をつねる。体が大きくなって力が強くなった分、痛みは大きい。だけど「どうして」はもう聞けなくなっていた。私が納得出来る答えを、琥珀くんは出してくれないのだろうと思ったからだ。

 小学生になっても、琥珀くんはとても綺麗だった。綺麗過ぎて、とうとうキッズモデルとしての仕事を始めていた。時々、琥珀くんは仕事で学校を休む。他の子より、私より、授業を受ける機会が少なかったのに、成績は学年で一番良かった。もしかしたら、学校一良かったかもしれない。私が塾で学年相当の科目をやっている時、琥珀くんはとっくに中学、高校の科目に入っていたから。

「翠ちゃん、それ答え違うよ」

 一緒にプリントを進めていると、琥珀くんはご丁寧に先生がやるはずの添削までしてくれた。もちろん、自分のプリントも捌きながらだ。私は、琥珀くんのことが怖くて仕方がなかった。だけど、尊敬もしていた。なんでも出来る琥珀くんは、本当に宝石みたいな子だと思った。私とは違って。

「琥珀くんは、スーパーマンみたいだね」

 褒めるつもりで口にしていた言葉が、いつからか当てつけみたいに響くようになった。この言葉の意図を、琥珀くんが読めないわけない。なのに、琥珀くんは目を細めて笑う。

「翠ちゃんがそう言うなら、そうなるよ」

 琥珀くんは、まるで私のために生きているみたいだ。そんな勘違いをしてしまうほど、真っ直ぐに私を見た。その視線が痛くて、私はプリントに目線を逃した。

「翠ちゃんは、スーパーマンが好きだね。映画だっけ」

「うん」

「今度一緒に見ようね」

「……うん」

 相槌を適当に打つ。一度しか見たことのないスーパーマンは、離婚して家を出た父と見た映画だ。父とは、殆ど顔を合わせたことがなかったが「一度くらい会ってみたら」と母が言うので泊まりに行った。

 ――周りの子にはいるお父さんという存在は、どんなものだろう?

 好奇心半分、恐怖心半分で会ったその人は、良くも悪くも少年のような人だった。家には、服とゲームと映画のDVDが散乱していて、足の踏み場がなく、ローベッドが生活の拠点。だからベッドのすぐそばに、折りたたみのテーブルがあって、食べかけのお菓子と飲みかけのコーラが置きっぱなしになっていた。

 だから、父と母は別れたのだな。子ども心にそう思った。母は、病的なまでに綺麗好きで、部屋の隅の埃を何十分もかけて掃除するような人だったから、映画を見るというのは、間がもてない父が苦し紛れに出した案だったが、幼い私は滅多に買ってもらえないお菓子とジュース、初めての娯楽に心を踊らせた。

 今のなっては、優しさではないことを理解している。それでも、お父さんとスーパーマンが重なって、なんでも出来る優しい男の人というイメージが拭えない。琥珀くんは、私が言うならスーパーマンになるらしいが、これ以上何になりたいのだろうか。もう完璧なのに。

 一緒にいられればいられるほど、私の存在が霞むのに。

 琥珀くんが仕事で学校をお休みしていると、ほっとした。教室がいつもより明るく感じるし、クラスメイトと出来るちょっとした話が楽しい。意地悪をされている身だ。自分が意地悪になってはいけない。そう思いつつ、私は琥珀くんがずっと仕事だったらいいのにと思うようになった。宝石の影に隠れた、石ころだって唯一の何かなのだ。きっと、そう思いたかったのだ。

 しかし、安寧とは続かない。琥珀くんは、少しずつ子役として活動も始めていたのに、なんの未練もなく仕事を辞めてしまった。

「琥珀くんは、心が疲れちゃったのよ。あんた世話になりっぱなしなんだから、助けてあげなさいね」

 そう母に言われて、どうして私なのとは口に出せなかった。琥珀くんには、私以外に友達だっているはずなのに。たくさんの子に慕われているのに。琥珀くんがそばにいると、私は意地悪になってしまうのに。泣き虫翠ちゃんから卒業出来ないのに。琥珀くんのことを嫌いになっちゃうかもしれないのに。

 朝食の少し焦げたトーストを前にして、私は固まった。鼻の奥がつん、とする。とっくにサイズが小さいズボンの上に涙が落ちていった。いつもの母の呆れたため息が聞こえて、私の心にひびが入った。

「今日、琥珀くんうちに泊まるから」

 吐き捨てるような言葉に、私の心から欠片が落ちていった。琥珀くんに寄り添わなければいけない心の余裕なんて、私にはどこにもない。それに気付かれないというのは、他人からは私がさぞ毎日呑気に生きているように見えたのだろう。母にさえ。

 登校班の集合場所で久々に会った琥珀くんは、少し顔色が悪かった。必死におばさんが話しかけているのに、琥珀くんはただ俯くばかりで、誰も必要としていないみたいだ。そんな琥珀くんが私なんて必要なはずがないのに、どうしておばさんは私の姿を見ると縋るような目線を送ってくるんだろう。

「琥珀、翠ちゃん」

 今まで何も反応しなかった琥珀くんが、すっと顔を上げた。私の姿を目に入れた瞬間、琥珀くんは並んでいる子を乱暴にかき分けて私の前に走ってきた。その一歩が近づく度私は苦しくなって、逃げたくなった。母に掴まれたランドセルのせいで、それは叶わない。叶ったところで、その後が怖い。琥珀くんの熱い手が、私の手を握る。琥珀くんは、母とおばさんがいるところでもバレないようにつねるのが上手だ。我慢しようと噛み締めた唇に血が滲んだ頃、琥珀くんは言った。

「翠ちゃん、大丈夫だよ」

 どうして、私が慰められているのかわからなかった。慰められたかったのは、琥珀くんの方じゃなかったの。そう尋ねるより前に、登校班の列が動き出した。私たちも、それに続いてゆっくりと歩き出す。後ろの方から、おばさんのわっという泣き声がした。周りの子たちが一斉に振り向いたのに、琥珀くんは振り向かなかった。おばさんを慰める母の声がした。母は人を慰めることを知っているのだなと、私は初めて知った。

 それから、五分ほど黙々と歩いたところで、琥珀くんは何度か頷いた後「飽きた」と呟いた。琥珀くんが突然話し出す時、良いことが起きたことはなく、私は少し不安になる。しかし、無視を決め込むと大体碌なことにならない。

「何が飽きたの?」

 私が尋ねたくもないのに能天気に聞くと、琥珀くんは何故かほっとした顔をする。そして、今までにないくらい柔らかく笑った後に言った。

「翠ちゃんのことつねるの、飽きた」

「えっ」

「泣いてる顔以外も見なくなったから、優しくしてあげる」

 珍しく良い話なのに、素直に喜べない自分がいるのが不思議だ。琥珀くんは意地悪だけど、嘘は絶対に吐かない。この話は信用してもいいはずなのに、なんだか背筋が薄寒かった。

「翠ちゃん、大好きだよ」

 琥珀くんの繋いだままの親指が、私の手の甲を撫でる。嘘を吐かない琥珀くんの大好きは本当か。考えあぐねて、上手く受け取れなかった。


 その日の琥珀くんは、本当に私の手をつねらなかった。その代わりに、私に手を繋いでと子どものようにねだった。同じクラスではないのに、休み時間になると私のクラスに顔を出して、休み時間中はずっと手を繋いで欲しいと言う。つねられるよりは。そう思うのに、手が素直に出せないのは周りの視線のせいだ。

 男女でつるんでいようが、仲良しで済まされていた日々とは、もう違う。誰が誰を好きなんだ。誰と誰が付き合ってるんだ。そんな噂が飛び交う毎日を、同級生はさぞ楽しんでいたことだろう。そろそろ話のネタも尽きていた頃に投下された種を、みんな好奇心と罪悪感の薄い悪意という水で育てていく。

「翠は、琥珀とラブラブなんだって」

「翠は、琥珀と結婚するんだって」

 噂の主語は、いつも私だった。みんな琥珀くんには言わないのに、私には面と向かって堂々とからかいの言葉を浴びせた。それを琥珀くんが気付かないわけない。今までの琥珀くんだったら、私が他の人と関わる瞬間に割り込んだし、それでも踏み込もうとする人に「うるさい」と苛立ちも隠さずに言い放った。だけど、琥珀くんは何もしないし、何も言わなかった。それどころか噂を肯定するみたいに、しょっちゅうクラスにやってきて、少し汗ばんだ手で私の手を握っては誇らしげに笑うのだ。私なんかといても、琥珀くんに得るものはないのに。

 噂がいつしか、私を無視した公然の事実に変貌を遂げた頃、私の持ち物がいくつか消えていった。最初は消しゴムだった。物をよく落とす私の荷物チェックは、琥珀くんの毎日のルーティンだった。

「消しゴム、またないね。落としたの?」

「……筆箱に入れた」

「はずが付かないから、ちゃんと覚えてるんだね。じゃあ、翠ちゃんは間違いなく入れたんだよ」

「でも、ないよ。もしかしたら、違うのかも」

「ううん。翠ちゃんは、ちゃんとやったんだよ。自信なくさないで。またなくなったの知ったら、おばさん怒るでしょ。俺のあげるからね」

 もらったらもらったで怒られるのだが、琥珀くんは受け取らないと雪女の顔をする。渋々と受け取って、おばさんに返すのがそのうち私のルーティンになった。消しゴムの次には教科書、その次は上履きがなくなった。

「教科書と上履きはあげられないから」

 そう言って琥珀くんがどこからか必ず見つけてくるので、特に困ったことはなかった。だから、私はなかなか気付かなかったのだ。自分がいじめの標的になったことに。そして、物がなくなる度に、琥珀くんが生き生きと笑うことに。

 大体なんとかなったクラスで作る二人一組では、何故か三人一組が生まれて私だけがあまる。先生は仕方ないから、私と二人ねと言う。ノートがびりびりに破かれて、体操着が水溜まりに浸かって、トイレから戻るとランドセルが校庭に落ちて、お気に入りの服が牛乳をかけられて雑巾のような匂いがした。ここまでされても、あまり私は悲しくなかった。私は、私の物に価値がないことを知っていた。誰も私の物なんて欲しがらないことを、知っていたのだ。

 物がなくなると、琥珀くんは必ず私の目の前に現れた。新しいノート、水洗いされた体操着、校庭の砂が払われたランドセル。全て琥珀くんが、息を切らして持ってきた。給食が終わった後の中休み、先生が服を保健室から持ってくるまで、私はぼーっとしていたが、牛乳臭いままの私を見た琥珀くんは、苦々しい顔をした。

「翠ちゃん、俺四時間目体育だった」

「そうなんだ」

「ちょっと臭いかも」

「?」

「体操着も、これも」

 自分のTシャツをひらひらさせた琥珀くんの意図が読み取れずに、少しぽかんとしていると先生が教室に戻ってきた。先生が持ってきたのは、どこかのサッカーチームのユニフォームで、運動音痴の私にはあまりにも似合わない服だった。それでも、牛乳臭いよりマシだ。ありがたく服を受け取ると、琥珀くんが口をつんと尖らせる。琥珀くんのつまらなそうな、期待外れのような表情を見て、漸く私は琥珀くんが服を貸そうとしていたことに気付いた。

 その日、流石にまずいと思ったのか担任が家に着いてくることになると、琥珀くんは私の手を強く握った。何かの抗議のようにも思えたが、私は少しだけ手を握り返しておしまいにした。突然の担任の訪問に母は、眉間に皺を寄せて私を睨む。母の中では、いつでも原因は私だ。

「翠がなにかしましたか?」

 幼稚園でも母は先生に話しかけられると、こう言っていた。だから、そろそろ私もこんな言葉一つで苦しくならなくても良いのに、毎回毎回律儀に落ち込んでしまう。伝えられる出来事が悪いことでも良いことでも、母は必ずため息を吐く。母にとって、私の話はただ呆れるだけの、生活には不必要な情報だったのだ。

「実は水無瀬さん、いじめにあっているようで」

「それは、翠がなにかしたからじゃないですか?」

「特に水無瀬さんが原因になっているわけではないようですが……」

「特に何もしてなくても、相手を苛立たせることはあるでしょう?この子は本当にとろくさいから」

 母の言葉を全て聞く前に、涙が溢れていた。自分では、もうどうにも出来ないのだと悟ってしまったのだ。とろくさくないように頑張れば頑張るほど、他のことが疎かになる。そして、丁寧にやればとろくさい。せめて、なるべく人に迷惑をかけないようにしてきたつもりだった。自分だけが損をする分には、いくらでも良かったから。しかし、それでも嫌われてしまうのなら、もうどうしようもない。生きているだけで、嫌われるなんて何もしようがない。

 いっそ、この地面がひび割れて、そのまま落下し続けたいと思った。私は無責任だったから、私が私のせいじゃない方法で死んでしまえばいいと思ったのだ。なのに、琥珀くんはずっと手を離してくれない。

 手を煩わせる何も出来ない幼馴染なんて、琥珀くんもいらないはずだ。この手を振り払ったら、どうなるだろう。ゆらと手を揺らすと琥珀くんの手に力が入った。隣にあった琥珀くんの足が前にくる。琥珀くんのスニーカーは真っ白で綺麗だった。綺麗な人は、身につける物も綺麗なのだ。

「翠ちゃん、俺は」

 琥珀くんが何かを言おうとしている。だけど、それを聞く余裕はなかった。私は、初めて悲しいに溺れた。本当に、海の中に放り込まれたみたいに息が出来なくて、苦しい。感情が溢れ出しそうになるほどに頭を埋め尽くすと、自分でも手に負えないのだと知った。ぼやけたままの担任と、母と琥珀くん。その中で私を見ていたのは、琥珀くんだけだった。

「翠ちゃん!」

 私の世界がぐらりと揺れた瞬間、琥珀くんは私の手を思い切り引いた。私の体は地面でなく、琥珀くんの体に飛び込む。

「翠ちゃん。翠ちゃん……」

 ぼんやりとしてきた世界で、私の名前を呼んでくれるのは、琥珀くんだけだった。私は、母がどんな顔をしているか気になっているうち、ゆっくり意識を手放した。


 翌朝、空腹感で目が覚めた。カーテンの隙間から差した日が、見覚えのある髪色をきらきらと輝かせている。

「翠ちゃん、おはよう」

 琥珀くんは、いつも早起きでうちに泊まった時には、必ず先に支度を済ませている。今日は泊まりの予定じゃなかったはずだが、お泊まりバッグがあるということは、おばさんが持ってきたのだろう。

「琥珀くん、ご飯出来たよー」

 キッチンの方から、母の声がした。ここでも、私は必要とされていないらしい。眠っているうちに消えたと思った悲しみが、胸の中でじんわりと広がる。このままリビングに行ったら、母は琥珀くんには柔らかく微笑むのだろう。じゃあ、私には。そう考えると、もう一生寝ていたい気持ちになった。布団に潜り込もうとした瞬間に、琥珀くんが布団を剥ぎ取って部屋の隅に放り投げる。

「翠ちゃん、起きるよ」

「もう、いやだよ」

 嫌なのが自分なのか、母なのか、琥珀くんなのか、もうわからなかった。だけど、いやだと口に出すと、少しだけ落ち着いた気がした。だから、きっと自分が嫌なのだと思った。人に嫌われて、人を嫌う自分なんて、どうにも救われなくて、惨めったらしいから、自分の方が都合が良かった。

「翠ちゃん」

 琥珀くんは、私の名前を呼ぶのがきっと好きなのだなとふと思った。いつも、いつも、翠ちゃん。翠ちゃん。私は、この名前が大嫌いだった。親からもらう初めての贈り物が呪縛みたいに、私の体に絡みついている。名前通りの、きらきら輝く素敵な女の子になりたかった。そうなるには、私には素養がない。何も、なかった。

 返事をしない私に、琥珀くんは苛立つ様子を見せない。珍しいなと思っていると、琥珀くんが私の手を握った。

「俺は、そのままの翠ちゃんが好き」

「……え」

 ふいに手を引かれて、私の体が起こされた。雑に乗られたベッドのスプリングが大きく軋む。琥珀くんが私の目の前に座って、私の顔をじいっと見つめくる。琥珀くんの顔は、今にも胸が張り裂けそうといったような、切な気な顔をしている。

 悲しいのは、私だよ。そう口に出そうとして、阻まれた。琥珀くんが、私を抱きしめたからだ。

「翠ちゃんのお母さん、翠ちゃんが眠ってる間、一度も顔見に来なかったよ。俺は、ずっと翠ちゃんのそばにいたよ」

 また、苦しくなった。母に関心を寄せられないことが、本当に苦しくて、幼馴染に全て任せっきりにされたのが、本当に悲しい。だけど、私はもう人のせいにしなくては壊れてしまいそうだった。だから、琥珀くんが抱きしめてくるのが苦しいふりをして、琥珀くんを突き飛ばした。

 琥珀くんは、思ったより軽く飛ばされて、ベッドから落ちていく。ゴンッと鈍い音がして、辺りがしんと静まり返った。こういう時、人は自分のことしか考えられないのだなと私は知った。心配なんて、一切しなかった。ただ、床に転がって呻く琥珀くんを見つめていた。これを見たら、きっと母は琥珀くんの心配をするのだろう。

 私は、心配もしてもらえなくて、何ももらえないのに。私のお母さんなのに。

「琥珀くんが悪いんでしょ」

口に出して、はっとする。それなのに、悪態がやめられない。

「全部、琥珀くんのせいだよ!どうにかして!」

 荒れた心のまま、投げた枕が琥珀くんの体に直撃する。こんなことしても、どうにもならないことはわかっている。悪いのは、全て私だ。私が上手く生きていけないのは、琥珀くんが原因じゃない。ないものねだりの八つ当たりなんて、最低だ。そう思っているのに、謝罪の気持ちがちっとも湧かない。

 今、私を支配する感情が怒りか、悲しみかもうわからない。涙がぼろぼろと溢れるのに、何か物を壊したくて仕方がない。自分の腕に、乱暴に爪を立てる。深爪の私の指は、私をちっとも壊してくれない。

 私が一番壊したいのは、私自身だ。

 声を殺して泣いているうち、琥珀くんが起き上がる。きっと怒っているだろう。私は、やり返されるのを覚悟した。琥珀くんは、ゆっくりと私に近付いてきて、懲りずに私の隣に座る。そして、私の手首を掴んだかと思うと、爪を立てた手を引き剥がした。

 琥珀くんの顔を見たくなくて、視線を落とす。琥珀くんの手が、薄っすら付いた爪の痕を優しく撫でている。その手は珍しく、冷たかった。

「わかった。どうにかする」

 琥珀くんは、そう言うと私の頭を何度か撫でて、私の部屋を出ていく。

「おばさーん。翠ちゃん、学校休むから。俺は行くから、一回帰るね」

 そんな声が廊下から聞こえてすぐ、母の戸惑う声だけが家に残った。

 母は、その後も私の顔を見にこようとはしなかった。昔からそうだ。風邪を引いて熱を出した日は、いつも布団に包まって、母を待っていた。待ちくたびれて眠っているうちに、おかゆと着替えが用意されて、目が覚めたら誰もいない。そんなのはもう今更なのに、やけに胸に刺さったのは、琥珀くんが言葉として形にしたからだろう。

 母は、可能なら私とは関わりたくないのだ。娘だから仕方なく育てているだけで、責任は果たすつもりはあっても、心を傾けたくはないのだ。それもとっくに気付いていたのに、気付かないふりをして、いつか与えられる日を間抜けに口を開けて待っていた。私は、泣き虫翠ちゃんを卒業しなきゃいけないのではない。母へ期待の諦めなければいけなかったのだ。

 止まりかけていた涙が再び溢れ始めた。早く泣き止みなさい。そう言われ続けた毎日、今日は誰も見ていない。今日が最後だ。そう決めて、声を上げて泣いた。やはり、母は私の顔を見に来なかった。


 その夜、おばさんと琥珀くんが家にやってきた。

「琥珀が、学校でお友達に暴力を……。翠ちゃんをいじめたからって……」

 おばさんが玄関で泣き崩れるのを、母が支えて背中を摩る。おばさんは、いつも私に助けを求めるような視線を送ってくるのに、この時ばかりは違った。憎くて、憎くて、たまらない。そんな視線をもらって、初めて私は母の視線には憎しみが籠っていたのだと知った。

 それを知っても、私は動揺しなかった。もう母の気持ち一つで動く感情は、どこにもない。妙齢の女二人が泣きながら寄り添う様は、どこか滑稽で奇妙だった。琥珀くんも多分、そう思っていたんだと思う。ああいうのを苦虫を噛み潰したような顔というのだろうなと学んだ。

 崩れ落ちた女二人の脇を関心のなさそうに通った琥珀くんは、まっすぐ私の元に来た。三角巾で腕を吊り、膝には湿布。どこをとっても、痛々しい姿だった。それなのに、琥珀くんはいつもと変わらず、私の手を取る。そして、ねちっこく撫でながら、目を細めて微笑んだ。私は琥珀くんの表情を、つい最近までなんと呼ぶか知らなかった。結末の知らない小説の一行目は、いやでも頭に入る。

 ――男はいつだって恍惚として、女を見つめていた。

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