第四章

黄昏時

「ただいま。」

 日が傾き、部屋はオレンジに染まり始めた。

 窓の外では潮風が木々を撫で、ランプの灯がわずかに揺れている。

 乾いた砂と塩の匂いが、扉の隙間から流れ込んできた。

 Aが小屋へ戻ってきた。

 胸には、ウサギの影が滲むペンダントが揺れていた。


「おかえり。」


 レーネは尻尾をピンと立てて、トトトッとAへ駆け寄る。


「遅くなってごめんなさいね、レーネ。」


 Aは指先ですりっと撫でたが、レーネは驚きのあまり毛を逆立てた。

 外では潮が引き、波の音が低く長く続いていた。


「やぁね、そんなに驚かなくても。」


 Aはくすくすと笑い、椅子に腰を下ろした。

 木のテーブルに手を伸ばし、掌でその感触を確かめる。

 綺麗に加工された滑らかな質感。丁寧な職人の技のおかげだ。

 

「貴方には何も言っていなかったもの。仕方ないわね。」


 ぽん、とテーブルを軽く叩くと、水の玉が現れてふわりと浮かび上がった。

 夕陽を閉じ込めたように、その表面は金と群青を溶かし合っていた。

 Aはそれを見つめながら、静かに言った。


「私の名前は、石の中に閉じ込めているの。ウサギと一緒にね。」


 レーネの瞳が細く揺れる。


「ウサギと一緒に封じたの?」


「ええ。前にも言ったようにウサギの名前も封じたの。

 呼べばその形にとらわれて、解呪が難しくなるの。」


 レーネははっとしたように尻尾を揺らした。


「もしかして……僕の名前を呼ばなかったのも、そのせい?」


「そう、ごめんなさいね。」

 Aは穏やかに微笑んだ。

「あなたを人の名前で呼ぶと、その名で“形”を縛ってしまう。それが理なの。

 だから「黒猫」と呼んでいたの。そうしたらあなたは名前には縛られない。

 でも――あなたが望むなら、これからは名前で呼ぶわね。」


 レーネは尻尾を揺らした。


「――それとね」


 水の玉を指先で転がしながらAは続けた。


「ウサギを、解呪してみようと思うの」


 「えっ」とレーネは驚いたように声をだした。


「祝福と呪いは紙一重なのは、貴方もよくわかっているでしょ」


 ふわりと水の玉を再び浮かせて、レーネの鼻先に水の玉をはじかせた。


 

「石に閉じ込めたのは、ウサギじゃなくて……たぶん、私自身だったのね」

 自嘲気味に笑ったAの横顔をレーネは静かに眺めた。


 以前のような消え入りそうな悲しさはそこにはなかった。


「ねぇ、A」


 レーネは聞いた。


「ぼくに何かできる事はない?」


 Aはしばらく考えた。


「そうね、ウサギの解呪が成功した時のために部屋をひとつ増やしておいてくれると嬉しいわ。あと、寝台もね。」


 夜の気配が始まっていた。

 海の方角から、かすかに波の音が聞こえた。

 それは、遠い誰かの歌の残響のようでもあった。

 

 ――今ならわかる。

 私が恋したのは、あの声の向こうにある“命の震え”だったのだと。


 

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