涙を食む猫
――失敗した。
気分転換のつもりで市場に連れ出したのに、
結局、Aの古い傷をまた開かせてしまった。
川辺で身をかがめ、声もなく泣きじゃくる背中を見ていると、
胸の奥がひりついた。
それでもAは、本当に叫びたい言葉を絶対に口にしない。
――叫べば、ウサギに届いてしまうから。
Aはそう言って、ペンダントをそっと握りしめていた。
あのウサギは完全に眠っているわけではない、と。
僕も知っている。
ウサギはただ石の姿で、深く息を潜めているだけだ。
すべてを拒んで沈黙したのではなく、
いつでも「起きよう」と思えば、
その呪いはすぐに解ける。
――そんな眠りだ。
「もう大丈夫」
――ひとしきり泣いたあと、Aが必ず言う言葉だ。
僕は知っている。
その時だけは、本当に"大丈夫"なだけだ。
それでも追及はしない。
それが僕なりの、Aへの敬意の形だ。
「今日は、早く寝よう」
Aの背に尻尾をそっとあて、軽く叩いたあと、体を寄せた。
そのときに気がついた。
僕の身体は、まだ子猫のままだった。
真っ赤に泣き腫らした目で、登りはじめた月を見上げるA。
「ねぇ、今日のブドウ飴はどうだった?」
僕はわざと話を変えた。
「――そうね。甘すぎて、苦かったわ」
Aは小さく笑って立ち上がった。
その笑顔には、まだ涙の跡が光っていた。
「僕、帰ったらクラッカーにベリーのジャムを乗せて食べたいな」
僕はAのドレスに少し爪を立てて、肩までよじ登った。
「爪、立てないでよ。子猫の爪は、クラゲに撫でられたみたいになるの」
「ごめんね。でも――僕、可愛いから許して」
わざと喉を鳴らして頬を寄せた。
背中に、Aの涙の冷たさがゆっくりと染み込んでいった。
「しかたないわね」
Aの頬が緩んで笑った。
ごめんね。
僕は、こういうふうにしか君の涙を拭ってあげられない。
本当は――人の姿で、
人の指で君の涙をすくい取りたい。
でも、君はそれを望まないだろう。
だから僕は、猫のままで君の涙を受け止めるよ。
「クラッカー、何枚食べる?」
「十枚」
「そんな小さな体で? 入るのかしら」
「僕を舐めないでよ。大きくなれるんだからね」
「はい、はい」
月が高くなるころ、木造りの小屋に着いた。
「今からクラッカーにジャム塗ったら、早く眠れないわね」
空を見上げるAの肩から降りて、僕は身震いをした。
「じゃあ、一緒に寝よう」
「いいの?クラッカーは?」
「明日でいいよ」
「……そう」
不思議そうにAは呟いて、指先でドレス弾きを寝間着に変えた。
「僕もう眠いんだよね」
僕は体を大きくして、寝台に乗った。
「ねぇ、はやく」
Aに寝台へ来るように促した。
「せまいよ」
困ったように笑いながら、Aは隣に寝転がった。
「貴方の声は、夜を包む声ね」
「ふぅん?」
Aはよく、不思議な言葉を使う。
それが人魚の方言だと知ったのは、ずいぶん前のことだった。
「子守歌を歌ってみて」
僕は、覚えているかぎりの子守歌を歌ってみた。
するとどうだろう。
肩を揺らして、Aは笑い出した。
「ねぇ、眠れない。子守歌になってない。夜を疾走させているわ」
ひとしきり笑うと、気が済んだのか、僕に向き直って静かな寝息を立て始めた。
僕はAの身体に爪を立てないように、そっとしがみついた。
二人の寝息が、波の音に沈んでいった。
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