昼の夕暮れ
ぽす、ぽすっと木の床を歩く音がする。
窓辺からは鋭い角度の日差しが突き刺さっていた。
洗いざらしのカーテンが風をやわらかくつつむ。
しんと冷えていた空気は陽の光で熱を含んだ。
「もうお昼だよ。起きて」
低いバリトンがAの眠りをほどいた。
「おはよう、夜を包むような声で昼を告げる鶏ね」
黒猫は大きな体でAに頬を寄せる。
「早く起きて」
急くように声に太さを増しながら、大きな肉球でAの頬を押さえる。
「あなたの声と、その柔らかな甲羅の肌触りは、夢から起きるにはあまりにも幸福よ」
呆れた様に黒猫はため息をついた。
「僕、今日市場に行ったんだよね。ベリーのジャムを買ってきたんだよ。」
くすんだ木のテーブル。その上にはとろみのある、紅い果実の詰まった瓶が置かれていた。
――紅。
海の中にいた時は生命の色だった。
命を失うときに流し、命を際立たせる時に強い光として際立たせる色。
――でも、今は穏やかな日常の甘味。
「……綺麗な色」
唇の中で、思わず言葉になる。
部屋の中の影は徐々に短さを増していった。
「ありがとう、じゃあスコーンをつくる?それともビスケット?パンケーキでもいいね」
身体を起こして黒猫の柔らかい毛並みをなぜた。
ふわりとした毛並み、指の間を滑る滑らかな光沢を帯びた毛はどれほど撫でても飽きが来ない。
「僕は、なんでもいいよ」
喉を鳴らしながら心地よさそうに額を寄せる。
「僕、今日面白い子を見つけたよ」
Aは意外ねと言う言葉を飲み込みながら「へぇ」とだけ漏らした。
「今日、歌うらしいよ。一緒に行かない?」
黒猫もまた「気分転換に」と言う言葉を飲み込んだ。
「ところで午後って12時間しかないの、陽が昇っているのはその半分。」
好奇心に負けたのか、ようやく黒猫から体を離し、支度を始めた。
トントン、と指先をテーブルに鳴らすと、水の塊が浮かび、流れるような線を描いてAを包んだ。
水の塊は顔をなぞり、軌跡を描きながらAの寝間着を外出着に様変わりさせた。
限りなく黒に近い深緑のドレス。
鮮やかさを拒むようだった。
森を深い穴に沈めたら、このような色になるだろう。
「陽が沈む前にいきましょうか」
くるりと体を翻した。
布の裾が揺れるたび、水面の記憶がかすかに音を立てた。
Aは瓶を手に取り、優しく指でなぞった。
ふと、口元が緩んだ。
うっすらと色づいた唇の隙間から白い歯がのぞいた。
「このジャム好きなの。大切に頂くね」
陽の当たらない棚へと置いた。
影の中、赤い果実の色が鮮やかに輝いた。
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