第12話 色を視る少女


 ――――その日。


 

 雪が降り始めた。



 道は白に覆われる。



 視界に入る赤いトタン屋根もまた、まばらな白の斑点模様を写した。


 学校帰り、愛弓はいつものようにユキの隣でたわいも無い話を繰り返した。白い息を吐きながら。


「でさぁ、田中先生の話めっちゃウケたよね!飯島君も奈緒ちゃんも何故か歌い出すし!ユキも笑って無かった?」


「……そうだね。……面白かったよ!」

 笑い方は知っていたが、タイミングを合わせる方法は知らなかった。

 

 愛弓は小学校からのクラスメイトで幼なじみ。昔から一緒にいた。


 ユキはあまり人付き合いが得意ではなく、表情もあまり豊かとは言えない。皆がユキを避け、ユキもまた人を避けていた。

 

 緑色の左目…………。


 普通ではなかった。


幼少期から大人達はその緑色を気味が悪いものとして扱ってきた。母親がいくつか病院を回ってくれたが、何も異常は無かった。


 愛弓はいつもその緑色の左目の事を気遣ってくれる。「かっこいいじゃん!」と。だが、温かみのオレンジ色に混ざり合いながらも、最後は空虚の白に塗りつぶされた。



 ――あぁ、いいなぁ。



 そのまま、足元の雪を見つめながら歩く。踏みしめた足跡が、すぐに雪に埋もれていく。


 まるで存在の証拠を、世界が消しているみたいに。


 街の音は遠く、車の走る音も誰かの笑い声も、まるで別の世界の出来事のように思えた。愛弓の話もまた、何か遠くの方で聞こえているようだった。


「じゃあね!ユキ!また明日!」

 愛弓が手を振って別れた。白い息は、一瞬だけ漂っては消えた。


「うん。じゃあね。」



 ――あぁ、いいなぁ。



 ユキは玄関のドアノブに指を掛けた。冷たい。


「別の世界の扉。開かないで、お願い。」


願いも虚しく扉はあっけなく開いた。暗くて……黒い。


 リビングにはお皿と書き置き。“温めて食べてね、夜勤行ってきます。母より。”


「別にお腹空いてない。食べなくていっか。」


 自分の声が別人のように聞こえた。抑揚のない、熱のない、冷たい声に……。


 ユキはSNSを眺めた。帰宅したらいつも見ていた。見慣れた言葉が並ぶ。心の処方箋。


 消えて無くなりたい。


 今日もダメだった。明日こそ。


 必死で生きてる奴草。


 ……見知らぬ誰かの言葉達。

 なぜか、それだけが自分の言葉のように感じた。


 夜。机にノートを開いた。誰にも見せない落書き帳だ。


 ユキは書き殴った。


 “ 雪の音がする。”

 “ 愛弓のオレンジ色は白に変わる。”

 ” 私がいないことに、誰か気づくの?”


 涙は出なかった。

 ただ冷たい指先でペンを握り、空白を埋めていく。


 何も感じないまま、ページを閉じた。


 外の雪は強くなっていた。

 窓を開けると、白い風が頬を打つ。

 息を吸う。冷たさで胸が痛い。


「このまま、世界が凍ればいい。」

誰に聞かせるでもない呟き。


 窓ガラスに指で書く。


 “生きるか死ぬか”。


 ユキはベッドに寝転び天井を見た。

 蛍光灯が1本、チカチカ点滅していた。




 ――翌朝、目が覚めた。




 リビングには父の将嗣と母親の冬花、弟の冬弥の姿。


「ゴホンッ!」

将嗣はわざとらしい咳払いをした。

「ユキ。」


「……はい。」


「はぁ……。その目を見せるな。何度言えばわかる。」

 黒がずっと、渦を巻く。混沌。紫も混ざっている。


「……はい。」


「だからあ!!その目を辞めろと言ってるんだあ!!」

将嗣はテーブルを叩いた。並べられた食器がカチャカチャと震えた。


「お父さん!やめて!!……ユキちゃん!はやくあっちに。」

冬花はユキの手を引いた。


「お前がそんな子を産んだからこんな目に遭う!その緑色!!ユキ、お前は、


 ――疫病神だ!!」


 将嗣の言いようのない怒りがユキに向けられた。


 ユキと冬花は部屋に戻った。


「……。お母さん、ごめんね。」

ユキの目に冷たい涙が伝う。


「ユキちゃん……。……ん?これは?」

 冬花は机のノートに目がいった。手に取りパラパラとめくる。

 

「やめて、これは!!」


「……ユキちゃん……。」

 冬花の目にも涙が滲む。


 ユキを抱きしめた。


「ごめんね。……ごめんね。私のせいで。ユキちゃんは悪くない。悪くないんだよ。」


 母は看護師で、昼夜問わず一生懸命働く人だ。夜勤もたくさんしていて最近は特に酷い。かなり痩せたようにも見えた。だからこそ、ユキは冬花に心配させたくなかった。


「お母さんこそ……。何も悪くないよ?」


 ……そう言うしかないから。

 

 涙はオレンジ色に見える。

 だけど自分を抱きしめる母親の涙はずっと、ずっと“白い”。


「また、朝ごはん食べられなかった。」

 ユキは学校へ向かった。


 その日もまた、空虚の中で笑うタイミングを探した。愛弓はいつも私を探しては愛想話を繰り返した。そうやって世界は廻る。


 

 ……いなくなれば、どうなるんだろう。


 

 休み時間にペンを弄りながらユキはスマホで検索した。


 “命をたてば、どうなる?”……何も答えは無かった。電話とか、宗教とか、相談窓口だとか。


 ぐー、とお腹が鳴る音に恥ずかしさはない。生きているという事実と、実感だけが虚しく残った。



 ――あぁ、いいなあ。



 ふと頭を挙げると教室のあちこちで、暖かい赤やオレンジ色であふれていた。


 


 ――――――その日は特に酷い天候で早めに授業が終わり帰宅した。



 

 雪は、止まなかった。

 

 街の屋根を白く塗りつぶし、歩道の足跡を丁寧に消していく。雪は音もなく積もり、音もなく消えていく。いつもより少しだけ、街の喧騒が小さくなった。


 いつものように、ユキは“冷たく空虚な部屋”に帰った。


 窓辺に立ち、白い結晶を見つめていた。


 窓に映る左目の緑は、ふだんより少しだけ濃く光っている。



 ――それは、いつもと同じ「私の視る目」。


 

 だが今日の世界は色を返してはくれない。

 彼女が人を見れば、色は返ってくる。けれど、自分を見つめ返す誰の瞳にも色がない。白か、黒。冷たく、重い。


 父さんの目は、黒い渦だ。

 母さんの目は、氷の白。

 弟の眼差しには、まだ温かみが残っている。だが、それもいつか父の影に塗り潰されるだろう。


 机の上に置いたノートの折り目や、カレンダーの赤い丸がいつもより鮮やかに見えた。

 

 父の会社が失った五億という数字は、ユキにとってはただの記号だった。だが父の顔から滲む黒の渦は、家の空気を淀ませ、母の笑顔を硬直させた。


 リビングで弟の冬弥と夕食をとっていると、父、将嗣が帰ってきた。ドアの音がいつもより硬く、重い。仕事帰りのコートの匂いは酒と紙の混ざったもの。将嗣の視線がユキに触れた瞬間、彼女の心臓がひどく小さくなった。視界の端で、父の色が蠢く。渦が渦を巻き、黒が深まる。


「お前は疫病神だ。」


 その言葉は空気のように重く、当たり前のようにリビングにこだまする。将嗣の口は震えていなかった。怒りではない。


 ユキは、言葉の先にある色を見た。父の視線の奥にあるのは“破滅”に誘うような黒。世界を飲み込む渦。自分の左目はそれを観た。見える。全部が見える。


 ……だが見えたところで、彼女を救う事はない。


 母の顔は疲れているが、目元にはかすかな光が残っているようにも見える。


 ……しかしユキにとって、母の目は冷たかった。


白。言葉にならない白。母の感情は言いようがない。ユキにどれほど暖かい言葉を投げかけようとも、その感情は空虚。


 目を逸らす事はない。わかってる。母親だから。しかしどこまでも母は母の感情としか向き合わず、ユキを優しく包み込む事で罪滅ぼしになると、その距離を測っていた。


 愛弓もだ。いつもユキに声をかけた。愛弓の瞳の表面は優しく、色を褒めることもあった。「緑、かっこいいよ」と。だがその裏側で、ユキの肌に伝わる色は“恐怖”。愛弓の心に渦巻くものは、他のクラスメイトとの関係の計算から産まれる恐怖心。友人の優しさは、いつも薄い膜越しに届いた。


 クラスへ行けば、緑の瞳は噂の種だ。……知っている。


中学に上がってからは、より視線は集まりやすくなった。高校は尚更。チクチクとした囁き。笑い。距離に差し込む「色」のない視線。それは当たり前に彼女を疎外した。


 ある夜、父に怒鳴られた。投資の失敗のすべてを、家族の不幸を、彼は誰かに投げつけるようにユキへ向けた。


「この家がお前のせいで……お前がいるだけで不幸が来る。その目で見るな!その目で、全てを見透かしたその目で!!」


 その叫びは、拳へと変わった。父の手が、ユキの頬を叩く。振動は顔の骨まで届き、世界の輪郭がゆがむ。頬の痛みは、色が変わる痛みでもあった。黒がはじけ、虚の白が押し寄せる。


 一度冬花が庇う事があった。


「ユキはやめて!!」と。代わりに母が殴られた。

 その時の母の涙だけは忘れないだろう。ありがたかった。まだ自分は誰かに愛されていると思えた。


 次第に冬花は立ちすくみ、何も言わなくなった。


彼女の目は冷たく、どこか遠くを見ているようだった。昔は誰よりも味方に見えた母の視線は、今や冷静さを帯び、冷たい青と白が混在していた。


ユキは、母の心の白を見た。冬花の中にもまた、「距離」と「守りきれない恐れ」が住んでいることを、ユキの眼は見抜いていた。


 弟の冬弥だけは違った。まだ十二歳のその目には、緑や黒の前に赤いような怯えが佇む。


彼は父の寵愛を受け、甘やかされる。将嗣の視線はいつも冬弥へ向かっていた。ユキはそれを知っていた。心の距離は目の色を作る。いずれ変わりゆく。


 家の中で彼女は徐々に、色を失っていった。


 ……私以外の人は皆、色を持っている。

 でも私に向ける瞳は白か黒。


 


 ――それに、耐えられる者がいるだろうか。


 


 夜、布団に丸くなっても、色は消えない。父の黒、母の白、友人の恐怖。


 息が苦しい。窓の外を眺める。屋根の雪が満月の光を反射して銀色に震えている。屋上に出ようか。高い所に立てば、風がすべて吹き飛ばしてくれるだろうか。


 書きかけのノートを見つめる。ページの片隅に、小さく書いた言葉があった。


「生きたかった。」

 



 

 ――――ユキは大声で泣いた。


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