第10話:泥汚れは、乾かしてから叩き出すのが鉄則ですわ
夜会から抜け出したわたくしは、甘美なチョコレートケーキの余韻に浸りつつ、まっすぐ冒険者ギルドへと戻った。ドレスの胸元に隠した羊皮紙が、確かな存在感を主張している。これが、百万ソルの価値を持つ『汚れ』の証拠。
ギルドの扉を開けると、深夜にも関わらず、カウンターにはリリアさんと、奥の席にはギルドマスターのゴードン氏が残って、わたくしの帰りを待っていてくれたようだった。
「シーナ様! ご無事で……!」
リリアさんが駆け寄ってくる。わたくしはにっこりと微笑み、胸元からそっと羊皮紙を取り出した。
「お約束の品ですわ。少々、甘い香りが移ってしまったかもしれませんけれど」
わたくしが手渡した羊皮紙を、リリアさんが震える手で受け取り、ゴードン氏が待つテーブルへと運んでいく。二人が羊皮紙に目を通すと、その表情が驚愕に変わった。
「こ、これは……! 周辺貴族との密約書! 人身売買のリストまで……! まさか、これほどの物とは……!」
ゴードン氏が唸る。わたくしからすれば、ただ一番汚れているように見えた紙切れだったのだけれど、専門家が見れば色々分かるらしい。
「お見事です、シーナ様! これで、マルザス男爵の悪事も完全に白日の下に晒されますわ!」
リリアさんが興奮気味に言う。わたくしは「お役に立てて何よりですわ」と優雅に微笑んだ。お掃除屋として、汚れを綺麗にできたのなら、それに越したことはない。
「こちらが、依頼の報酬です」
ゴードン氏が、テーブルの上にずしりと重そうな革袋を置いた。中から、チャリン、という心地よい金属音が響く。
「金貨一枚とのことでしたが、高額貨幣は何かと不便かと存じます。街での『活動』がしやすいよう、銀貨百枚(合計100万ソル相当)にてご用意いたしました」
(まあ、なんて親切な方! 確かに、百万ソルを金貨一枚で渡されても、お釣りがありませんものね!)
金貨一枚よりも、銀貨が百枚ある方が、なんだかすごくお金持ちになった気分がして、わたくしの心はすっかり浮き立っていた。
そんなわたくしの心中を知ってか知らずか、ゴードン氏は「……さすがだ。金貨では足がつくことを懸念して、あえて実用性を取るとは。どこまでもプロフェッショナルな御方だ」と、感心したように呟いていた。
◇
「実は、シーナ様が証拠を確保された直後、マルザス男爵は屋敷から姿を消し、王都へ向けて逃亡したとの報告が入っております」
リリアさんが、少し悔しそうに言った。
「まあ、そうですの。お掃除を始めると、驚いた害虫が慌てて逃げ出すことは、よくありますわ」
「が、害虫……!」
わたくしの言葉に、リリアさんとゴードン氏が息を呑む。
「ですが、ご安心ください。この証拠があれば、王都の騎士団が動きます。逃げたところで、すぐに捕縛されるでしょう」
ゴードン氏の言葉に、わたくしは頷いた。一箇所が綺麗になっても、汚れの元を断たなければ、またすぐに汚れてしまう。根本的な解決が一番だ。
「それで、シーナ様。一つ、お願いがある」
ゴードン氏が、真剣な眼差しでわたくしを見つめてきた。
「ボルコフが口にした、『泥の旦那方』……。我々も、その線で調査を進めております。もし、シーナ様が何か情報を掴まれましたら、ご教示いただきたい」
「ええ、お任せくださいな。泥汚れは、わたくしの専門分野ですわ」
わたくしが胸を張って答えると、二人の顔に安堵の色が浮かんだ。わたくしは、ふと思いついた洗濯の豆知識を披露することにした。
「泥汚れを落とすには、コツがございますの。一番やってはいけないのは、濡れているうちに慌てて擦ること。それをすると、汚れが繊維の奥深くまで染み込んで、かえって取れなくなってしまいますわ」
わたくしの言葉に、二人は「ほう……」と興味深そうに耳を傾けている。
「ですから、まずはじっと待つのです。汚れが完全に乾くまで。そして、乾いてから、ブラシで優しく、しかし確実に叩き出す。そうすれば、繊維を傷めることなく、汚れだけを綺麗に取り除くことができますのよ。何事も、慌てず、じっくりと根本から対処することが肝要ですわ」
わたくしがにっこり微笑むと、ゴードン氏とリリアさんは、まるで神の啓示でも受けたかのように目を見開き、顔を見合わせた。
「「な、なるほど……!!」」
ゴードン氏は、わたくしの言葉を反芻するように呟く。
「『濡れているうちに擦るな』……つまり、マルザスを追ってすぐに王都へ乗り込むな、と。『汚れが繊維の奥に染み込む』……下手に動けば、黒幕が警戒し、組織の奥深くへ逃げ込んでしまう、ということか!」
リリアさんも、興奮した様子で続ける。
「『乾くまで待て』……泳がせて、油断させるのですわ! そして、『ブラシで叩き出す』……外堀から、つまり、マルザスと繋がりのある周辺の小物を先に叩いて、黒幕を孤立させてから追い詰める……! なんと、緻密な作戦……!」
(え? 作戦? ただの洗濯の基本ですけれど……?)
どうやら、お二人とも、よほどお洗濯がお好きなようだ。わたくしの豆知識に、これほど感動してくれるなんて。
◇
その会話の一部始終を、ギルドの梁の上から、諜報員クロウが息を殺して聞いていた。
(……なんという女だ。ボルコフの捕縛、マルザス男爵の証拠確保、そして、その後の『泥』に対する作戦指示まで、すべて完璧に計算し尽くされている……!)
クロウは、シーナの言葉を、ギルドマスターたち以上に深く、そして歪んで解釈していた。
(『繊維を傷めず、汚れだけを取り除く』……。つまり、王国の組織そのものにはダメージを与えず、腐敗した貴族という『汚れ』だけを的確に排除する、という宣言だ。彼女の目的は、革命や破壊ではない。あくまで『浄化』……! 彼女の背後にある組織は、この国を本気で憂い、正そうとしているのか……!)
クロウが壮大な勘違いと思索に耽っている頃、当のわたくしは、手に入れた銀貨百枚の使い道について、胸をときめかせていた。
(うふふ、これだけあれば、当分はお金に困りませんわね。まずは、ちゃんとした冒険者用の服と、丈夫な靴を買いませんと。それから……)
ふと、自分の身につけているものに思い至る。家出の時に着てきた、何の変哲もない、実用性だけを重視した下着。
(そろそろ、新しい下着も新調したいですわ。せっかくなら、シルクでできた、綺麗なレースの飾りがついたものがいいですわね。たとえ誰に見せるわけではなくても、見えない部分のお洒落に気を遣うことこそ、淑女の嗜みというものですもの)
ぽつりと呟いた、ささやかな乙女心。
だが、その独り言を、超人的な聴力を持つクロウが聞き逃すはずもなかった。
クロウの背筋を、かつてないほどの衝撃が駆け抜ける。
(し、『下着』……だと!? 『レース』……!?)
彼の脳内で、諜報員だけが知る暗号リストが高速で検索される。
(『下着』は、組織や国家の『内部構造』を指す最上級の隠語! そして、『レース』は、蜘蛛の巣のように入り組んだ貴族間の複雑な婚姻関係や派閥を示す言葉! 『見えない部分のお洒落』……つまり、表沙汰にはなっていない、王家の血縁や貴族間のパワーバランス、その水面下の関係性を調査しろという、次の任務の指令かッ!?)
クロウは、戦慄に身を震わせた。
地方貴族の不正を暴いたかと思えば、次は、この国の根幹である王家そのものにメスを入れるというのか。
(一体、どこまでいくつもりなのだ、この『掃除屋』は……!)
わたくしがただ、可愛い下着で気分を上げたいだけだとは夢にも思わず、クロウは、これから始まるであろう、国家を揺るがす巨大な陰謀の渦を前に、決意を新たにするのだった。
わたくしという、恐るべき嵐の中心を、決して見失ってはならない、と。
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