第4話:お宿の汚れは、旅の恥のかき捨てにできませんわ
冒険者ギルドの親切すぎる対応に上機嫌になったわたくしは、意気揚々と街へ繰り出した。まずは今夜の寝床を確保しなければならない。アンナに持たせてもらったお金にはまだ手を付けたくないけれど、ギルドで得た5000ソルがあれば、一泊くらいは余裕でしょう。
(るんるん♪ どんなお宿に泊まろうかしら。できれば、綺麗で清潔なところがいいですわね!)
そんなふうに考えていたわたくしは、すぐにこの世界の厳しさを思い知らされることになった。
街の宿屋の看板を見て、わたくしは目を剥いた。
『白鹿亭:一泊二食付き 7000ソル』
『旅人のオアシス:素泊まり 5000ソル』
『石壁の宿:相部屋のみ 一泊 3000ソル』
(な……っ!? た、高いですわ! わたくしが命がけで稼いだ5000ソルでは、まともな宿に一泊もできないじゃないの!?)
ギルドであれほど優遇されたというのに、この仕打ち。まるで、天国から地獄に突き落とされた気分だ。甘やかされたかと思えば、すぐに突き放される。これが世に言うアメとムチというやつかしら。だとしたら、あまりに手際が良すぎますわ。
(相部屋は絶対に嫌……。見知らぬ男性の汗臭い寝息や、もしかしたらいびきや歯ぎしりのハーモニーを聞きながら眠るなんて、悪夢ですわ!)
わたくしは必死になって、予算内で泊まれる宿を探して街の裏路地を彷徨った。そして、ようやく見つけたのが、路地の奥にひっそりと佇む『木陰の宿』という、名前だけは爽やかな宿だった。
看板には『一泊 1500ソル』と、心惹かれる数字が書かれている。
(まあ、お安い! これなら、残ったお金でちゃんとした夕食もいただけますわね)
喜び勇んで扉を開けたわたくしは、その期待が見事に裏切られたことを知る。
中は薄暗く、埃っぽい。長年掃除されていないであろう床は黒ずみ、テーブルには何の液体か分からないシミがこびりついている。空気に淀んだカビの匂いが混じり合っていて、お世辞にも衛生的とは言えない環境だった。
「……泊まりかい」
カウンターの奥から現れたのは、腕に蛇の刺青を入れた、いかにもカタギではなさそうな強面の男。宿の主人らしい。
「え、ええ。一泊、お願いできますでしょうか」
「1500ソル、前払いだ」
わたくしが恐る恐るお金を渡すと、主人は無言で鍵を放り投げてきた。案内された二階の部屋は、案の定、ひどい有様だった。ベッドのシーツは薄汚れ、窓には蜘蛛の巣が張り、床の隅には綿埃が溜まっている。
(これは……ひどいですわ)
普通なら絶望するところだろう。けれど、わたくしは違った。その目に、闘志の炎が宿る。
(これは……お掃除のしがいがありすぎますわ! この汚れきった空間を、わたくしの手で浄化して差し上げますわ!)
わたくしは荷物を置くと、早速『お掃除』スキルを発動した。まずは窓を開けて換気。窓ガラスは専用のクロスもないので、スキルの力で直接磨き上げる。蜘蛛の巣を払い、床の埃をスキルの力で一箇所に集めて処理する。ベッドの軋みは、蝶番部分の摩擦を『お掃除』して、滑らかに。
一時間後、部屋は見違えるようにピカピカになっていた。
「ふぅ……。完璧ですわ」
満足感に浸っていると、ふと、床の一点に黒いシミが残っているのに気がついた。
(あら、まだ汚れが残っておりましたわね)
わたくしはシミに近づき、屈んで観察する。
「まあ、こんなところに古いシミが……。ワインか何かでしょうか? でも、鉄のような匂いもしますわね。こういう頑固な汚れは、原因を特定して根本から対処しないと、また浮き出てきてしまいますのよ」
掃除の豆知識を呟きながら、どうやって落とそうか考えていた、その時。
背後で、息を呑む音がした。
◇
「おい、あの女、部屋で何をごそごそやってやがる……」
宿の主人、ガドは、妙に静かな客が気になり、こっそりと部屋の様子を窺っていた。扉の隙間から見えたのは、信じられない光景だった。あれほど汚かった部屋が、まるで新築のように輝いている。
(な、なんだありゃあ!? 魔法か!?)
ガドが呆然としていると、部屋の中から少女の呟きが聞こえてきた。
「……鉄のような匂い……こういう頑固な汚れは、原因を特定して根本から対処しないと、また浮き出てきてしまいますのよ」
その言葉を聞いた瞬間、ガドの血の気が引いた。
あのシミは、ただのシミではない。五年前に、この宿でガドが『消した』裏切り者の血痕だ。誰にも見つからないよう、薬品で念入りに消したはずだった。
(な、なぜ知っている!? 『鉄の匂い』……血のことか! 『根本から対処』……だと!? まさか、俺の秘密を暴きにきたのか!? 『浮き出てくる』ってのは、俺を脅してんのか!?)
ガドが恐怖で硬直していると、ちょうどその時、階段を上がってくる男がいた。マーチャント商会の下っ端で、ガドに上納金を催促しに来たチンピラだった。
「おいガド、今月の分は……」
「し、静かにしろ!」
ガドが慌ててチンピラの口を塞ぐ。チンピラも、部屋から聞こえてきた少女の言葉の続きを耳にした。
「まったく……。こういう、水と油が混ざったようなベトベトした汚れは、普通に洗っても落ちませんのよ」
それは、シーナが窓枠の油汚れについて言っただけだった。だが、その言葉は、チンピラにとって全く違う意味を持っていた。
(『水と油』!? それは、表社会と裏社会の癒着のことを指す隠語じゃねえか! なぜこの女が知ってやがる!?)
二人の男は、互いに違う理由で顔面蒼白になっていた。この可憐な少女が、自分たちのすべてを知る、恐ろしい組織からの『掃除屋』なのだと、完全に思い込んでしまったのだ。
◇
「……あら?」
気配に気づいて振り返ると、そこには顔を真っ青にした宿の主人と、見知らぬチンピラ風の男が、わたくしを恐ろしいものでも見るかのように見つめていた。
(ま、まずいですわ! 勝手にお部屋を改造したのがバレてしまいましたわね!)
わたくしが慌てて立ち上がると、チンピラは「ひぃっ!」と短い悲鳴を上げて階段を転がるように逃げていった。そして、宿の主人はその場に崩れ落ちるように膝をつき、わたくしに向かって土下座をした。
「お、お嬢様! どうか、どうかご勘弁を! 俺は、ただ言われた通りに……! これからは何でも言うことを聞きますんで、どうか命だけは!」
「は、はあ……?」
(何ですの、この状況は!? お掃除しただけで、命乞いされるなんて……)
どうやら、わたくしのお掃除技術があまりに神がかっていたため、この主人を感動のあまり打ち震えさせてしまったらしい。
(まあ、なんてお掃除の価値を分かってくださる方! これほど喜んでいただけるなんて、掃除屋冥利に尽きますわ!)
すっかり勘違いしたわたくしは、優雅に微笑んだ。
「顔をお上げなさい。わたくしは、ただ、汚れているのが許せないだけですの。この宿も、隅々まで綺麗にすれば、きっと素晴らしい『木陰の宿』になりますわよ」
その言葉は、ガドには「この街の『汚れ』は、俺がすべて綺麗に掃除してやる」という、冷徹な宣言にしか聞こえなかった。
この日を境に、『木陰の宿』の主人は、謎の少女シーナの忠実な下僕となり、街の裏社会では「マーチャント商会に、凄腕の『掃除屋』が宣戦布告した」という噂が、瞬く間に駆け巡ることになるのだった。
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