Irregulars Object
サード
第1話 反転した夜
いったい何が起きているのか――彼には理解できなかった。
月明かりに浮かび上がる夜の校舎。
それだけなら、彼にとっても見慣れた光景のはずだった。
だが、教室のプレートも、掲示板のポスターも、まるで鏡の中に迷い込んだかのように左右が反転している。
先ほどまで隣にいたはずの研究会の仲間たちも、影すら残さず消え失せていた。
スマホを起動すると、画面には『圏外』の文字が無機質に点滅する。
誰とも、どこにも繋がらない。
シャン……シャン……。
廊下の奥から、微かに鈴の音が近づいてくる。
こんな現象が、現実に起こるはずがない。
少年は、このおかしな現実から逃げるように、ある言葉を思い出す。
――人生とは、選択の連続だ。
少年は、それが誰の言葉だったかは思い出せない。
しかし、その言葉は、多くの人が口にし、また耳にしてきた言葉だろう。
それほどまでに、この社会には選択と後悔が溢れている。
そして、それはこの少年――黒月咲空(こくげつ さくら)も例外ではなかった。
どこかで選択を誤ってしまった。
だからこそ、自分はこの状況に陥っている。
理由のわからない状況で、咲空はそんな思考を巡らせる。
――自分は、どこで間違えたのか。
夜の学校へ足を踏み入れたときか?
黒江の言葉に乗せられたせいか?
七不思議なんかに関わったのが、そもそもの間違いだったのか?
過去の選択肢を羅列するも、それは直接的な原因ではない。
「……貴方も、同じなのね?」
ふと脳裏に、木々の影に立つ少女の姿が鮮明に浮かぶ。
そうだ。今日じゃない――もっと前だ。
思い返されるのは、昨日の朝。その日は、姉の声で始まった。
「咲空、遅刻するよ!」
――ピピピ。甲高いアラーム音が鳴り響く中、姉である黒月柳(こくげつ やなぎ)の大声が廊下から更に響き渡る。
障子越しに、柔らかな朝の光が差し込んでいた。
ぼんやりとまぶたを開け、夢の余韻を纏ったまま、咲空はゆっくりと目をこする。
寝ぼけまなこで目覚まし時計に視線をやると、針は無情にも十時を指していた。
「……マジかよ」
遅刻寸前どころか、すでに完全にアウトだった。
咲空は慌てて眼鏡をかけ、ベッド脇に放り出していた制服を掴む。
鞄を肩に引き寄せ、手当たり次第にプリントを突っ込んだ。
「ったく、朝からこれかよ……」
視界に飛び込んできたプリントの文字を見た瞬間、胸の奥から重たい溜息が漏れる。
――『夏休みのオカルト研究会 活動日程』
その研究会は、姉である柳が高校時代に立ち上げたもの。
そして今は、なぜか弟である咲空が、半ば強引に所属させられている。
彼にとって、オカルトは嫌悪に近い存在だった。
「―――『週間オカルト』の者ですが、事件についてお話を伺えればと……」
十年前、小学生だった頃。
黒いスーツの記者たちが家の前に列をなし、ノート片手に取材を続けていた。
好奇心と薄気味悪さが混じった、あの視線――。
非現実を追いかける人間の熱は、咲空にとって“重荷”でしかなかった。
「今日もまたオカルト研究会かよ……」
玄関に向かい、自転車の鍵を取る。
ドアを開けた瞬間、妹の部屋から、不気味な呪文のような声が漏れてきた。
昨夜もそうだった。
妹の八手は、謎の薬草を煮出し、奇妙な香りを部屋中に充満させている。
正直、研究会に行くのは、魔術の研究に没頭しているあいつの方がよほど向いている。
咲空は苦笑し、ぼそりとつぶやいた。
「魔術なんてバカバカしいけどな……」
ため息を吐く音がやけに大きく聞こえた。
その反響が消える前に、気だるさを振り払うようにして、自転車を学校へ走らせた。
通学路の途中、ふいにハンドルを握る手が強張った。
前方――木々の影に、ひとりの少女が立っていた。
薄暗い木漏れ日の下、古びた制服の襟元がかすかに揺れる。
思わず、ペダルを緩めた。
(……誰だ?)
目が合う。
少女は儚げな瞳で、じっと咲空を見つめていた。
蝉の声が遠のき、時間そのものが止まったかのように思えた。
「……貴方も、同じなのね?」
風に溶けそうな声。だが咲空にははっきりと聞こえた。
慌ててブレーキを握り、後ろを振り返る。
だが、そこには誰もいなかった。
「……気のせいか。熱中症の前兆か……」
蒸し暑い七月の空気が肌を焼く。
――この夏休みが、ただ退屈なものになると、このときの咲空は信じて疑わなかった。
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