第2話 記憶喪失

 目を覚ますと、何もない空間に私はいた。

 光もなければ音も聞こえず、熱い、寒いといった温度も感じられない。

 自分の呼吸音がやけに目立つ。

 何とか状況を把握するために起き上がった。

 ……果たして、今の私はしっかりと起き上がれているのだろうか。

「無」の空間が私の平衡感覚を奪う。

 必死に辺りを見渡すが、そこには私ひとりだけ。


「……ここはどこ?」


「お、目を覚ましたかい?」


 どこからか声が聞こえた。

 まるで年代も違う複数の人間が同時に喋ったような、不協和音。

 可愛いようなかっこいいような怖いような恐ろしいような美しいような……。

 様々な人間の感情を無理やり曝け出そうとしてくる声色は、聞いていて頭がおかしくなりそうだ。

 不快な声を探すが、視界は深い闇に覆われていた。

 人の気配もまるで感じられない。


「……だれ。」

「あーあーあーマイクテストマイクテスト。」


 無視された。

 いや、こちらの声は聞こえていないのかもしれない。


「いや、聞こえているよ。」

「?!」

「誰って聞かれたら、特に誰でもないんだけど。――しいて言うならしがない神様ですよ。」


 ……この声の正体は、「しいて言うなら」で「神様」を挙げてくるらしい。


「そんな目をぱちくりさせて!驚くのもいいけどね、まずは喜んで欲しい!」

 

不快な声を高らかに、神様は告げる。 


「――乙女ゲームの世界へようこそ!さぁ、君の望み通りめいいっぱい遊ぶんだ!」 


 ……何を言っているんだ、神様は。


「まずは、約束通り君の願いを叶えたよ!」

「約束……?」

「そうそう、約束。君が「会いたい」と願ったんでしょ。それを叶えてあげたんだから、一個くらい朕のお願いを聞いてくれてもいいよね。」


 身に覚えのない約束を叶えてくれたらしく、訳の分からないまま神様のお願いを聞く羽目になった。


「朕ね、人間の恋愛大好き!だから、暇つぶしとして君たちの恋愛模様を観察したい!」

「なんで恋愛感情なの。」

「だって、人間の恋心って、いいよね!朕の能力でも思い通りにならないから、見ていて飽きない。」

「……まぁ、彼らが人間かって問われたら微妙なラインだけどね!ははっ!」


 饒舌に人間を語る神様には、困惑している私の姿なんてどうでもいいらしい。

 あまりにも現実味がなく、理解が追い付かない。

 ここはどこなのか。

 なぜ、乙女ゲームなのか。

 神様は何者なのか。

 質問は山のようにあるのに、発された言葉を聞き取るだけで精一杯だ。


「こほん。そこで!君は君の望み通りに恋愛を楽しむ。そして、朕はその様子を楽しむ。一石二鳥だね!」


 不快な声を弾ませ、どんどん話を進めていく神様。

 呆気にとられたまま虚空を見上げている私。

 誰も、この状況を助けてくれない。


 瞬間――木製で作られた高級感溢れる白い扉が音もなく現れた。

 身長よりもずっと高く重厚な扉を前に、緊張が走る。

 一体何をやったら扉なんて現れるのだろうか。


「朕の魔法で扉を作ってあげたよ。まぁ、方法なんてどうでもいいから、さっさと着替えてその扉に入って。そこからゲームスタートなんで。」


 神様の力に圧倒されてしまい、体が思うように動かない。

 なんとか自分を奮い立たせ、質問を絞り出した。


「……なんで私なの。」

「――だっても何も、君が望んだことじゃないか!」


「「はぁ?」みたいな顔して~~もう、忘れん坊さんだな!ぷんぷん!まぁ、首を傾げたくなる気持ちもわかるよ。」


 わざとらしく叱ってくる見えない相手を睨みつける。

 そんな私を、神様がふっと笑った。


「――だって、記憶奪われちまったもんね。仕方ないよ。」


「記憶を奪われたって、私の名前は立花 真宵で――」

「あらま、今気づいたのか。」


 哀れみを隠しきれない声色が、私の思考を止めた。

 ――おかしい。

 ――脳内が黒い靄に侵食されたかのように、記憶の一部が霞んでいる。

 自分の名前は辛うじて思い出せる。

 しかし、普段の生活や幼馴染の顔――そういうものは黒い霞に覆われて何も見えない。

 なぜ、乙女ゲームの世界に連れてこられたのか。

 現実世界での私はどんな人間だったのか。

 ――私は、「立花 真宵」という存在を自分では何も説明できなくなっていた。


「ふふふ!あっちもこっちも楽しみが増えたぞ!」 

「楽しみ」という理由だけで私の記憶が奪われていることを流さないでほしい。


「返してよ、私の記憶。」

「無理無理。朕にはどうしようもないよ。」

「なんで、あなたの力なら――」

「それに!からっぽの人間が、徐々に心を取り戻していき、仲間と絆を紡ぐ物語、オタクは好きでしょ。」


 行き場のない怒りは、嬉々とした神様に流されてしまった。

 首筋に嫌な汗が流れる。

 記憶を失った人間にとって、用意された物語はあまりにも迷惑だった。


「まぁまぁ、そんなに怖い顔をしないで。そ、れ、に!君は記憶を奪われても、大事な想いだけは無くさないって信じているぜ!」

 記憶が無い人間に何を期待しているんだ、神様は。


「ほらほら、改めて乙女ゲームで遊びな!自ずと思い出せるんじゃないかな?」

「ゲームをすればわかるの?」

「おっ、食いついた。さぁさぁ、レッツプレイ。」


 ……とても不服だが、どうしようもない。

 扉の傍に立てかけられていた制服を手に取り、言われるがまま着替えた。

 シワひとつない紺色のワンピースと上質な白色の襟。そして、赤リボンを締めれば制服全体が映え、まるで淑女のようだった。

 なぜだろう。制服が――どこか懐かしくも思えた。


「うんうん、君によく似合ってるね。」

「…………ありがとうございます。」

「そんなふくれっ面せず、素直に喜びなよ。」

 無理矢理着させられた反面、少し高揚した自分がいて、複雑な気分だ。


「じゃ、楽しむんだよ~!いってらっしゃい!」


 重厚な扉に手をかけ、ゆっくりと開ける。

 隙間から溢れた白い光が周囲を包み、眩しさから思わず目を閉じてしまう。

 この先、何が待っているのかわからない。私が何者なのかも思い出せないままゲームオーバーになるかもしれない。


「……本当に入ってもいいの?」

「記憶を取り戻したいんでしょ?ねっ?」

「それはそうだけど……。」

「なら、入るしかないよね。」


 どこか圧を感じる言い方が、癇に障る。しかし、今の私にはどうにもできない。

 だんだん光が収まってきたので、不安を払拭するように目を開けた。

 開けた以上、入るしかないよな……。

 ここにいても仕方がないし。

 ……よし!


「――どうにでもなれ!」

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