第33話 泥沼③

 ピアノのジャズが静かにながれる、喫茶店の店内。

 店の奥、窓辺の四人掛けのテーブル。


 正面に火宮。となりに水鳥。

 ふたりに逃げ場をふさがれたような位置に、俺は座っていた。


 こんな可愛い女子と一緒にいられて、いつもなら大はしゃぎするところだが、俺もそこまで馬鹿じゃない。

 クーラーの涼やかな風が背中にあたる。心地よさではなく、寒気がはしった。ぞわぞわと肌が粟立つ感覚。


 店員がふたりぶんのアイスティーを運んできた。このただならぬ空気を気にした様子もなく、伝票を置いてすぐ去っていく。プロの所作である。


「それで」


 グラスに手も付けず、水鳥が言う。


「水鳥、あれはだな――」


「ありがとう七尾くん。でも璃音に聞かせてもらうから」


 にっこり笑って言われると、俺も引き下がらざるを得ない。名前が出た火宮は、平気な顔をしている。

 そちらに顔をむけると、水鳥の表情がすっと戻った。


「さっきのは何? どうして璃音がいるの? 私が呼んだのは七尾くんなんだけど」


「すみません先輩、あたし、七尾先輩に告白しました」


 両手を合わせ、火宮は悪びれずに言った。舌でも出しているような気安さで。

 水鳥は一瞬絶句したあと、ゆっくり俺の方を見た。


「そ、それで、答えは……?」


「保留、ですって。水鳥先輩の気持ちを確かめないと、答えられないって言われちゃいました」


 俺の代わりに火宮が返事をしてくれる。

 回答としては正しいのだが、保留、と言うと俺がものすごくひどい人間に聞こえるな。いや実際ひどいのか。


「本当にすまない、ふたりとも。昨日水鳥がしたことの意味が、その、まだよくわかっていないんだ。だっていちど振られただろ、俺? だから、あれで付きあうってことでいいのか、別の意味があるのか、確信が持てなかったんだ」


 自分で言ってて情けなくなってくる。だが、事実だ。考えすぎてないかと思うけれど、勘違いから突き落とされるほど恐ろしいことはない。

 ともかく頭を下げて、平謝りした。


「……たしかに私、ちゃんと言葉にしてなかったよね。こっちこそ、困らせてごめん」


 頭を下げているので床しか見えないが、すこし水鳥の空気が柔らかくなったのを感じた。

 おそるおそる顔を上げると、微笑んだ彼女と目があった。


「七尾くんのこと、好きだよ。私と付きあってほしい」


 照れた様子でそう言った彼女は、いままで見たなかで、いちばん可愛かった。ここが喫茶店じゃなかったら、床をのたうち回っているところだ。

 なんとか胸を押さえてこらえる。言葉が出てこない。


 水鳥はこちらをまっすぐに見て、つづけた。


「ほんとうは、あのときも振ったつもりじゃなかった。ただ、私の心の準備ができてなかっただけ。ずっと七尾くんのこと、好きだった。そのために、絵も……」


「そ、そうだったのか?」


 お、おお。顔が熱くなるのを感じる。

 ていうか、何? 俺は振られてなかったって言った? 水鳥もそうだったのか? それが本当なら、だいぶ話が変わってくるんだけど。


 ごとん、という音に我に返る。

 見ると火宮がグラスをテーブルに戻したところだった。


 そうだった。水鳥の告白が衝撃で忘れていたが、火宮の目の前なんだった。


 何を考えているのか、火宮はいつもの笑みをうかべて、こちらを眺めている。水鳥もそれに気づいて、顔を彼女に向けた。


「それで、璃音。はぐらかされたけど、もういちど聞かせてくれる? さっき、七尾くんと何してたの?」


「キスのことですか? 好きな気持ちが抑えられなくってー、みたいな?」


「昨日、私が七尾くんとしたのを見て、なんでそんなこと」


 水鳥の鋭い視線を受けても、火宮はあっけらかんとしている。


「それこそ、水鳥先輩と同じですよー。あのとき先輩は、告白もしてないし、付きあってもない相手に、一方的にキスしたわけじゃないですか。同じことをしただけです。あ、あたしは告白したあとだから、若干ちがいますけどね」


「…………」


 数秒視線を交わしたあと、水鳥はストローに口をつけ、息を吐いた。


「わかった。たしかに、さっきまで七尾くんはだれの彼氏でもなかった。でも、いまの告白は見たでしょ。そういうことだから、ごめんね」


「いえ、大丈夫ですよー。何も謝ることはありません」


「なんで? 璃音は――」


「七尾先輩の答え、まだ聞いてないですよね?」


「え?」


 ふたりの視線が俺に向かう。

 油の切れた機械のようなぎこちなさで、俺は水鳥と火宮の顔を見比べた。


 テーブルに両肘をついた火宮が、にんまり笑っている。


「ねー、せんぱい? あたしと、水鳥先輩から告白されて、先輩はどうするんですか?」


 一方の水鳥は、となりから俺の服の袖を引っ張ってきた。


「どういうこと、七尾くん? 昨日言ったでしょ、付きあうなら私だって」


 はっきり言って、ものすごく困ったことになった。


 一目ぼれしたときは、その相手に一直線。それが俺の生き方だ。

 恋心のメーターがあるとして、一瞬にしてその値が振り切れてしまう。そのときどきで好きな相手に、常に上限値マックスの好意をいだいている。


 水鳥を好きになったときは、水鳥のことが世界でいちばん好きだった。火宮を好きになったときは、火宮のことが世界でいちばん好きだった。

 もちろん、振られたから好きじゃなくなったとか、嫌いになったなんてことはない。彼女たちと付きあえていたらなあ、と何度未練がましく思ったことか。


 ふたりを比較なんてできない。上限値と上限値を比べることは不可能だ。

 父親と母親のどっちを愛しているか、と訊かれるのに近い。いやそれは答えられる人多そうだけど、ともかく俺にとっては、答えを出せるようなものじゃない。究極の問いである。


 いや、言い訳はやめよう。答えを出さないわけにはいかない。

 水鳥も火宮も、正面から気持ちを伝えてくれたのだ。ここで返事をしないほど、不誠実なことはない。選ばなくてはいけない。


 そして気持ちで比べられないなら、本当にもうしわけない、最低な決め方だとは思うけれど、早い順で決めるしかないと思う。


 そう思うからこそ、俺は――。


「でもさきに好きになったから、水鳥先輩、っていうのはちがいますよね?」


「え……」


 思い切って答えを口にしようとした矢先、火宮が言った。

 両手に顎をのせて、こちらを見上げてくる甘い瞳。これまでにも目にしたことのある表情に、どこか意を決したような色が混じっていた。


「いま七尾くんが答えようとしてたでしょ。昨日も、私が最初だったからって……」


 水鳥が、一層強く俺の袖を握りしめた。

 それを聞き流して、火宮は俺に語りかけてくる。


「そうですよね、先輩? たしかに先輩は、あたしと知り合うよりまえに、水鳥先輩と知り合いました。その点、あたしは負けてます。でもそのあと、誤解だとしても、七尾先輩は両方から振られたわけです」


 そうですよね? と火宮は水鳥に視線を送る。水鳥はしぶしぶといった感じでうなずいた。


「振られた時点で、順番も何もなく、あたしたちみんなの関係は振りだしに戻った。そう考えるべきじゃないでしょうか。その後、最初に先輩に告白したのはあたしです。もしも気持ちで選べなくて、順番で選ぶというなら、当然、最初に勇気を出した、あたしを選ぶべきです。ねー、七尾先輩?」


 ねー、と言われても。


 火宮の理屈は、まあ、わかる。わかってしまう。わかるべきじゃないんだけど。彼女が言ったことも、ひとつの基準になるだろう。

 待て待て。冷静になれ。わかるからなんだ? 決めるのは俺だ。自分の基準で決めればいい。


 言葉に詰まっていると、水鳥がこちらの袖を引いて、首をふった。


「七尾くん……? 七尾くんが言ったんでしょ、私のこと好きだって……。毎日お昼を食べてくれて、雨が降ったときだって……」


「み、水鳥。落ち着いてくれ。たしかに水鳥が好きだよ。嘘じゃない。俺は――」


「あたしが好きなのも、嘘じゃないんですよねー?」


 火宮が小首をかしげて、楽しそうに言う。


「まあ、それはそう、だけど。そうだけど……」


 無言で、ぎゅう、とちぎれそうなほど引っ張られる袖。


 まずい。これじゃ収拾がつかない。

 いやちがう、収拾は簡単につく。俺がどちらかの名前を口にすればいいだけだ。時間をかけることじゃない。どちらかに恨まれるとしても、答えを出す義務がある。


 そのとき騒々しい音を立てて、ドアベルが鳴った。


 視界の端でそちらをとらえた。三人の客が新たに入ってきたようだ。寄ってきた店員に向かって、待ち合わせです、と言うのが聞こえた。

 そのまま三人は、迷いのない足取りで、店の奥へやってくる。つまり、こちらに近づいてくる。


 こちら側の席には、俺たち三人しかいない。

 というか、彼女たちは――。


「どうして、みんなまで、ここに……?」


 水鳥が茫然とつぶやき、俺の袖から手を離した。

 え、と声を漏らした火宮が振り向く。


「申し訳ございません。皆さまに連絡していたら、到着が遅れてしまいました」


「ボク抜きで話を進められては、困ってしまうね」


「わ、私はべつに、そんな気になってなんか、ないんだけど……」


 こちらを見下ろす三人の女子。月坂、白金先輩、木名瀬。

 昨日公園で出くわしたメンバーが、再び喫茶店に集合してしまった。


 そもそもなぜ、ここがわかったのか。

 場所を指定したのは水鳥だ。で、その場所を俺が火宮に伝えてしまったわけだが、それ以外で知っている人はいないはず。


 思わず火宮の顔を見たが、彼女は首を振った。


「ち、ちがいます。あたし、だれにも言ってません。そんな、わざわざライバル増やすようなこと……」


「申し訳ございませんが、七尾さまのあとを尾けさせました。こういった事態になるのでは、と危惧していたのです」


 月坂が両手をそろえて、頭を下げる。暑そうな和服に楚々とした仕草が似合っている。

 何を言っているのかと思ったが、すぐに思い至った。


 今朝、月坂の運転手が俺の家を訪ねてきた。近所の家を総当たりに調べて特定したのだ。

 今日は予定があると言って帰ってもらったけれど、その後も監視されていたのだろう。まったく気づかなかった。


 状況はわかったけれど、ずいぶん乱暴な話だと思う。危惧していた事態って、何を言いたいんだ?


 とにかく、俺は立ち上がった。


「ちょっと、三人とも待ってくれ。メッセージの返信が遅れているのは悪かった。必ずあとで連絡する。ただ、いまは重要な話の最中で……」


「舞冬くんと璃音くんだけを集めて、かい? ボクがその重要な話とやらに入ってはいけないのかな」


「いけないというか、プライベートな内容ですから」


「具体的には何よ? もし昨日の、その、あれのことを話しているんなら、私にも聞く権利があると思うわ!」


 いよいよ場が混沌としている。水鳥と火宮だけでもいっぱいいっぱいだったのに、三人も増えたら完全にお手上げだ。


 俺が頭を抱えて叫びそうになった瞬間、音もなく店員が近づいてきて、四人がけのテーブルに、二人がけのテーブルを合体させた。椅子も二脚、てきぱきと配置していく。


「ご注文が決まりましたらお呼びください」


 三人分の水を追加して、店員は業務的なスマイルを残していった。どんな状況だと思っているのかわからないが、プロの所作である。


「……とりあえず、みなさん座りません?」


 火宮がぽつりと言った。

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