04

「匂いとか、気にならないんですか?」

 るみかさんは顔をそむけて言った。他に訊きたい質問があるのは明らかだった。

「10分も一緒にいれば慣れるよ。るみかさんは弟さんとは会ってるの?」

 るみかさんがため息をつくのがわかった。

「もう10年ほど会っていないんです」

 ぼんやりした目でおれを見ながら、笑顔を作ろうとしていた。


 次はおれが顔をそむける番だった。るみかさんが早咲の話をしようとしているからだ。

 おれはまだ早咲に踏み込みたくなかった。檜の枝が風に凪いでいるような彼女の声を聞くと、余計にそう思ってしまった。

 おれは腕にした時計を盗み見た。神宮球場には7回表までには到着していたかった。


 るみかさんは脚を組み替えると、千葉県の館山で生まれた姉と弟の話をし始めた。

「うまく話せるかわかんないけど……」

 話が長くなることを察して、おれは向かいのソファに腰掛けることにした。


「今は駅もきれいになって、駅から海まで伸びるヤシの並木道も絶景ですけど、私が住んでいた頃は寂れていました。私が育ったのは駅周辺のスナック街。200軒近くスナックが建ち並んでいたんじゃないかな。どこもプロパンガスだったから、あの頃を思い出そうとすると、ボンベの灰色を思い出しちゃう。灰色の容器に囲まれた街で私は育ちました」


 るみかさんは缶飲料を開けた。缶にはプーアル茶と書かれている。最近は中国茶だけでなく、アジアンテイストのお茶も増えていて、おれは嬉しい。たまに椎茸のお吸い物みたいな代物に出くわすときもあるけどね。


「あの子とは10歳離れています。両親が忙しかったので、私が面倒を見ていました」

 やわらかい笑顔が広がった。るみかさんは灰色の時代を愛おしそうになつかしんでいた。

「高校卒業後、私は館山を出て、栄町で働くことにしました。85年のことです」


 栄町と聞いて、おれは理解した。千葉駅からモノレールでひと駅先にある「栄町」は、「吉原」「桜町」「堀之内」に並ぶ関東の一大ブランドだった。

 そして、もうひとつ気づいたことがあった。るみかさんは1985年に19歳だった。そして、弟とは10歳差だと言う……実はおれもるみかさんとは10歳差だった。

 つまり、おれと早咲は同学年なのだ。なのに、あいつはおれに敬語で話しかけてくる。慣れて受け入れてしまったが、いずれやめさせよう。


「最初はキャバレーで働いていました。ただ、当時はフィリピンパブがはやっていたし、私はお酒があまり飲めなかったので、二十歳になる頃にはソープで働いていました」

「お酒は二十歳からだけどな」

 一応、突っ込んでおく。るみかさんはその日はじめて前歯を見せて笑った。


「あの子が中学に上がってすぐ、私が栄町で働いていることが、地元にバレちゃったみたいです。私がついたお客さんに、館山の人がいたのかも……」

「中学生男子だと、からかうよな」

「どころか、あの子はいじめられました。私が働いていたお店の名前がジェントルマンだから、ジェントルマンって呼ばれていたそうです」

 いじめはきっかけとキャッチーなあだ名さえあれば、いともたやすく加速する。思わずため息が出てしまう。

「ここ、笑うところですから。いや、笑えないか……。ごめんね」

 るみかさんの声は煙草の煙のように細かった。

「それが原因であいつとは疎遠になったの?」

「そうですね。あの子はいじめが原因で家に引き籠もるようになりました」

「追い込まれたんだな。中学生は加減を知らないから」

「生徒だけならいいんです。教師のなかにも加担した人がいたのだとか……」


 70年代末から80年代にかけて、校内暴力の嵐にさらされた中学や高校は少なくなかった。おれ自身も暴走族上がりなのでえらそうに言えないが、学校は大なり小なり荒れていた。

 先生が生徒に刺された。

 先生が生徒に土下座した。

 先生が生徒数人に犯された。

 先生が虫を食べるよう生徒に強要された――そういう話は何度も耳にしたことがある。

 一部の人間は、どこまで残酷になれるかを競っていたのかもしれない。

 当然、教師たちも対応した。

 教育者として毅然とした態度で生徒に対峙したすばらしい先生もいた。

 暴力には暴力で対抗し、ハンムラビ法典を実践する教師もいた。

 暴力が自身に向かわぬよう、生徒たちの暴力に加担する教員もいた。とある中学では、生徒がいじめとして行っていた「葬式ごっこ」に先生が複数名協力し、寄せ書きを送ったということもあった。そういう時代だったのだ。


「学校に逃げ場がなくなったわけだ。でも、引き籠もれたということは、家族はあいつのことを理解したということなんだよな」

「両親はあの子に家に逃げてよいとはっきりと伝えたそうです」

「よい親でよかった。あの頃は、そういうケースで『やり返せ』『はっきり嫌だと言え』と無理を言う親が多かったみたいだから」

「やり返したというのとは違いますが、あの子は教室に放火したことがあります。大事には至らなかったので、学校も問題にはしなかったそうですが……」

「火事になれば学校に行かなくてよいと思ったのかな」

「いえ、引き籠もった後のことらしいんです。仕返しでしょうね」

 早咲は不満や怒りをため込んでしまうタイプなのかもしれない。言い返せず、やり返せず、長い間自分のことを責めた結果、感情が恨みへと振り切れてしまったのだろう。


「親は私にしばらく帰ってくるなと言いました。私は弟のことを責任に感じて、あの頃は悩みました。自分が悪いことをしたと悔やみました」

 るみかさんの左腕に並んでいた傷跡を思い出した。

「ひょっとしたら、るみかさんは当時あいつの学費を稼いでいたのか?」

 彼女は頷いた。おれは再び深くため息をついた。

「私はそれから2年後に、結婚を機にソープをあがりました」

「ところで、あいつは中学を出た後どうしたんだ?」

「弟は高校に行かず引き籠もっていましたが、19歳になった頃に家出したそうです。毎年実家には年賀状が届いているようですが……。あ、見つかった。16歳の頃の弟です」


 るみかさんはポーチから写真を1枚取り出した。縁付きの写真で、よれて波打っている。

 色あせた写真には、紺色をしたレノマのトレーナーに綿パンを履いた早咲が写っていた。

 髪はぼさぼさに伸びきっている。畳張りの部屋はすっきりと整理されていた。一方で、壁には高橋由美子たかはしゆみこのポスターやグラビアの切り抜きが所狭しと貼られていた。


「及川さんにお願いしたいことがあるんです」

 待機室にあるテレビでは、アナウンサーが女子大生の刺殺事件について喋っていた。レッサーパンダを模した帽子を被った男の似顔絵はここ数日で何度も目にした。

 おれはるみかさんに視線を戻した。彼女は脚を組むのをやめて、真剣な顔をしていた。

「おれは単なるAV屋っすよ。それでもよければ……」

「あの子と仲良くしてあげてください」

「今からもそのつもりだけど?」

 ただ、おれは早咲について知りすぎてしまった。早咲と飲む酒の味は変わるだろう。

 るみかさんは缶の縁に唇をそっとつけていた。どう話そうか悩んでいるようだった。

「あいつには、るみかさんのことを伝えてもいいのか?」

 るみかさんの唇が缶から離れた。首を少しだけ傾けて頷くまでに、5秒ほどかかった。

「もし知りたがったら、元気にしていると伝えてください」

「それ以上を知りたがったら?」

 るみかさんは黙り込むと、馬の尾のようにつややかで長い眉を指でさすった。

「どこまで教えるかは、及川さんに任せます」

 背負うものが重すぎる。今度はおれが黙り込む番だった。


 おれは指の先でまぶたをこすった。灰色のボンベに囲まれた街で手をつなぐ姉と弟のイメージが、おれの頭のなかに広がっていく。

「わかった。伝えられる範囲で伝える。ただ、おれができることは伝えることまでだ」

 るみかさんは頭を下げていた。おれはソファから腰をあげると、ドアに向かった。


 おれはものわかりがよいわけではない。神宮球場が気になっただけだ。

 話のうまい切り上げ方をおれはまだ習得できないでいる。毎回ついつい最後まで聞いてしまうのだ。

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