③息吹を秘めた琥珀色。
11月13日。長袖こそがお誂え向きな曇り空。何だか足取りは軽いし秋晴れなんて言葉を使いたかったけれど、一縷の陽光もない空模様を〝晴れ〟と嘯くのは無粋。わたしは晩秋の濃淡に富んだ曇り空を愛しているものだから、数百回瞬きするまでは
願わくば雲向かいのお天道様は、フレックス出勤をお嗜みくださいね。貴様のタイムカードはわたしの手に在る。この意味が分かるか、なんて。わたしは恒星から与奪権を拝借できるほどの存在じゃないね。矮小ないち人間の1人から抜け出せはしないもので。抜け出したくもないよ。己が生き様に気の抜けたハミングで奏でる賛歌の素晴らしさなんて、とうの昔から知ってるんだからさ。足掻く矮小をみな、誇るべきだ。
と、空模様に思いを馳せてみたり。昨日観た演劇が脳裏にべったり焼き付いて起こし金でも剥がせないものだから、仰いだ空にひとつ思い事を吐いてみたのだ。広いこの秋空に紛れさせるために。
そうしている間も試行錯誤して焼き付いたものを剥がそうとするけれど、これは剥がしてよいものか。通り過ぎざまに刺青を彫られたみたいなものだろうから剥がしていいかと思いつつ、でもまあわたしの合意の上と見做されるかな、とも思う。着いていったのはわたしの意思だし。
それに、わたしは最初から一切剥がそうともしていないんだもの。フリをしてるだけ。必死に剥がすフリをして、起こし金を鉄板に叩きつけて。その際に奏でられるモールス信号で昨日の感想を綴ってる。
面白かったなあ。面黒かったなあ。あの演劇こと『ドライヤー』の六十五分は、演劇の〝
側撃雷が役者の人たちを傷つけなかったことは誇ろう。わたしというたった一人を劈いて重体にしてくれて、どうも有難う雷様。昨日からおへそが見当たらないのですが、でも別に返してくれなくて結構ですからね、使わないし。なんてのは親不孝か。それよりも表層にまで浮かんだ刺青が、内々から肌を灼くように痛むのだ。
痛覚を与えられた果実が熟れて弾ける時のような無慈悲さ。惨憺たる傷痕。銃創なんて鼻で笑えるくらいに深い傷を負わされたわたしは、数本の映画をレンタルショップで借りて帰った。その数本を夜通し観て、その時間の中にあの痛みの再演がないことにもどかしさを覚えた。
あの刺激がもう一度欲しい。音響、演技、その元となる
アレは生半可でしたためられた脚本じゃない。プロであるのなら生半可が赦されないことなんて論を俟たないものであるが、それにしたって巧緻が過ぎた。永劫口に含んでいられる綿飴のような魅力。噛めば甘くて充足を知り、少し焦げたザラメの苦味が正しい調和を拐かすもの。一生涯の甘みはこの綿飴だけで十分、と言えるほどの出来だったと思った、まる。
……いや、さしずめ二重丸かな。三角四角なんて角を携えた感想が誤謬を犯していることくらいわたしでも分かるもんね。忌憚なく述べて五百点だ。
いやあ、霹靂って怖いね。昨日はしっかり晴れていたから、予報も何もないんだもの。側撃雷も届かないはずの屋内で枝が如き痣を出不精の肌に走らせたなんて、診察を担った医者が鼻で笑いつつ、深刻な相好にグラデーションで移行していくんだろうな。冷やかしで行ってみようかな? まあ間違いなくこの模様はわたしにだけしか見えないのだから、どこへ赴いても心療内科への紹介状を一筆したためられるだけだ。
診察代だって馬鹿にならないんだから、羽振りよく経済を回せない今のわたしには不適だし嵌らないね。本当に傷を負った人だけ医者に掛かってください。わたしは脳裏に焼き付いた飯森雪の脚本が剥がれず、そう遠くないうちに行き場のない狂おしさが暴れて内から弾けると思いますので、それほどに熟れるまでには、心療内科に掛かろうと思います。
それが堅実。賢しい人は須らく自己管理に長じているんだよ。まあ狂おしさを覚えるくらいに好いているんだから、その好きを抑え込んでわたしの世界に亀裂を入れるくらいならわたしは狂い続けるね。
おひねりは要りません。わたしは勝手に踊るので、見たい人だけ見ていってください。愛嬌も気配りもできませんが、どう踊り、自身がそれに感じるものを綴ることだけは得手と言える職業なのです。手に持った筆を、コピー紙の枠組みを超えてまで走らせないと死ぬ回遊魚なのです。うっかり茹だりすぎて死滅したら御免なさいね。遺体の扱いは最初の発見者に一任するとドナーカードにしたためておりますので、未だ見ぬわたしの行く末は、あなたがどうぞご勝手に。
ひとつ我儘を言うのなら、今際に渡ったわたしに、その死に様に関しての一報をくださる力をもつ方に火葬まで
ああ、あの湿っぽくて陰険を羽織ったみたいな主人公のキャラクターは息を呑むほど魅力的だったなあ。高嶺の花なんて贅沢じゃない。でも、空き地を埋めるブタクサみたいにありふれた雑草でもない。形容するなら、仏頂面で寡黙で、仄かに薄気味悪さを孕んだような近隣住民が毎朝欠かさず愛でている花のよう。
群を抜いて華やかでもないのに、どこか目を逸らせない蠱惑。彼女の演技に感嘆を零せるくらいの見識があればいいんだけど、生憎手にも握っていなければ、懐中を探してもありはしなかった。
それは重たくて湿っぽい主人公に慕情を向けるヒーローにも言えることで、やっぱり十八番の文筆業のレンズを通して観ることしかできなかった。まあ尠くとも、素人目にも全編通して面白かったと言って差し支えないはずだ。
青二才ながら少し気になったところも幾つか挙げたし、素人が宣うそれを耳にしていたからか、最初から虫の居所の悪かった飯森さんはずっとわたしを睨んでいた。当然の報いといえばそうなんだけど、でも一応は
評論家を気取るために虚飾を着た憶えはないけれど、やっぱり同業者に関しては土足で踏み入った部分もあったのかもしれない。といってもわたし自身のそれに覚える一文は〝気になるところを言って何が悪い?〟なんだけどね。犬木さんという生ける免罪符が傍にいたということもあるし、忌憚のない意見を求めているのなら本望では? なんて思う。
作家性に口を挟むと機嫌を損ねる、というプロセスに何ら猜疑心は抱えないけれど、ブラッシュアップが目的なら仕方なくない? わたしにだって付いてた担当編集という存在のレゾンデートルって、多分そこに収束するでしょ。より良いものを大衆にご提供するためには忌憚のないご意見番が不可欠だってこと。
というより、思い返せばそも『ドライヤー』の脚本自体に口は出してないよ、わたし。観劇中、リアルタイムで十秒先を予測して齟齬があったところに言及したんだけど、そこは専ら音声演出と役者の演技についてなんだよね。だから尚のこと飯森さんの逆鱗を撫でた記憶がない。
親指と人差し指を擦り合わせてみたけれど、逆鱗に付着していた埃のひとつも落ちることはなかった。だから触れてないはずだよ、多分。まあお風呂も入ってひと晩経った今だから、埃ひとつも落ちないことは当然と言えるかもしれないけれど。
まあ、今そんな逡巡で脳を熱しても甲斐ないか。朝も早くからゼンマイを巻きすぎるとどこかで音だってひずんじゃうしね。
稚い赤ん坊の安らかな寝顔を拐かすためにわたしというオルゴールは奏楽しているのだ。まあ夜中にだって平気で独り言とか言っちゃうタイプだけどねわたし。寝かしつけは不得手かも。赤ん坊の嘶きとデュエットでもしようかな。わたしが上手く和音を発せば、産後に気分を青くしてしまった遍くお母さんたちの負担を少しだけ減らせるような気がする。
ああ、それなら甲斐あるね。ただ咄嗟にそれをできる機会に、こんな早朝に出くわす可能性なんて切り捨てれば0になるくらい低いことだけは確かだった。
そんなことを薄らぼんやりと考えながら歩いていると、昨日見たものと同じ色の、少し違う紅葉が肌寒い木枯らしに舞っていた。1枚拾って言を吐き、その思い事を練り込んでおく。願わくば、彼方と呼べる遠くの果てまで飛んでゆけ。
わたしの声の染みた葉っぱが、遠く果てに悠々と暮らす牧師か誰かに拾ってもらえますように、なんて。ポエミーだね。まあわたしの作品群は、どれも独り善がりなポエムみたいなものだしね。
独り言の輪郭を映える正円に整えたものを上梓するのが常だから。起承転結も序破急も厳守できない自由人でやらせていただいておりますもので、投げっぱなしのポエムもその肥沃な土壌では煌めいて見えるものなのです。掘り出したサツマイモに潜る虫は嬉しそうに啼くでしょう? それです。ちょっと、いや全然違うか。
なんて考えてる間に、昨日と同じタイルを踏んだ。靴底で憶えていたタイルの厚みが心地いいもので。ここらかは少し大路を愚直に歩いて、しばらくしたら1本脇道のほうへと吸い込まれるように逸れる。すると直ぐに〈いぬき〉という看板を掲げた劇場が見えてくるのだ。
昨日の今日で訪れるのは辛抱足らずだけれど、今日からわたしはここの見習いである、という戯れ言は誰にだって唾棄する資格はないもので。
「お邪魔しまーす」
「あら。おはよう、
「おはようございます。あは、気が逸っちゃって」
昨日渡された合鍵で小さくふたつ音を立て、その沓摺に添えられた敷居を越えると、在りし日のシアタールームが鼻を突く。
受付のブースの先の椅子に座って文庫本を片手に頬杖をつく河原さんは、どうやら演技の際は大きく人が変わるひとらしい。昨日の激情を露わにした演技からは遠く距離を置いているような、物腰の柔和な従姉という印象に戻っていた。
ソーサーに乗ったカップの中には砕いた琥珀を熱湯に溶いたような飲み物が注がれていた。恐らく紅茶。朝から何も飲んでないからすごく美味しそうに見えるなあ。多分ティーパックの用意はあるだろうけど、猫舌なのが惜しいもので。冷凍庫があるなら必然的に製氷機だって搭載されているだろうし、満足に煮出したら拝借して冷まそうかな。なんて、もう完全に1杯を与れる気でいてる。これも横柄に入るのかな。でもわたしももう、ここの一員だしなあ。
「お紅茶、泉火ちゃんも飲むかしら?」
「あ、はい。いただきます。どうして分かったんですか?」
「ふふ。物欲しそうな目をしてる自覚がないのね」
確かにわたしは紅茶に目がない。コーヒーよりも傾倒してる。過去に在ったボストンの船着場での一件には、当時に生を受けておらず数多の紅茶を助けられなかったことに
見えないところで大勢が死んだとか何だとかの背景なんて、他人事だから些事って話。わたしはただ、海の藻屑になる紅茶たちの運命を捻じ曲げて〝く〟の字にして、わたし以外の喉を通らないようにしたいの。
欲深いだの横柄だの、そう言われたら返せないなあ。眼前にいる河原さんがそうでないことを願ってやまないというもので。
罪悪感から邪な目線を送ってしまった気がする河原さんは、今日はこの劇場の背景に溶け込むような色味ではなく、明るげな印象を受けるパステルカラーの洋服で着飾っているのであった。
「あれ、河原さんはそういえばどうしてこの玄関にいるんです? スタッフルーム……あ、楽屋か。楽屋のほうがゆっくりできると思うんですけど」
「
寛ぐことに資格なんているだろうか。資格なくして胡座をかけないのであればわたしはずっと罪深いね、家だと専ら胡座のわたしは。
三角座りは解く際に背骨が健やかとはいえない音を立てるから世話がないし、よしんば正座なんてしたら痺れた足から感覚が遠のいてちょっとだけナーバスな気持ちになるもの。
ナーバスに積極性を見せるほどにわたしはマゾヒスティックに身を窶している訳ではないし、打擲するのは絶賛〆切に追われている時の脳みそとワードプロセッサを熱し続けるこの両手だけでいいの。まあ、そんな打擲を経験したことはないから、憶測でくっちゃべってるんだけどね。〆切健康優良児ってこと。健やかに育ってます。体重も身長も、座高でさえも恙無く。
でも担当編集には紡いだよすがをぶつ切りにされてしまいました。うーん、〝分からない〟は資格を持たずに大っぴらな顔を広げる行為よりも幾分罪深いのかもしれない。どう贖えばいいかが分からないから、取り敢えずは脇のほうに安置してあるんだけどね。必要に迫られたら紐解いていきますよ、きっと。
「……うん? あれ、でも河原さん、昨日わたしが楽屋に行った時にいましたよね。あの時も資格を持ち合わせてたって感じなんですか?」
「うーんと……泉火ちゃん。できるだけ簡潔に伝えるわね。取り敢えずこの椅子に座ってちょうだい?」
そう言って河原さんは、事務室のほうから自分が座っているものよりもランクが上と思われる椅子をわたしに差し出してくれた。
押し返すのも無粋かな、って吸われるみたいにそこに座った。昨日腰を掛けていた、舞台の観客たちが日頃身を預ける椅子と同じものだった。何だか型番も同じそう。きっと、ロットで注文して余ったものだ。
廉価だとは到底思えない座り心地。わたしの家にある生業の儕輩とも言えるローチェアよりも幾分、高反発なのにどこか柔らかくて心地がいいもので。眠っちゃいそうだけれど、そうさせない飯森雪という作家の脚本力と演者の演技の数々に感嘆をふたつほど。
けれど、眼前には少し言い淀むような河原さんがいる。わたしは彼女に向き直るために、些細な感嘆をおくびを呑み込むようにして隠した。
慮った、って言っていいのかな。人の心という初歩も分からないわたしが? いやでもこれはいっぱしの社会人としての礼儀というか、今日からの仕事仲間との恙無い会話の一節というか、最低限のコミュニケーションのひとつだもの。
売り込みだって誠実さに欠ければ収入には繋がらないからね。でもわたしは、これから始まるであろう河原さんのほんのり重たそうなお話に、思慮を滲ませたハンカチーフを差し出せる自信はないなあ。
ねぇワトソンくん。答えはくれなくていいからさ、わたしと一緒に考えてほしいんだよ。人の心っていう、形のない形のことを。ほら、向かいの安楽椅子をきみに譲ってあげるからさ。お茶請けに
「少し重たい……というよりややこしい身の丈話になるけれど、一緒にお仕事をする以上いつか話すことにはなるだろうから、今ここで話すわ」
「は、はい。よろしくです」
「泉火ちゃんは、昨日
「そうですね。読み方間違えちゃって怒らせちゃいましたけども」
「なら、他のキャストの名前も見たはずよ。泉火ちゃんが観てくれた舞台には私の姿があったはずだけれど、フライヤーに私の名前はあったかしら?」
「えーと……あ、なかったです。脚本は
「惜しいわ。
まあわたしだって読み手に膾炙しない半分造語の言葉をルビなしで書き散らしたりするし、読み間違いはおあいこだ。自由奔放が味なのだから、形振り構わず書くのが礼儀であり矜恃ということ。
2つ前の担当編集の堪忍袋の緒はそれを5回くらい続けたことで真っ二つに切れて閉まらなくなったけれど、まあそんな些事は水に溶いて、表の庭木に遣りましょう。
対して、
舞台用のフェイスメイクをクレンジングしたことを鑑みると、今眼前にいる河原さんと目鼻立ちがそっくりで、多分この人が勅使河原奇世だ。
わたしたち小説家だって、筆名と本名を揃えなきゃいけないなんて決まり事は万に一つもないわけだし、歌舞伎役者は襲名制もあるって、高校の教科書で見た記憶があるよ。だから本名との不一致も頷ける。
自由に付けられる名前なんて創作の真ん中に位置しているようなものだし、だったら創作に傾倒する現代の役者なんてのはきっと芸名……源氏名? をつけることだって厭わないはず。
だから、ほぼ間違いなく河原綺依は勅使河原奇世で、だけれどその2人は別人のようで、その真意を知るべくわたしは前のめりになっていた。
「……勅使河原奇世は、私と──」
「河原さんって、どうして勅使河原奇世なんです? その名前をつけるに至った過程とか教えてほしいです。本名に頓着があんまりないって感じですか? それとも忌み名と思っていたり? でも、だったらわざわざ名前の読みは揃えないか。河原綺依も勅使河原奇世もどちらも月並みな名前ってわけでもないですし、さもすれば創作の一環として源氏名を? それなら昨日、わたしが楽屋に入った時の突っ慳貪な目配せも合点がいきますね。勅使河原奇世という源氏名を羽織る人間のロールをプレイをしていたということになるわけですから。役者もさしずめ創作者ということですかね?」
「ちょっ、ちょっと泉火ちゃん、顔が近いわ。矢継ぎ早に訊いてこないでも、全部きちんと話してあげるから……」
「あ、すみません」
両の掌で身体を押し返された。手押し相撲だったら名実共に反則行為だと言えるね。わたしは気になったことは訊かないと鳥肌が立つ性分だから如何せん押しが強くなりやすい傾向にあります。
でも鏡像のわたしが本物のわたしにそう詰め寄ってきても嬉々として
でも担当編集に言われたことが妙に尾っぽを引いている気がして、尾骶骨の辺りを静かにまさぐる。案の定名残りの出っ張りは見つけられたけれど、人の心を掴む術はそこから生えていなかった。
ペース維持して走ってこ〜。先行きの明るいランナーズハイまであと5分ってところかな。
「えぇと、簡潔に伝えるわね。……河原綺依と勅使河原奇世は、身体を共有する別人、みたいなものなの」
「……多重人格ってやつです?」
「そうよ。昔、少しだけ無理をしちゃって。その時に生まれたのが河原綺依と、勅使河原奇世とあと2人。4人も要らないからって2人まで減らしたけれど、1人にまでは減らなかったのよ」
六畳一間のワンルームに4人も住むと些か手狭ではないものか。だから2人に減らしたのか。いやでも〝六畳〟という固定観念は間違っているような気としておく。だって現実にある肉体は眼前にいる河原さん1人だけのはずだし、事実成人までした身体が体積を保ったまま増えるなんて常識の下では有り得ない。
ああでも、美味しいサイエンス・フィクションだなあ。そういう題材に
〝事実は小説より奇なり。その事実を如実にしたためる小説は、手触りが確かでいっそう奇なり〟なんて言葉もあった気がするし。
あったよね? なかったらわたしが責任をもって啓蒙していきます。コピー紙に印刷して街頭で頒布します。上梓する手間が惜しいんだ。人手なんて多いに越したことはないから、印刷を終えたらワトソンくんだけでなく、モリアーティ教授にも一報入れようかな。これもまた形而上だけれど。
頒布した部数を競った後に最寄りの滝壺に突っ込めば、凡そライヘンバッハの再演だ。配り終えたら事切れましょうね、来世でも競って殺し合いましょうね、なんて。
遺されたワトソンくんの心象も慮れないわたしの手中には、果たして共感性が欠けていた。スティックシュガーを痛いほど握ったきみの掌に滲む血も、来世では多分、満足に想えるはずだからね。だから来世で待っていておくれ。今世のわたしはちょっくら宿敵との心中と洒落込んでくるからさ。
いやあ、噎せ返るくらいのマイナスイオンだ。実に美味しい、甘美で些か恍惚を隠しきれないものだね。
「なるほど。心底面白い状態だと思います。いっぱしの小説家として、このエピソードを聞けたことをたいへん嬉しく思ってます」
「面白いと言ってもらえたらこっちとしても報われるわ。……って、小説家? 泉火ちゃんの前職……前職でいいのよね。って、小説家なの?」
「え、まあ、はい。
「藍色いずみ!? えぇと、この『哨戒』を書いた藍色いずみで間違いないかしら……?」
「あ、ほんとだ。そういえば『哨戒』の表紙ですねソレ。ご購入とご高覧ありがとうございます」
「端的に言うわ。私はあなたのファンよ。SNSの更新もほとんどないから、こうやって作品に思い耽ることでしか好意を伝えられないけれど……」
「そうですね。あんまりSNSはやってないタイプの作家なので、世間評はファンレターに一任してます。電子の海で遊泳する人が多い昨今では、ちょっとだけ難儀かもですね」
わたしの世界を覗いてみて、楽しそうだと思って入ってきてくれる人はファンレターを見る限りけっこういる。何だか大層な賞か何かにノミネートされたことは基本編集の言伝で知るし、SNSには悪戯心で踏み荒らす痴れ者が多いって編集が言ってたからちょっとした告知のためにしか使ってない。
まあ別に踏み荒らされたとしても、その落書きや放り棄てられたプラスチックを基盤に彩ればいい話なんじゃないかなって思うけどね。廃材アートとかいう言葉だって探せばあるんだし。
いや、やっぱりちょっと嫌かも。不満を以て荒らすのは容認できるけれど、無秩序に思想も何もなくわたしの世界を侵すのは些か気分が悪いね。だからといって大路から見える位置に磔にすることはないけれど。
わたしの世界に要る呻き声は、蛙とか蝉とかのものだけで十二分なんだよ。人はただ嬉しそうに唸るのが仕事って話。ハッピーエンドに越したものなんてないでしょう? 人々とはおしなべて、最期には必ず幸福の中に居るべきなんだ。ことわたしの世界においてはね。
〝常識なんて敷き放題。それが創作のいいところ〟なんて、偉い人だってきっといつかどこかで宣っていたはずだから。
「えぇと、話は戻るわ。だからね、勅使河原奇世という役者は役者として存在するのだから、この劇団〈いぬき〉の楽屋に居座ることは当然許されるの。でも河原綺依という人間はあくまで事務員なんだから、役者の心を整えるための楽屋という場所に踏み込む資格はないのよ」
「えぇー、なんだか河原さんも難儀ですね。ここに馴染めてる一員なら、楽屋で役者の心を落ち着けるために談笑とかしててもいいんじゃないかって思うんですけど」
「まあ、そこが河原綺依の拘りよ。一線を引くことで勅使河原奇世のメンツを保ってるという節もあるわ」
顔が2つあるって大変だなあ。いっそまだ3つ4つあったのなら〝あの寺院に祀られた静謐な御身が数千年の時を超え遂に動き出す──〟なんて釣り広告を電車の片隅に載せられそうなんだけどな。通勤ラッシュを悠に過ぎた快さ極まる伽藍堂の車内に寛ぐわたしの目が確と見届けてやりますよ。
その日の予定も、次の停車駅に着いたら開いた扉から擲って、広告にある寺院の住所まで小旅行と洒落込む気概でいますから。
まあその場合の終着点はこの劇団〈いぬき〉だろうけどね。だって被写体は河原綺依と勅使河原奇世、それにわたしが観測する前に潰えたらしい他2つの顔をもつ眼前にいるこの人の肉体だから。生き身に信仰を捧げるなんて、何だか社会からは煙たがられそうな慣習だけれど。
「それに、勅使河原奇世はあんまり気性が穏やかじゃないの。多分昨日顔を合わせた時に何となく感じたと思うんだけど……」
「ああ、そういえば睨まれましたね。でも演じていた役が、ツムギに想いを寄せていると理解しているはずのケイトに横恋慕する気性が荒めの間女ですし、その役が抜け切ってないだけなのかと思ってました」
「ううん、アレが素性よ。日常生活も事務処理も下手だから、普段は主人格代わりの私がこの肉体の主導権を握っているの。だから勅使河原奇世の生きようは、基本的に演劇以外じゃ表沙汰にはならないわ。でもいざ演劇のこととなれば、彼女の専売特許と言って過ぎないの。傍目には自分を褒めていると映るから、あんまり声を大にして言うことはできないけどね」
「へぇ、なんかすごい複雑で面白いですね」
わたしの世界を統括するのはわたしがただ一人であるから、立法も司法も行政もわたしの掌の上で起きる些細なイベントのひとつでしかない。
でもやっぱりその三権はわたし以外が満足に扱えるとは思えなくて、人格の滲む顔が幾つかある人は他人事でお腹いっぱいだと思った。何だか脂っけが強くて胃が重い。冷えた炭酸飲料ではなく温かい紅茶で流し込んだことが幸いして固まりはしなかった。
そうだ。未だ立つ紅茶の湯気に御名を与けてしんぜよう。きみの名は紅茶のコーチャン。あ、犬木さんと被っちゃうからやっぱり却下で。透くような琥珀色だから〝アンバーくん〟とかどうかな。
月並み? いいや、琥珀の区分は宝石のひとつ。さもすれば月より身近だと言えるものさ。触れられる機会だってきっとどこかにあるだろう? それに、食い入るように見て上っ面の〝きれい〟で中にいる蟻を軽んじて、衝動から展示されているものを懐中に捩じ込む思う人だっていると思うよ。
人の心まで盗める宝石の名を冠されたあなたは、この褒誉を手で払うというのかい? まあ、自分の名前くらいは自分で付けたいよね。それはちょっと分かるかも。
それじゃあ、意思をもったら教えてね。ネタ出しくらい、腰上げて付き合うからさ。きみによく似合う輝かしいレッテルを一緒に探そうじゃないか。
そう思い終わらないうちにまた紅茶を啜った。やっぱり猫舌には熱かった。犬のほうが熱さに強い舌をしているのなら、往来をのこのこ歩いている野良っ子から千切って付け替えようかな。
え、非道いって? 冗談が通じないとはきみもまだまだ棄てたものだな。わたしが拾い上げるだけの
まあ唐変木には通じないか。きみが誰かも分からないけれど。
いや、だからか。4つの顔を2つに減らせるだけの、そしてその2つを上手く手篭めにできるだけの胆力をもった肉体が、いっそう器用に見えてしまうのは。
でもやっぱり世界の管轄を2人がかり、という点は理解に及ばないや。邪魔でしょ、そのもう1人。
「と、私の自己紹介はこんなものよ。2人いることに留意してもらえたら、諸々は全く問題ないと思うわ」
「ありがとうございます。じゃあ次はわたしも話したほうがいい感じです?」
「そうね。私も泉火ちゃんのこと、もっとよく知りたいわ。主に作家活動のことについてだけれど……」
藍色いずみはわたしの別人格じゃなくて、わたしの着ける仮面に貼ってあるラベルみたいなものなんだよね。だから人格とはちょっと違う。
わたしの世界を管轄してるのも藍色いずみであって紺原泉火で、紺原泉火であって藍色いずみ。何だろうね、やっぱり実物と鏡像みたいな。
秋の装いをすればなぞるみたいに同じ秋の装いをして、対になる位置にあるほくろがどこか愛おしい、そんな関係。
きちんと共生できてるよ。だって、自分の全部が嫌いな人間なんていないはずだから。逆様に自分の全部を好いてるわたしはきわめて稀有だけれど、それがどうにも僥倖って感じかな。愛せるひとの生む世界は、何ら抵抗なく一心に愛することができるというものだからね。
♢♢♢
「──で、その賞与としてこの前美味しそうな清酒を貰ったんですよね。けっこう美味しかったです。止まらなかったくらいで」
「多分それ、すごく良いお酒よね。その言い方だともしかして、ひと晩で空っぽにしちゃったのかしら」
「朝起きた時にはゴミ袋に入ってたんでそうだと思います。お酒で全然酔えない体質なんですよね」
紅茶を遣った肥沃な土地には花が咲いていた。
河原さんとの会話は〈いぬき〉の玄関にある受付用の机上で行われていて、業務用と思しき換気扇の音が薄らぼんやりとしたBGM。会話が佳境に入っても盛り上げることなく、かといって盛り下げることもなく平常心を粧って呻き続けている玄人。
いやはや仕事人だ。お給金は満足に支払われているのかな。よしんば満額支払われているとして、その宛先が電力会社なら不甲斐ない。わたしは、この換気扇さんに余りある褒誉を捧げたいんだ。そのために神棚か何かを取り付けてもいいですか。
あ、ダメですか。賓客の方々に変な思想があると思われるから。確かにそうかも。わたしみたいな新参者が身からたくさん錆を出すのはご法度と。確かに、不格好で困っちゃいますよね。
まあわたしの愛刀はこれひとつではないんですが。ちゃんと綺麗に欠かさず研いでいる刀だってあるんですよ。書店を散策して検索機で〝藍色いずみ〟と引いてもらえれば、一振り二振りくらいは簡単に見つかってくれると思います。奮発した清酒
歴代担当編集からの〝良くも悪くも見聞きの少ない斜めに構えた純文学〟という曰く付きですけどね。ふふ、曰くがあれば酒もすすむって? それはどうも、物好きの成れの果てさん。
「おはござ〜!」
もう、折角ふたりで花を咲かせていたのに脇から水を遣る人は誰だ、なんて。その朗らかな声調の正体は、そのひと言で鮮やかになっていた。
「
「そりゃ早いでしょうよ! 昨日の晩に連絡くれたの忘れた?」
「……あ、すっかり忘れてたわ。頼み事をしたっけ」
「おはようごさいます。昨日もいた紺原泉火です。その昨日付けで本劇団に見習いとして加入することになりましたので、気軽に紺原とか紺原ちゃんとか泉火とか泉火ちゃんとか呼んじゃってください」
「お、昨日の観客ちゃん。そっかそっか、よろしくね! そんじゃあ〝紺原ちゃん〟がしっくりくるからそう呼ぼっかな〜。私は
昨日のフェイスメイクは舞台用で多分すごく濃いほうだったけれど、今日は至ってナチュラルメイクだ。
スパイスをふんだんに振り撒いたステーキも3日重ねるとお肌が
身長があるせいか机は少し軋んでしまって、支えは痛いと泣いているようで。まあでもそれが役目だし、慮る必要性も感じないような。
だけど壊れれば買い直す手間が掛かって憂いか。スクラップ置き場に打ち捨てられるこの子だってきっと憂愁と遺憾の意を隠しきれないだろうから、今しがたその軋みに気がついて腰を上げた戎さんは良手をとったと思われる。お互いにそれがウィンというものだからね。
「戎過言って本名なんです?」
「ううん、芸名! 本名は
「了解です。戎さんって呼びますね」
「うん! 改めてよろしくね、紺原ちゃん!」
背も高いし筋肉質で恰幅がいいなあ、この人。それでいて女性特有の
掛け声とかを投げたら、ポーズでもとってくれるかな。昨日の陰気臭いキャラクター像とは打って変わって朗らかだ。それも多分背を押しているんだと思う。
霹靂によく似た感動を覚えたのは飯森雪の脚本であるけれど、それを彩る役者の力もけっこう凄いんじゃないかな、って思った。
まあ役者になるということは顔をひとつ増やすってことだから、何だか転んだ拍子にアイデンティティを清流に落としてしまうんじゃないかという不安感みたいなものがある。
入団するって啖呵は切った。でもわたしが見据えるプリマステラの生業は役者業じゃないんだよね。雪ちゃんって役者としても十二分に輝けそうな容姿をしているけれど、軽く調べたネットの四隅にも役者としての業績はしたためられていなかった。
その代わりにこの劇団〈いぬき〉での公演情報のページが幾つか出てきて、その脚本家の欄に必ずと言っていいほど名前があった。昨日に〝入団します〟とだけ言って足早に書類にサインを書いたけれど、これだけだとわたしはめっきり役者志望だ。
ここは役者も昨日見た顔ぶれフルメンバーらしいし、そんな中に脚本家が2人というアンバランスも端から考慮されていないだろうし……うーん。犬木さんや眼前の2人、そして未だ打ち解けられていない雪ちゃんや大音さんにどう話を切り込もうか。脚本家志望って言いづらい雰囲気。
何だか掴めてないけれど、雪ちゃんには昨日堪忍袋の緒を切らせてしまったし、恙無い会話を紡いでいくには少々手古摺りそうだ。
したらば外堀からせっせこ埋めていくしかないね。まあ担当編集たちみたいにいつかは切られるよすがだろうけれど、それまでに雪ちゃんを──。
「そういえば、
「あいつ、朝弱い上にメイクするのもおっそいからね。こっちに着いてから楽屋でゆっくりやればいいのに、〝ゲネか本番の時以外はウチでメイクしたい〟とか一丁前に言っちゃうんだよ!」
「へぇー。あ、確かにメイク映えしそうな感じなんでメイクするのは納得です。あの目元はすごく飾り甲斐があると思いますし」
「お、紺原ちゃん分かってるね! 今度あいつも連れて一緒にコスメとか見にいく?」
「いや、わたしメイクとかあんまり興味ないので行かないです」
「えぇー、センスあるのになあ」
着飾った顔はけっこう好きなんですけどね。でも〝別人メイク〟とか宣っちゃう輩は
まあでも、最低限はこなしますよ。わたしの世界の一角には薬局とかデパートがありますし、そこにはさも当然のようにコスメが販売されています。わたしの使うブランドの最低限だけだけどね。他所から仕入れた珍妙なシャドウとかは当然、斜に構えてると専ら噂のわたしの世界の住民たちでも〝珍妙なもの〟として処理します。
だから物見遊山で眺めることはあれど、買うことはないでしょうね。余るのも当然。生き物みたいに水や土に肉を浚われないから、タイルに染みたきれいな色として後世に遺ってゆきます。
まあそれも悪くないかも。人工物でしか出せない色味もまた乙じゃないかな。人の歩みから産まれたレガシー。いずれ水底に沈んでも、生を受けて間もない子馬のように、水泡混じりに嘶くんだ。自分が在るという存在証明のために。健気でかわいいと思うよ。願わくば、保育器の中で健やかに育ててあげたいなあ。
「そうだ。せっかく早くに来たんだし、泉火ちゃんも過言と、後もうすぐ来るはずの樂と一緒に、頼み事に付き合ってくれないかしら? 変哲もない買い出しよ。私は事務作業が立て込んでて、脚を運べないものだから……」
「お、好機だね紺原ちゃん! 買い物ついでにしゃべくり倒して、過言お姉さんと、ついでに樂お兄さんとも仲良くなっちゃいましょう!」
「えぇー……まあいいですけど」
親睦を深めることに対する抵抗感とか忌避感はないけれど、どうせ千切れるって知ってるよすがを手繰って、色を付けることに邁進できるかどうかはわたしとしても保証できないんだけどなあ。
よしんばその色を愛せるようになったとて、手繰る道程でぷつって切れると甲斐がない。澱みだけで出来てるのかってくらい真っ黒々のお墨と曰くを付けられたわたしという人間のディスコミュニケーションが猛威を振り抜くまでのバッティングホームは、つぶさに見るだけの価値があるのかと甚だ疑問でありまして。
離縁の
わたしはまだ彼女の世界を、食い破るほどに観られていないんだ。
あなたの
自立思考を止めないわたしは来し方、一体どこから来たものか。居場所も行く宛ても探求する気概はないから、こんな体たらくではゴーギャンさんも
ああ、一緒に笑ってくれてもいいよ。例え憫笑であろうとも、あなたがわたしで笑ってくれるのなら冥利に尽きるって思うもの。
いや、やっぱり嫌かも。わたしがあなたに求めるかんばせって多分、掻き毟って、頭皮だったものを爪垢として携えたその指を咥えながら、宿意を孕んだ目をするそれだ。
わたしの作品を叩き付けられてそうなるあなたを嘱望してる。それを詳らかにあらわした熟語は知らなくて、ただ不思議なままに思ってる。
豪快に転んで膝を擦り剥いて尚、気丈に立ち上がろうとする子供に〝すごく真っ赤。痛そうだね〟〝その脚じゃもう歩けないね。治るまで、そこで蹲っておいたほうがいいよ〟なんて語彙を遣るのと同じように。
まあわたしはいくら稚くてもその語彙を大袈裟に手で払って気丈に振る舞うんだけどね。あなたがそう強くないことを願っています。その虎だか馬だかを脳裏に刻まれて、膝を擦り剥く度に気丈さに竦んでしまうような弱さを持っていて、それでもそれを乗り越えて、竦みながらも立ち上がって歩いてね。次第にまた走れるようになって、言葉にするなら、
『そのままでもかわいいけれど、走るきみはもっとかわいい!』
って感じ。わたしはハッピーエンドが好きだからね。でも物語とは感動とか、
まあ今のわたしに、あなたにそんなかんばせを浮かべさせられる技量があるかはさて置いて、ね。それくらい、今朝に書き上げた初稿を見て容易く分かってしまいそう。
いやあ、磨き甲斐のある石を手に入れられて僥倖だ。川辺で拾う石には専ら曰くがあると風の噂がうるさいけれど、同じ憑き物を背負った曰くを持つ者同士、仲良くできると思うんだよ。少なくとも、心の読めない他人よりはね。まあ憑き物だって辿れば人かもしれないけれど、生憎わたしに第六感は備わっていないの。ただ〝居るかもしれない〟という漠然だけを分かってる。同じ曰く者として共鳴することがあれば、その時はどうぞよろしくね。
「あ、樂からメッセきた! って、もうすぐココ着くんじゃん。同じマンションのよしみだし、このくらいなら言ってくれたら待ってたのにな〜!」
「樂さんって人見知りなんです?」
「まあ、人見知りではあると思うわ。数年来の付き合いである過言にもずっとそんな感じだから、どうにもそういう性分なのよ。でも演技をさせると凄いのよ? 彼にNGの2文字はないの」
「へぇー、犬とかも演じてくれるんですかね?」
「コアラを演じた時の映像なら動画サイトに上がってるよ? 後でリンク送っとくね……って、まだ連絡先交換してなかった。早く交換しよしよ〜。紺原ちゃんも今日から〈いぬき〉の一員なんだし、グループトークにも入れてあげないとだし!」
この人、声が大きいな。何だか羊水の中で逆様になってる気分になった。八方から刺すような印象も受ける。ミクロサイズのウニを語彙と一緒に吐き戻しているみたいだ。
仮に床面に零れ落ちたとしたら、拭き掃除に準じることになると思う。すると雑巾1枚くらいじゃ突き抜けて掌が穴ぼこの惨憺たる様相を呈することとなるだろうから、分厚い手袋を常備してあるかどうかを後で犬木さんに訊いておこう。
なければ今日の買い出しで、戎さんの目を盗んでこっそりカゴの下へと。下っ端だから会計の手間を受け持つと嘯いて、ポケットマネーで買っておくのだ。
尤も、手袋では手を守ることがせいぜいであるため、鼓膜を蹂躙するようなこの
あ、毬とか言ったけど別にそこまで嫌じゃないよ。力強くてけっこう好きだもの。
「紺原ちゃん、じゃあちょっと雑談ね! 好きなものとか教えてくれないかな?」
「好きなもの……小説ですかね。あ、でも名作とか呼ばれる作品も数冊しか読んでないです。普遍的な作品なんかもっと読んだことないんですけど、それでも小説が好きです」
「そっかそっか! えぇと、もしかして書くほうだったりもする?」
「あ、はい。そうです。どっちかというと書くほうです。脚本は書いたことないですけど、小説ならけっこう歴があります」
昨日の感動と感傷を言葉にしたくなった。ようやく言葉にできる気がした。けれども今、会話を放ってしまうと何だか不都合が多そうだ。そんな、不足感の渦中で生まれる斜め斜めな文学の標は確かに在る。
近づけば神秘を失うかも、いやでも近づいてつぶさに見つめて如実にしたためなければ、この神秘は誰の目にも届かなくなってしまう。なんてもどかしさとちょっとだけ似てるかも。セルシウスさん直伝の少し熱めの湯船の中で茹だったいつかのわたしが思いついた文学性です。
今言葉にできそうなこの感情は、少し背を押して大海へと抜錨させてあげよう。わたしだけの海を揺蕩って、たくさんの人の目に触れられるよう邁進するんだな、なんて。
うん? どうしたの、モリアーティ教授。
『最近は専ら海なのか』
だって? うん、実はわたしって滝派より海派なの。あの塩辛くてベタつく波と海風が好きなんだ。というか折角来たのならもうちょっと楽しい顔しなよ。貴方の憂愁は切迫していて見てられないの。
ほら、あの
と、形而上の愛しい好敵手に諌言を述べてみた。わたしだって
依存する気質って怖いね。昨日の『ドライヤー』だってそうだった。他者からの深い愛というものに固執する主人公は湿っぽくて絵に描いたように女々しくて、だからこそ映えるセリフ全体のあどけなさが愛おしかった。
些細なセリフの取捨選択に長じていることが容易く見聞きして取れたというわけで、やっぱりかの脚本家:飯森雪は、目映い恒星と言って差し支えない。
『ドライヤー』という脚本は彼女を軸に宇宙を遊泳する衛星のひとつ。その名前も些か目映く見えてしまうのは、やはり彼女の息や熱れが振り撒かれているからなのだろう。
似た広さ形状の、別の宇宙で
「へぇ〜、書くほうなんだ! 昨日の
「あ、一応訊いておきたいから訊いておきますね。戎さんって、藍色いずみという作家をご存知です?」
「純文作家の? もちろんもちろん! 『鯨を食むオキアミ』『退屈』『哨戒』辺りは履修済みだよ! どれも小難しいし読者に優しくないくらい突飛でめちゃくちゃだったりするけど、そこが良いなって思うなあ〜!」
「〝口に出す程じゃない独り言〟がわたしのモットーですもんで。ファンレターで分かってましたけど、やっぱりわたしの世間評って〝不親切〟なんですね。少しだけ勉強になったような、そうでもないような」
「……えぇ? もしかして、紺原ちゃんが藍色いずみだったりする?」
「そうよ、この子はかの藍色いずみなの。思ったよりも理性的な子だから、正直私も驚きを隠せなかったわ。もう少し本能のままに書いて、そう生きるような姿かたちを想像してたから……」
「わーお……数奇なものだね……」
まあ、理性がはたらいているかと言われたら当の本人でありながら些か訝しまずには居られない。書き始めたら書いてる間の意識は薄らぼんやり、漠然としたものしか残っておらず、それは理性と呼ばれるものが欠けていることに他ならない。つまりは本能の赴くままに筆を走らせていると言って過ぎないのではないだろうか。
脳みそとキーボードを打つ指先がどちらも食いつく生き餌みたいなプロットを垂らせば、後は節操なき入れ食いの始まりだ。時折挟まるルーレットを勝ち上がれば一定確率でのジャックポットが待っている。そんな幼い頃に遊んだメダルゲームを彷彿とさせる本能任せの賭け事。担保にしているのがわたしの唯一である身体であることから目を背ければ、実に健全な営みだ。
これは些か、子供になんか見せられないな。散歩は当分、登下校する小学生の行き交う時間帯を避けて行おう。
まあ意識したとて、4限までしかない時間割の日程を把握し切れていることなど当然あるわけもなく、うつらうつらと木漏れ日の差す昼下がり、公園のベンチで居眠りのひとつでも零してしまえば、わたしという本能はサッカーなりケイドロなりを嗜む小学生たちの眦にしっかりと捕らえられてしまうのだ。
そうすると前科が秒読みになってしまうから、把握しといてもいいですか、最寄りの小学生の時間割を、なんて。お尋ね者になる道を
ツテとして計上している幾つかの出版社の、低かったはずの敷居が後ろ暗さから目に見えて高くなってしまうことを避けるために、紺原泉火さんの散歩は深夜帯が推奨されます。
いや、いっそもうランニングマシンでも買おうかな。すると今度は下階の人から熱い罵詈のコールがエイトビートと共に聴こえてきそうだからやめておこう。それにノって踊り出しそうだからね。叱責をきちんと聞かない生徒が先生の怒りを膨らませていたのを、賢しい子供だったわたしは額面上だけ把握していたのさ。
「わたしはけっこう本能寄りだと思いますよ。担当編集に〝人の心が分からない〟とかを総評にされて、軒並み縁を切られるくらいですし。理性の有無もたいへん怪しい犬猫みたいな愛玩動物ですら、主人を慮る行動をとったりとらなかったりするくらいですからね、はは」
「うーん……お気の毒って感じ!」
「私も本当にそう思うわ……いくら泉火ちゃんに非があったとしても、手を切るのなら次の宛てくらい用意するのが筋ってものでしょう……」
「いや、まだまだ行く宛ては無数にありますから、心配ご無用って感じですよ」
「まあ、紺原ちゃんがそう思うのならいいけどさ。でも仕事仲間に軒並み縁切られるって、私ならかなり
「役者ってそうなんです?」
「おしなべてそうとは言えないけれど、やっぱり実力はもとより、縁と運もほとんど必須な職業なのよ。実力は勝手に磨いておくのが当然として、後の2つは、色々な人と懇意になることで招くことのできる事象だから……」
当の本人から聞く役者業の本質って小説家とけっこう似てるなあ。瓜を縦に割った時みたいな納得感が気管のほうに入って少し
この劇場の玄関の床は吐瀉物でも何でも、一度何かを零したら永劫その色味が残ってしまいそうだ。わたしは下っ端だから、多分それに苦言を呈されるか、笑い飛ばされるかの2択だね。50%なら直感を宛てにしても大丈夫かな。トロッコが傾く方向を真っ直ぐな勘ひとつで決めるだけ。
きっと後に5問くらいは平気で続くはずだから、ここで諦めて逃げ帰るなんて乙じゃない。だから今啜っている湯気の立つ紅茶のカップはひと口の度にソーサーに乗せて、今しがた猫舌を穏健に温めている紅茶のそのひと口をおくびと一緒に吹き出さないよう堪えているんだ。
鈍色の絨毯だから、琥珀を零すと目立つもの。印象が良くないらしい雪ちゃんには重ねて雷を落とされるだろうなあ。既に数回分の霹靂に目から耳から旋毛から劈かれている訳だから、今度はきっと事切れるだろうね。
形而上のアナフィラキシーショック。多忙の狭間、お昼のひと時、近所で評判の宅配カレーを昼食として貪っていた医者だって、急患として雪崩込んできた紺原泉火のカルテには度肝を抜かれて、香辛料の染み付いた匙を窓から放るだろうなあ。医者の匙投げ選手権、優勝はあなた。まあ準優勝以下が寝ぼけた色味の記録ばっかりだから、これは褒誉だよ。きみは強いさ、誇っていい。なんて。
まあこれもまた、
あ、でもそうだなあ。雪ちゃんの脚本には、少しだけ患っているかもね。先生、この症状は一体? 仏頂面の医者は、生来の寡黙さをいっそう強めるように押し黙っていた。セカンド・オピニオンと興じようかな。彼はルーレットで投与する錠剤を決めるような人でなしではないものの、如何せんわたしの世界に腰を据えているのだから、こちらの意思も意向も何も画鋲で留めてくれないんだろうなあ。診察中もカルテに掌編とか書いてそう。
でも評判がいいのは、わたしの世界に住む各々の患いというものが、己が執筆した小説というもので満足に癒せるからなのではないだろうか。それはそれとして人の心を考えられない因果応報が、静謐に降ってクレーターを作ったみたい。いずれは待ち合わせスポットとなるその跡地で紅茶を啜るのはダメですか。
屋外で飲食を喫すれば、ピクニックの定義にぴたりと嵌ってしまいますから、乙なものですよ。何だか水浸しなところは玉に瑕だけどね。仕方ないじゃん、わたしの世界でお話は絶えず濁流みたいなものが流れてるんだから。
生やした翼で俯瞰をすれば、それはどうにもいち星規模の
「役者って何だか大変そうですね。近そうで遠い世界だと思いました。まあならないので、あんまり関係ないかもですが」
「うん? あれ、紺原ちゃんって役者じゃなくて、音響とか演出志望?」
「脚本家志望ですよ」
「お〜、そっかそっか! なら雪ともしっかり仲良くならないとね!」
「あんまり印象良くなさそうですけどね。馴れ合いは不得手なので、まあ露骨に気を損ねない程度を探っていきたいと思います。〝人の心を分かろうとしないなんて横柄〟みたいなことを直近の担当編集に言われたので、あんまりしっくりこないですがそれがわたしの課題です」
そう嘯いたけれど、あんまりその解に手応えはないなあ。歌詞も音声も映像も欠けた絵描き歌を描いてる気分なもので。
いやあ、人って比較的丸い形状をしているところが多いけど、その実四角形だけで構成された
お正月を祖父母の家で過ごしていた時に見た、従兄がやってたゲームのキャラクターみたいなポリゴン数だ。
子供心ではそれに覚える違和感なんて少なかった気がするけれど、成人するとどうにも違う。ちょっとだけ不気味で、凡そ心は高揚していた。だって1作書けそうだもんね。人々が光を全部呑んじゃうくらいの黒々とした立方体を当然の頭部として持ち合わせている、と思い込んでしまう、病か気を患った青年の物語。
でも何だか比較的エンタメ小説感が出るな。わたしの客層はみな須らく斜に構えているものだから、真っ直ぐな現代風刺を醸すような小説は門前払いされるかも。いやでも、思いついてしまったプロットは消えないし消したくないよ。愛の末に孕んだ胎児は、基本堕ろしたくないでしょう?
わたしにだって、〝あなたの未来を見てみたい〟っていう
養育だけはするけれど、どうしてもキャラクターとして見ちゃいそう。わたしが親になるとして、それはきっと親というロールを遊びたいだけだから。まあそんなことを言うと新しく契約を結んだ担当編集からまた軒並み〝人の心が分からないのか〟なんて
思想はせいぜい隠し味くらいがちょうどいいんだ。八角とかを直に食む阿呆はいないもので、よしんばそれが干からびたシキミだったらどうするって話。くどいくらいに味の濃いプロットは、少しずつ出汁に溶いていくのがセオリーってことだね。わたしはこれでとある出版社の担当編集全員と縁が切れました。参考にすべきではないと思いますので、まあ話半分で聞いてください、なんて。
こんな宛てのない蛙鳴蝉噪はやっぱり人様に聞かせられるものではないなあ。だからこうして脳内だけで足るを覚えているんだけどね。
「そっか! ならココが適任ってことだね!」
「あ、〈いぬき〉ってそうなんですか? 人の心とか学べたり? なら丁度いいですね、まあ気長に、ちょっとずつ人の心を憶えていきたいと思います。あんまり気乗りはしませんが」
「泉火ちゃんなら大丈夫。共感性を上手く扱えるようになれば、きっとまた担当編集さんに縁を切られるようなことにはならなくなるはずよ……って、もう出版社への持ち込みは蹴っちゃったのかしら。ウチに入団しちゃったみたいだし……」
共感性とか人の心って、漠然としてるなって思う。正しく海みたいな存在だ。今昔問わず、絶えずうねって渦巻いては凪いできた諸行無常の移ろい。
塩っぱい味とかベタつく海風はけっこう好きなものだけれど、実のところわたしの世界じゃそういうものはあんまり探査が進んではいなくて、喫緊のタスクじゃないからずっと脇に置きっぱなしだった。
それが
代表例として挙げられるマグロみたいな、鮮血の通った赤身を渇望する窮まった界隈の読者たちに囃されるのが常、なんて、パーティーで邂逅した同業者の一人が言ってたっけ。
まあわたしはその同業者曰く〝表現するのがいちばんの幸福で、それでおまんまを食べられたら僥倖〟って感じのフリーダム系の小説家らしいから、道理で侵されないわけだ。他者の評価に固執しないのって便利だね。
天は
〝きれい〟って感想はきちんと浮かぶよ。でも、専らその星を探求する気力は湧かないんだ。わたしがわたしを好きなだけだね。ひときわ明るいと思う恒星はわたしが築くソレなんだ。
昨今の世情では盛り下がりがちの自己肯定感が聳えていて面黒いと思うんだけど、ワトソンくんはこの話をすると大抵居眠りを始めてしまう。まあいいけどね、宛てのない騒がしいだけの蛙鳴蝉噪だから。
蛙鳴蝉噪って言葉は良いね。それ程大きいわけでもないスプーンで鍋のハヤシライスをよそうことに飽き飽きして、三百円かそこらの玉杓子を買って使った時の利便性によく似てる気がする。
ライフハックとは斯様であります。同業者の方々につきましては、より良い作家ライフを送るために玉杓子を購入して、多種多様な蛙鳴蝉噪をストックしておきましょう。
〝何かないかな〟って宛てもなく開けた冷蔵庫に、いつか生み出した蛙鳴蝉噪があれば、水で引き伸ばして短編くらいは書けるはずですからね、なんて。
河原さんと戎さんとの会話もそこそこ進捗を得たところで、玄関扉が開いて秋風が吹き込んだ。較べて昨日よりはカラフルさを孕んだ服装に羽織った外套がたなびく。それに惹かれるように視線を扉に向けると、昨日見た長身の切れ長な目元が視界に入った。
「……おはざす」
「樂、おはよう。早速で悪いんだけれど、十数秒で自己紹介をしてくれるかしら?」
「今更アンタらに何で……って、ああ。アンタは昨日の。成程ね」
わたしを一瞥したその眦。不健康なくらいに色白なのは、明るいファンデーションとパウダーで飾っているからだろうか。
昨日見たものよりは控えめなアイシャドウは変わらず目尻の辺りに煌めいていて、何だか少しわたしもメイクに凝りたくなった。でも目元のメイクって、クレンジングオイルを使う時に目のほうに流れて、充血するのが億劫なんだよね。やっぱり目って刺激にめっぽう弱いなあ。
傍から見る分には、ずっと黒白の黄金比をもったモノトーンであればいいのに。けれど、主観的にはずっとカラフルであってね。紅葉がさらばえて色味を変えて、踏むだけで崩れる様が、わたしはけっこう好きだから。
生けとし生きるものとして、決して避けられない諸行無常という概念が大好きだから、この意見はそれに準えて成育されているのかもしれない。色がたくさんある世界は、目移りするくらいきれいだもんね。
「拙者、親方と申すは! お立ち会いのうちにご存知のお方も、ご存知のないお方も今、此の眼前にただ間違いなくおありでしょうが! 都心を発って二十里上方……って、アンタは
「よろしくお願いします。紺原泉火です。気軽に紺原ちゃんって呼んでください。わたしも今年25です」
「へえ、数奇だな。完全にタメな奴は役者始めてから久しぶりに見たよ」
「この界隈、年齢のバラつきが多いものね……」
「ちなみに私は27だよ! 2コ下って妹みたい!」
「私は今年で28よ。でも別に歳上だからって気を遣わなくても大丈夫だから、砕けた調子で過ごしてくれると助かるわ」
〝華の二十代〟も半ば以降のメンツだということがあからさまになって、何だかこの劇場の玄関先は、サークルメンバーの
露骨なまでに広くて様々な棟のあるキャンパスライフ、みたいなものに憧憬の1滴も差せなかったはずなのに、何だかこの手狭な小室が心地よかったりする。
ああ、アレだ。1回だけ同業者に誘われて行ってみた執筆合宿用の旅館みたいな。〝馬が合わない〟という総評のお陰で第2回以降が開催されることすら知り得ないことになったけれど、あの、全員がおしなべてカフェインで赤みがかった足首をアイシングしながら走り続ける光景はちょっとだけ良いと思ったんだ。絵に描いたカンヅメって感じで。
どうして足首が赤らむかは、終ぞ分からなかったけど。どれだけ走っても捻ることなんてないし、痛むことだってないのにね。
だって執筆で足首を挫いたりなんかしちゃったら、買い出しとか散歩とかに支障が出るじゃない。日常がままならなくなるのならわざわざ痛め易い走り方なんてするメリットがないのに。カフェインがその思考の指数を馬鹿にしていることには一切焦点を当てないで、涙を堪えながら走り続けるなんて愚かだなあ、って思ってた。
作家なんて書き続けることがいちばんの悦楽なんだから、ペースを守って走ればいいのに。ずっと走り続けても挫かないわたしの足首を一瞥したら、それが不思議で仕方がなかった。
ランナーズハイも訪れれば僥倖、って感じで軽く走ってたら、気づけばみんな後ろのほうにも見えなくなった。ゴールっぽい旗の立てられた場所にある天然温泉で伸びをして、湯上がりのフルーツ牛乳を喫して。
そうしていると、原稿を上げるまでカンヅメにされているらしい漫画家がロビーにいたから一緒に卓球で遊んだ。初めてやったけど意外とラケットは手に馴染んで、3セット全勝したような気がする。で、その漫画家と解散して部屋に戻っても、まだ他の人たちはゴールに掲げられた旗へと靠れられるだけの進捗を上げられていないようだった。
だからわたしはそのままその部屋で関係のない掌編とか短編を幾つか書いて遊んでたんだけど、どうにもそれがみんなの逆鱗を静かに撫で付けてたらしいんだよね。
必死で書いてたら、〝必ず死ぬ〟が近づくのにね。まあ人間なんてみんな、歩いても走っても寝転んでいても必ず死ぬもの、なんて無粋はさて置いて。
書いて死ぬのは別にいいしわたしもそうするつもりだけど、その過程で身体を壊したら世話ないのにね。〆切なんて、ささっと書いて初稿を上げればそれで落ち着くはずなのに。
ああ、でもあの時の顔ぶれの初稿はわたし以外みんな要修正ってそれぞれの担当編集に言われて、3日目の終わりまで改稿作業で頭抱えて唸ってたなあ。何だかわたしは部屋で寛ぐと腫れ物を見るみたいに一瞥されるから……って、腫れ物とかは滅多にできないから正しくその形容があっているかは分からないけれど、だからそんな目で見られてからは、ずっとロビーで掌編を書いてた。
ロビーではドリンクサーバーが使い放題だから、フードコートのソレよりも多種多様なドリンクに現を抜かして。そうしたら件の漫画家が、原稿を上げて晴れ晴れとした表情でロビーの向こうから闊歩してくる様子が見えて、もう1回卓球を楽しんだ。
でもその人が寝不足っていうのは、何だか平時よりも開いたように見える瞳孔と、打ちつけた膝に見える痣みたいな青黒い隈が深刻に語っていた。
改稿が怖くてよく眠れなかったのかな。でも漫画家って小説家よりは楽に修正できなさそうだし、そうなっても可笑しくはないか。漫画のことはよく知らないけどね。知らずして語らうのは作家としてよくないかも。
ようやく昨日に映画ってものを知ることができたものだから、今日は書店で数冊、漫画でも買って帰ろうかな。あ、せっかくならわたしの作品のコミカライズにしよう。うん? あ、じゃあ買わなくてもいいや。献本が確かどこかの紙袋に入ってたはず。
『鯨を食むオキアミ』のコミカライズは何だか編集部の人も唸ってたらしいし、いよいよわたしも読んでみようかな。歳不相応に幼げな鯨のマートレが、権謀術数に長じたオキアミのツェングに絆され、唆されて、彼女の恋敵をその不必要なまでに大きく歪な口から吸い込み、胃の中でじっくり殺してしまうというお話。
純文と言うに足りているかは定かではないものの、一応区分はそこらしい。油断したツェングがマートレの歪な大口に恋敵と共に吸い込まれて、恋敵と同じように事切れていくさまを如実に書いたのが功を奏したのだろうか。ううん、バッドエンドじゃなくて名実共にハッピーエンドだよ。
ツェングは犯した罪を身を以て知り、贖った。マートレはツェングを喪ったことを、彼女の声を失くしたことで自覚し、それに塩辛い涙を流しながらも、幼くても自立思考をすべきだという教訓を得た。なんて。
それを純文めいた語り口でつらつら喋々と書き殴った作品です。文庫版は比較的廉価で買えます。コミカライズもありますので、何卒って感じです。
その印税でフルーツ牛乳を、わたしの分も含めて4本買おうかな。あの時一緒に走った3人のみんなを、形だけでも思い偲ぶためにね。
まずは形から入って、気が向いたら考えようかな。偲ぶって言葉の本質を。
「……で、俺らは買い出しに行けばいいんだよな。何を買ってくればいいんだ?」
「あ、そうだったわね。えぇと……みかしわぎ屋のヨモギ大福の〈松〉を1箱と、速乾性の黄色い油性インクを1缶、後は昨日のゲネで使い切っちゃった樂用のアイシャドウよ」
「みかしわぎ屋……ってことは雪の要望か」
「あのシャドウってどこに売ってたっけ? 私のとは違うブランドだったよね?」
「……サプテルナのだ。みかしわぎ屋の支店と並んで入ってるモールがあるだろ、要はそこに行けばいいんだな?」
「ええ。インクはブランドを問わないから、適当なものを買ってきてくれればそれで構わないわ」
「えーと、わたしも着いていったほうがいい感じですかね?」
大の大人が2人いればこのおつかいは完遂できそうな気がするけれど、したらわたしはあぶれるね。
まあ人並みのおつかい程度別段困ることなくこなせるわけではあるものの、早い話が暇しそう。甲斐もあんまり感じないから、さっきから頭の中を逡巡する飯森さんへの感情感傷をしたためたいんだけどなあ。
だからこそ買い出しに着いていく必要性に影を落としてしまって、どうにもそっちは何だか暗くて味気ない。明るいほうに歩きたいでしょ、みんな。わたしだってそうだよ。明るければ明るいほうがいいね。進んできた大路も小路もおしなべて明るかったから、暗い道の歩き方を知らないとも言える。
知らないなら越したことはないと思っていたはずなのに、1回焦点を合わせてみると、何だか心が踊るものだ。人目があるから愛しい心の切れ端が今この眼前で踊りだすわけではないけれど、そうしたいのも山々であった。眠らなくてもある程度は動けるけれど、まあ
独自の生態だなって思う。唯一つで無二のわたし。だからこそ、わたしはその無二の世界を、綻びのない絹のように扱って、絶えず組み続けるんだ。最後が近づいて、段々と母数が減ってもきっと唯ひとり、わたしだけは必ずね。
「ええ、もちろんよ。何なら前向きに、着いていってほしいと思うわ」
「えー、絶対2人で事足りますよね?」
「ううん。これはこの劇団〈いぬき〉からの、泉火ちゃんに向けた課題のひとつとして扱います。これからこの2人と買い物に出かけて、少しだけ仲良くなってちょうだい? 雪ちゃんの脚本に惹かれて入団したんだから、それを彩る役者たちにも、しっかり惹かれてもらわないとね♪」
「えぇー……」
「今日はよろしくね、紺原ちゃん!」
「……宜しくな」
何だか変に熱の入ったらしい2つの蒸気機関がわたしのかんばせを熱して、否応なく汗が噴き出そうだった。冷えても脂ぎってもない、取り立てて特筆する事項もない汗。
まあ滴って床へ落ちたとしても、この鈍色を侵すだけの色味もなければ、乾いてから後を引くことだって塵のひとつもなさそうだけどね。だってただの汗だし。わたしの世界が滴ったわけじゃない。
でも、わたしのさらばえた老廃物が入っている分、何だか少し悪いことをしたなあ、なんて上っ面だけの罪悪感みたいなものも、その汗の中に含まれていたらいいな、なんて思ったりした。
染みになれば見えるからね。人の心も、多分。
♢♢♢
「──と、みかしわぎ屋もこれで済んだな」
「……あれ? 紺原ちゃん? おーい、紺原ちゃーん! さっきまでここにいたのに……って、そんなとこで屈んで何してんのー!?」
ああ、何だか遠巻きに戎さんの明瞭な声色が聴こえたり、そうでもなかったりする。
でも今は耳なんて必要ない。お経を書き忘れたって嘯いて、聞かなかったことにしていたい。それだけ今わたしの眦が刺す路傍の雑草は煌めいて見えていて、その隆起したり沈降したりする土壌の表層には、目下果てのない無聊と洒落込んでしまっていたわたしの世界を今一度彩ってくれる虫たちが蠢いていた。
心が読めなければ虫も人間も似たようなもの。魂の絶対値なんてどちらも五分に類似した値だろうし、形容するなら瓜を2つに割ったような……いや、いちばん賢しい虫といちばん愚かな人の間にだって必ず線は引かれているか。じゃあそこまで似てないね。
でもわたしからすれば似てることに変わりはないから、やっぱり同じくらい心象は掴めなかった。だから推量し放題ってこと。
同じ言葉を使う分、些か人間のほうが
遍く世のどこかには
まあ勝つだけの賭け事に張り合いなんて塵ひとつもありませんし、よしんば塵が数粒そこにあるとして、それはハートか何かのエースが叩きつけられる前に卓の外へと散り散りになるような気がしますけどね。
そもそんな俗な遊びからは足を洗って久しいだろうから、こんな提案は不敬極まるものなんだろうな、なんて。
せっせと憩いを隅にも置かないで働き続ける蟻を見て、琥珀の中にいる数千年前の彼彼女らと何ら変わりのないフォルムが愛おしくなった。人はあれだけ移ろうのに、きみたちの生は静謐だね。わたしはきっと、本質的にはきみたちに近しいよ。
「紺原ちゃん! もしかして退屈させちゃった?」
「えー、どうなんでしょうね。まあ今こうやって蟻を見てるってことはそうなんですかね?」
「ふふ……正直。正直すぎるよ! そこまで正直なのは失礼通り越してちょっと面白いと思うなあ、私!」
通り越したのはいいとして、これは失礼に値する行動なのか、と何かが心象の水潦に数滴垂らされた気分になる。それを攪拌するように溶けば多分、わたしっていう透明の1パーセントにも満たない濃度になって二目見る頃にはもう分からなくなりそうだから、多分攪拌しないで今直視することが必要になると思った。
でも億劫だなあ、どうにもそれが喫緊の用件とは思えないもの。飲み干した後、数滴のコーラに濡れたコップに1杯ぶんの水を注いだものを〝薄めたコーラ〟とは言えないでしょ。
水として錠剤か何かを流すために気にせず飲んで、それでお終い。
思慮ってどこに売ってるんでしょうね、郊外から更に遠のいた
「お待たせ。……まあ随分熱心に雑草を眺めてたな」
「意外と面白いんですよ。雑草と、そしてそこに集る虫。切った爪の先と同じかそれより小さいのに、そんなでも生を生きるために食べて、また次の食べ物がある所へと
「……虫と一体何を競ってるんだアンタは」
「あ、もしかしなくても『退屈』の原点ってそこだよね、かの著名な藍色いずみ先生!」
「あー、そういえば」
3年前の、今より少し前の時期。秋口だったかな。
公園のベンチに横たわるみたいに微睡んでうたた寝に興じていた時に、何だかわたしは虫に扮した心地に浸れる白昼夢を見た。
子孫を遺すことに興味のない理性的な個体であったがために、その生は果たして無為で、
その釣り合いのとれない、天秤の上でたたらを踏んでいるような生き様が、見世物として面白かったから書いた。わたしは蛾の成体に扮するわたしを俯瞰して、いたって本能のままに、殴るように『退屈』を書いたという
そんな、ありもしない虫の気持ちを身勝手にしたためた作品。結局それも満足に慮れているかなど分からないし、分かり得ないものだから、わたしは最早虫に寄っているかどうかも怪しいというもので。
これは驕傲なのだろうか。けれども虫と同じところにカテゴライズされることはあまり心を満たしてくれるような気がしない。わたしの中って、虫のそれとか人間のあれこれを注ぎ入れるスペースが残っていないんだよね。増築したら、したそばから新しく生まれたわたしの世界の住人や建物たちで埋まっていくもの。
ああ、でも。唯一は昨日、もう
「あ、そういえば買い物ってもう済みました? じゃあ帰りますか」
「ううん、まだ帰れないよ。綺依ちゃんから言われたこと、忘れちゃったのかな?」
「……あー、そうですね。仲良くならないと。じゃあ、えーと。敬語とか取っ払えばいい? こんな感じでさ。明日もどこかに出掛けよっか、行けたら行くからとりあえず9時過ぎくらいに〈いぬき〉の前で落ち合おー」
「……そういう額面上のじゃなくてだな。まあ俺だって大したアドバイスができるわけじゃないんだが……多分〝仲良し〟っていう曖昧な概念は一朝一夕で叶うものじゃない。だから本当に、河原は意地の悪い言い方をしたと思うよ」
「担当編集にみんな揃ってえんがちょされた紺原ちゃんなら、尚更ね!」
「えんがちょ……アンタ、前職で何があったんだ? というか藍色いずみといえば、まあそれなりに細々とは売れてた作家の名前だろ。それがどこをどう流れて、こんな小さな劇団に流れ着いたもんなのか……」
「犬木さんに誘われたんですよ。何だか物憂げな表情をしていたらしいんです。まあしてた自覚はありますよ、だってフリしてたんですから」
赤いインクを塗りたくった人の顔だって、解像度を落として遠目からみればリンゴと同じだ。少し霧吹きで水を掛けたら〝みずみずしい〟と囃されて、いよいよ判別がつかなくなる。
齧って軽快な音が鳴ればリンゴ。粘性で中まで赤いのが人間。身を齧られても文句ひとつ零さないのがリンゴ。抗議して痛みから泣き喚くのが人間。
憂愁と捉えられる相好を気まぐれで、それが普通だからと浮かべていたわたしを引いてしまうなんて、犬木さんはどうにも
大抵の場合、正当な手順を踏んだら補欠合格にも掛からないような存在だよ、
孕んじゃったプロットは十月十日を超えるまでに産んでおきたい作家と同じ。ああ、だから早くこの想いをしたためたい。
飯森さんとのお話を面と向かってできればそれで十分なのだから、今眼前にいるこの人たちに絆されたりすることや親睦を深めることなんて元より、わたしの眼中にないのに。
関心を持てない人たちを注ぐスペースなんてとうに無いんだよ。それに不自由もしないんだから、なんて叫び続けるにはわたしは大きくなりすぎたか。姿かたちはもう大人だもんなあ。子供らしさでできた吐瀉物を紙に捺して上梓するのが専らの当然になっていたから、わたしはどこかで拾うべき大人の切れ端を拾い忘れてしまったのかも。それも、一片たりとも。
大人という概念の枠組みがどれ程の大きさかも曖昧だし、それが何ピースでできているパズルかも分からない。そのピースの素材だって遠く理解に及ばないし、考えるだけ無駄だとも思う。〝無駄だって思うこと〟それ自体が、何だか子供の癇癪みたいにも思えた。
地団駄なんて踏まないけれど、でも確と遺憾を喉元に装填し終えた子供。それがわたしの中にいる。いなければ担当編集に愛想を尽かされることだっていたずらに起きる事象じゃないだろうし、果たしてわたしは稚いらしい。飯森さんとお話をするには、殻を破る必要があるのだろうか。いやでも、殻をひとつ破ったところで、中身がきちんと茹だって固まっていなければ、殻を伝った白身が地面をただ這うだけだ。
排水溝のほうへと流れて、広くて大きな海の一部と相成るだけだ。わたしの思う〝子供〟とは、その白身が未だ固まっていない、固まるために熱湯にその身を擲って固める術を知らないか、或いはそれを恐れて踏み込めない意気地無しだ。
怖いのは別に平気だったから、多分わたしには前者が適当。熱湯って浸かってもいいんだね。大人になるには浸からなきゃいけないんだね。セルシウスさんの仰る四十度そこらの温度でしか湯船を満たしたことがないから、それだってわたしからすれば晴れ空から劈いた霹靂だよ。今みたいな空の下ね。
あ、でも今朝は鈍色に曇っていたから〝霽れ〟のほうが語弊がないね、失敬。
然して、知らないことに気づけるわたしは、きっと誰に教わらなくとも直角を見据える斜辺の長さを割り出せただろうね。多分、公園の土に死んだ梢で掌編を書く片手間で。
蛙鳴蝉噪という言葉が言い得て妙の脳内会議のそれぞれは、ごく偶にこうやって有益な議題を呈してくれる。賢しいね。空しいだけで終わらなくて、すごくすごく愛おしいや。
「……ああ。まあでも、何だか犬木さんがアンタを誘ったのは正しいと思うよ。偶然じゃなくてきっと必然だ。あの人が善意なのか計略なのかで連れ込む人たちは決まって、歩きたい人間なんだ」
「演劇って、座って鑑賞するものじゃないです?」
「はは……まあそうかもな。でも、多分アンタもお行儀よく座っていられると思った観劇の中で、何回かは〝もっと近くで観たい〟って前傾姿勢になってたはずだ。足に枷を掛けられた奴が〝その枷を千切れるかも〟なんて薄い可能性に賭けて前のめりになるみたいな。事実、アンタは終幕の後に早歩きで楽屋までやってきたろ。飯森雪って脚本家の作品はどうにも、決まってそう人を歩かせる。……と、悪い。アンタに例え話は悪手だったか?」
「歩かせる……」
わたしはずっと、ペースを守って歩く、もとい走る、絶えず前身する有機体であるのだから……なんて無粋は側溝に投げて、流れる水に
昨日、逸るみたいな足取りで飯森雪という劇作家を一目したくて楽屋のほうへと赴いたことは列記とした事実なのだから。
〝歩かせる〟とはどうにも、まさに言い得て妙と評して差し支えないだろう。わたしは演劇にきわめて暗いほうだけれど、物語には自負がある。箔の振られた功績のような煌めくものも持ち合わせてる。
それなのに、大好きなそれらを抱きしめて寝ることにだって一切の
けれど、一縷の痕ものこさずに癒える傷などそう滅多にあるものではないのだから、この深く根付いたリヒテンベルク図形をきっぱり忘れて日々の営みは送れない。
そうだ、あれを見たわたしはきっと〝いい勝負〟なんて、本当は。本当は微塵も──。
「紺原ちゃん?」
「……あ、はい。すみません上の空で。何です?」
「戎過言の秘密エピソードを話したげよ〜、て思って! 綺依ちゃんに『仲良くしなさい』って言われたじゃん? 赤裸々に己を話し合うことこそ、仲良しこよしな友達への第一歩だとは思わない?」
「あー。そう、なんですかね。でも何となく、行き道でそういう話はしましたよね? 高校では生徒会長を務めただとか、大学では文芸部に所属して、けれどもそこでの不和が原因で一時期、抑うつ気分を味わっていただとか」
「お、憶えてくれてた! 話半分に聞いてるのかと思ってたけど、案外ちゃんと聞いてくれてるみたいで過言お姉さんは安心だよ!」
高いところでひとつに結わえられたカシスピンクの長髪をはためかせるようにして、わたしと較べておおよそ頭ひとつ分くらい上背があったはずの体格のいいひとは、きわめて享楽の渦中にいるようにからりと笑うもの。
何だかやっぱりそのかんばせと体躯には、親戚の従姉を偲ばせる余裕が時計回りに廻り続けているような。眺めているだけでわたしとの時間はひらいてゆきそうな気がするのに、それにどうにも抵抗するだけの気力を唯のひとつも湧かせない。
どうせ嚮導に殉じてくれるんだからナビのひとつもしなくていいや、っていう、責任に対する
ちょっと歩けば舞い散る花粉も違うもの。鼻がむず痒くてくしゃみをひとつ。目鼻の先にいた戎さんにも、逸らしきれずに少しかかってしまった気がする。
けれども彼女は嫌な顔ひとつせず。それはその隣にいる大音さんも同じで、わたしは屈んでいた脚を縦に伸ばすようにして立ち上がり、おおよそ頭ひとつ分と、大音さんはもう少し高いか。そのくらいの2人に、初めてきちんと目を合わせた気がした。
「……あの。わたしがあなた方2人と仲良くなることで、飯森さん……雪ちゃんと会話する機会に漕ぎ着けることはできますか。それが知りたいです。算盤勘定甚だしいですが、わたしはあの子とたくさんお話がしたいんです。だから、お願いします。教えてください」
「うーん、そうだなあ。雪なら雑草じゃなくて、無数に伸びていく枝先に
「……はい? え、あ、はい。そうですか」
見当違いな言葉の尾っぽが掴みきれなくて、壁と壁の隙間に逃げ込んでいった。もう少し心象理解に長じていれば掴めただろうか。
それとも、掴んだとてトカゲのように切り離せて、煙に巻かれる始末だろうか。
「……そうだな。雪なら、もう少し人熱れのある場所を見ながら、行き交う人たちに思いを馳せてネタ出しを楽しむんじゃないか?」
「あ、はい。うん? えーと、雪ちゃんと仲良くなれるかを訊いたはずなんですけど」
会話とはキャッチボールらしいけれど、急にこの人たちは暴投するようになったなあ。グローブのひとつも携えないで臨むわたしも大概だけれど、明明後日を向いて投球するこの人たちも相当だ。
でも、何だかその二対の双眸は、明明後日を向いて投球してもなお、グローブもなく伽藍堂なわたしの両手に捕球をさせられるという自信があるみたいに綽々とした、明るげな表情でいた。
それは多分、歳下の親戚の今日を
「紺原ちゃん。話をしたい、仲良くなりたい人との間に、まず作るべきものは何だと思う?」
「……共通点、とかです? 人って確か、好きなものとか嫌いなもので会話を盛り上げるんですよね。歴代の担当編集がわたしの悪口で盛り上がってる様子くらい容易に想像できます。まあでも、私ごととなるとどうにも、あんまりしっくりこないですけど」
「そう、大正解! いやあ、すごく聡い子だね紺原ちゃんは!」
「……25にもなってそう言われるとは」
まるで、子供の身勝手な言い訳に在った一縷の正当性を重んじて二重丸を捺す両親か、或いは兄姉か。年齢差を鑑みれば後者が正しくあると思う。続けて、同い歳と言っていた大音さんも斯様に述べる。距離感を掴みあぐねがちなクラスメイトを諭すみたいに。
「雪は俺たちに、アンタよりは根っから気さくだ。ひと回り歳も離れてるわけだし、良いとこ末っ子気分で甘えてるんだろう。部外者にはとことん悪辣な言葉を使いがちだが、身内にはめっぽう甘いのが飯森雪という人間なんだ。だから、まずは雪と同じように、俺たちと気さくに話してみてくれ。話そうとしてみてくれ。そうすれば快方に赴くさ。綺依がアンタに投げつけた〝課題〟の正当解も、きっとコレのはずだ」
根っから気さく。掘り返しても気さくということ。埋まってる部分をあけすけに曝け出す、みたいな恥もへちまくれもない性分ではないものの、わたしは別段それを厭わない。
利己的なシミュレートに満ちたわたしの世界の管制室の
〝戎過言〟と〝大音樂〟
それにスペシャルサンクスとして、
〝犬木工〟と〝河原綺依〟
という名前たちが、確かに刷られている気がした。
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