第12話
夜は、こんなにも静かで冷たいものだっただろうか。
レジナルドは広すぎる寝室の真ん中で、ただ静かに座り込んでいた。窓の外には街の明かりが瞬いているのに、自分の世界だけが凍りついたようだった。
昔を思い出す。屋敷の自室で震えて眠る夜。子供だったレジナルドは毛布を三枚重ねても寒くて寒くて、泣きながら乳房を呼んだ。乳房は、「どうしました坊っちゃん」と頭を撫でるけど、寒さは和らがなかった。あの時は、夜が、冬が嫌いだった。悴む手が痛くて、震える体が重くて、縮む脳が苦しかった。
レジナルドは、使用人に紅茶を淹れさせた。本来なら、マリアが淹れたり、自分がマリアのために淹れたりするのに。
使用人の淹れるいつもと違う味の紅茶。いつもより香りが立っていてしっかり深みのある、言うならマリアより美味しい紅茶を飲んで、初めて涙が滲んだ。
一人でも大丈夫だと思って生きていた。でも、すっかり自分がマリアなしでは生きられない体になってると気がつくと胸が苦しかった。
さっきまで、警察が犯人探しのために事情聴取に来ていた。情けないくらい状況も手がかりも覚えてない自分に嫌気が差した。警察も、心配そうにレジナルドの肩を撫でて帰って行った。
レジナルドはただ強く願う。早く、一秒でも早く、犯人が捕まりますようにと。
レジナルドは強く願う。早く、一秒でも早く、マリアの温もりを感じれますようにと。
病院には面会時間外で行けない。今のマリアがどんな顔をしているのか、どんな声で眠っているのか、それすら自分は知らない。それが堪らなく苦しい。知りたいのに。今すぐ駆けつけたいのに。彼女の髪を梳き、手を握り、背中を摩りたいのに。レジナルドは顔を覆い、指に落ちる熱に気づいて苦しく笑った。泣くことさえ、今は許されていない気がした。
若い看護師さんがいた。柔らかいチョコレートの髪をした、若くて可愛らしい看護師さん。その人はデイジーと言う名前で、本当にお花が咲いたみたいな笑顔を向けてくれる人。その人は、マリアを「マリーさん」と呼んだ。デイジーはフランス系の人らしく、マリアをマリーと呼ぶのが普通なのだとか。マリアは、その人が担当してくれる時だけよく笑った。それは、上辺だけの笑みではなく、心からの純粋の笑み。
「マリーさん!今日は天気がいいですよ!」
デイジーはカーテンを開いてマリアに言う。マリアはすっかり光に慣れなくなってしまった目をすぼめた。外は、白光りしていて青い青い空が広々と広がっていた。
「リハビリは何時から?」
マリアは笑って言う。すると、デイジーはすぐに「三時からです!」と答える。本来なら、看護師は一人一人のスケジュールなんて覚えていないけれど、マリアは毎日「今日はリハビリ何時から?」と尋ねてくるから看護師の間でマリアの予定だけは把握するように命令が出ていた。
「ねぇ?早くはできない?」
マリアがそう言えばデイジーはカルテを見て「うーん」と唸った後に言った。
「できますけれど、早く終わらせることになりますよ?」
「そうなの……」
マリアは焦っていた。一秒でも早く普通の生活をしようと。マリアは心配だった。レジナルドが家で震えてるのではないかと。
ふと思い出す。かつてのレジナルドを。結婚して初めての冬。すっかり衣替えをして暖炉を付け始めた頃。同じ部屋のレジナルドはぶるぶる震えて、死んだようにベッドで眠っていた。唇は真っ青で、顔は真っ白。触れてみれば冷たくて。あまりにも震えてるからマリアは恐る恐る彼を抱きしめてみた。すると、薄らとエメラルドが輝く。
「マリア」
と呼ぶ声がする。その時はまだ、マリアを愛称では呼んでいなくてお互いよそよそしかったが、これを機に二人は愛を強めた。毎晩、抱きしめ合って眠って、共に目覚めて。
マリアが、レジナルドを悪戯で「レジー」と呼ぶようになると、レジナルドはマリアを「マリー」と悪戯に呼ぶようになった。だんだんそれが定着した。だからマリアはレジナルドの前では「マリー」で、レジナルドはマリアの前では「レジー」なのだった。
「マリーさん?」
マリアははっとする。遠い世界に意識を持っていかれていたようだ。デイジーは笑って「朝食にしましょう」と言うから、マリアは笑って頷いた。
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