第2話 王女の護衛、そして初めての侮蔑

アルトがリゼット王女の申し出を受け入れた夜、村は静寂に包まれた。

​翌朝、夜明け前の冷たい空気の中、アルトは村を後にした。村長と数名の村人が見送る中、彼の荷物は小さな革袋一つと、長年の鍛錬で手馴染んだ無骨な長剣だけだ。彼は家族に「少し長旅に出る」とだけ告げ、深く詮索させなかった。家族への別れは素っ気なかったが、彼の心には、決して戻らないかもしれないという微かな覚悟と、初めて抱く「他者のために剣を振るう」という使命感が渦巻いていた。

​馬車に乗り込むアルトを出迎えたのは、リゼット王女と、彼女の護衛を務める五人の騎士たちだった。騎士たちは全員が屈強な体躯を持ち、精巧な鎖帷子と磨き抜かれた剣を帯びていた。彼らの視線は、アルトに向けられると、一様に侮蔑と疑念の色を帯びた。

​「王女様、冗談では済まされません。このような田舎の若造を護衛に加えるなど…」

​護衛隊のリーダー格、ガリアスという名の騎士が、声を荒げた。彼は顎鬚をたくわえた厳つい顔立ちで、アルトを一瞥すると、露骨に鼻を鳴らした。

​リゼットは毅然として答えた。「ガリアス、失礼ですよ。私はこの村でアルト様の戦いぶりをこの目で見た。彼の力は、あなた方騎士団の中でも突出していると確信しています。異論は聞きません。」

​リゼットの強い意志に、ガリアスはそれ以上何も言えなかったが、アルトを見る視線はさらに冷たくなった。アルトは無言で馬車の後部座席に腰を下ろした。彼にとって、他人の感情など取るに足らないものだった。彼が唯一気にするのは、泉の秘密であり、己の強さの維持だけ。ガリアスたちの疑念や侮蔑は、アルトの心には、遠吠えのように虚しく響くだけだった。彼は、自分の強さが、彼らの態度を黙らせることを知っていた。

​旅は、王都に向けて東へ進んだ。嘆きの森を離れると、道は整備された街道に変わり、人の往来も増えていく。道中、リゼットはアルトに熱心に語りかけた。国の現状、王都の貴族たちの腐敗、そして彼女が描く未来の理想。

​「アルト様、あなたの強さは、私の理想を実現するための希望です。私は、騎士団の古い慣習や、貴族の血筋といった『枠』に囚われずに、真に力のある者、真に志のある者を登用したいのです。」

​リゼットの言葉は、まるで彼女自身が『停滞した世界の向こう』を見ようとしているかのようだった。そのひたむきな情熱に、アルトの閉ざされた心は、微かに、本当に微かに動いた。彼の人生は常に孤独だったが、リゼットは彼を「特別」として扱い、その力を必要としてくれた。その事実に、アルトは初めて「他者との繋がり」という、新しい価値を見出し始めた。

​しかし、騎士たちの態度は硬かった。特にガリアスは、ことあるごとにアルトに嫌味を言った。

​「アルト殿、王女様の護衛とは、剣技だけでは務まりませんぞ。宮廷の礼儀作法、貴族間の力関係、そういった『常識』を知らぬ者は、かえって王女様の足を引っ張る。」

​アルトは馬車の中でただ静かに目を閉じていた。彼にとって、宮廷の礼儀作法など、魔獣の咆哮よりも意味のない雑音だった。彼の強さは、常識の外にある。彼が知っているルールはただ一つ。「剣の力」だけだ。

​その日の夕刻、街道沿いの小さな宿場町に着く手前で、事件は起こった。

​街道に突如、五体のグリフォンが出現したのだ。彼らは翼を広げ、鋭い爪と嘴で馬車を襲おうと、上空から急降下してきた。

​「構えろ!馬車を守れ!」ガリアスが剣を引き抜き、鋭く叫んだ。

​騎士たちは連携を取り、素早く防御陣形を組む。グリフォンは強力な魔獣であり、五体もの相手では、騎士団の精鋭でも犠牲は免れない。騎士たちの顔には、明確な焦燥と緊張が浮かんでいた。

​その時、アルトは動いた。

​彼は、馬車から飛び出すと、一瞬のためらいもなく、その場に留まるよう命じたリゼットの声も無視して、グリフォンの一群に向かって走り出した。

​「馬鹿者!無謀だ!」ガリアスがアルトの背中に向かって叫ぶ。騎士たち全員が、アルトを「無知な死に急ぎ野郎」と確信した瞬間だった。

​アルトは、騎士たちの剣が届かない、グリフォンの真下へ潜り込んだ。一頭が鋭い爪を振り下ろす。アルトはそれを紙一重で避け、その勢いのまま、地面を蹴り上げ、跳躍した。彼の肉体は、泉の力で幾度となく極限まで酷使され、人間が持ち得る限界をとうに超えていた。

​「ハアッ!」

​アルトは一閃した。剣は、通常では考えられない速度で振り抜かれ、一頭のグリフォンの翼の付け根、最も強靭な骨の接続部分を、まるで薄い紙を裂くかのように切り裂いた。

​翼を失ったグリフォンは、悲鳴を上げながら地面に墜落し、土煙を上げた。騎士たちは、その一撃の「常識外れ」の威力に、目を剥いて立ち尽くした。

​しかし、アルトは立ち止まらない。彼は地面に落ちる前に、別のグリフォンの胴体に着地し、その反動を利用して、さらに上空へと飛び上がった。

​彼の脳内には、「泉の水を飲んだ後の、体中に熱が巡る感覚」が蘇っていた。あの時、彼はどんな無茶をしても治るという確信があった。その確信こそが、彼の力を裏打ちする「絶対的な自信」となり、彼の剣に迷いをなくしていた。

​残りの四頭のグリフォンが、アルトを囲むように飛び回る。アルトは剣を握り締め、彼らを迎え撃った。彼の動きは無駄がなく、流れるようだった。剣は、風を切る音しか立てず、次に聞こえるのは、グリフォンの骨が砕ける、鈍く重い音だけだった。

​一分も経たないうちに、五頭のグリフォンは全て、街道に血を流して倒れていた。アルトは、血に濡れた剣を肩に担ぎ、何事もなかったかのように、静かに馬車の方へ歩いて戻った。

​騎士たちは、沈黙していた。彼らの目には、もはや侮蔑の色はない。あるのは、恐怖と、自分たちが信じてきた騎士道の『常識』が、音を立てて崩壊していくのを見せられた、途方もない驚愕だけだった。ガリアスは、自分の剣を握る手が、微かに震えているのを感じた。

​馬車の窓が開いた。リゼット王女が、その光景を全て見ていた。

​彼女の顔には、恐怖はなかった。あるのは、彼の力が「本物」だと確信した、強い輝きだった。

​「アルト様……」リゼットは息を飲んだ。「これほどの力を持つ方が、この世界に存在していたとは。私は、貴方を信じて正解でした。」

​彼女の真っ直ぐな称賛の言葉が、アルトの心に、初めての「満たされる感覚」をもたらした。これまで、彼の強さは自己満足のためだけにあった。だが、今、彼の力は、彼を必要とする他者の「希望」となったのだ。

​ガリアスは、剣を鞘に納め、アルトに向かって歩み寄った。そして、深く、頭を下げた。

​「…アルト殿。我々が、あなたの力を測りかねていた。心よりお詫び申し上げます。あなたの剣技は、我々の常識を超えている。これより、我々はあなたを王女様の『最も頼れる盾』として認めよう。」

​騎士たちの視線は、尊敬と畏敬に変わっていた。アルトは、無言で彼らの前に立ち、剣の血を拭うと、再び馬車に乗り込んだ。

​旅は続く。アルトは馬車の中で、リゼットの隣に座った。リゼットは、アルトの手を取り、感謝を伝えた。その温かい手の感触が、アルトの心に、「この力を、この温かさを守るために使おう」という、明確な意志を刻み込んだ。

​彼が王都に着くまでに、この剣を振るう機会は、これから幾度となく訪れるだろう。そして、アルトの「不死の剣聖」としての伝説が、ここから始まろうとしていた。

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