二・二二


    二・二二


 描かなければならない、そう思った。あの日の数週間後の昼下がり、僕はサークルの部室に来ていた。芹野とお台場に行ったあの日の翌日から、殆ど毎日のように部室に通った。絵を完成させるためであった。年末年始は部室のある別棟は開いていなかった。なので、その際は家で構想を練った。クリスマスも、正月も、僕には殆ど関係なかった。そうして、なんとかして、今日まで描き続けた。

 いや、有り体に言ってしまえば、塔の絵は既にできているのだ。伸びきった前髪が邪魔で、それを流して横に遣る。我ながら悪くない出来だ。斜塔と、清廉な花。そして、全体を覆う月白色の靄。上手くできた構図だ、と感心する。眼前の油彩画は、過去に展示されていた芹野のそれとは異なるだろうけれど、まるで、僕の頭にあるものをそのまま出力したかのようだった。それだけ印象的だった。

 しかし何か足りない気がして、僕は思い当たる。絵の中心。塔の窓の部分に空く、黒い空間。そこに描くべきモチーフがあった。僕はパレットにチタニウムホワイトの絵具を乗せて、絵筆を執った。


 その日の夜、僕は芹野に連絡をした。絵が実質的に完成したこと。部室に置いたままにして乾かしていること。いずれ山吹が取りに来るだろうから、見るなら早めに見て欲しいこと。……絵が山吹の元に渡ることは、事前に彼女に話していた。隠すことでもなかったし、お台場での飲みの席で話したのだ。その話をした際、芹野は微妙な表情を僕に向けたが、穂波はどこか納得したような様子でいた。念のため、新勧に出す絵とその絵とは別物であることを穂波に伝えると、彼はそんなことはわかっていると言わんばかりの返事をした。——そんなこんなで、僕の連絡に対して、芹野はすぐに返事をしてくれた。「明日見に行く」と言う、端的な返事だった。しかし、それはいくらなんでも早過ぎると思い、僕は当惑してしまう。あのイーゼルスタンドには紙の札を貼り付けているのだ。そしてその札には、「ポストラプンツェル」という題の記載がある。僕は気恥ずかしくなる。「ラプンツェル」の題を知っているのは、春にはもういなくなる山吹と、絵を描いた芹野自身、あとはまあ、あっても穂波ぐらいのものだろう。今の二年に、あの絵を記憶している者が多くいるとは思えなかった。そもそも、誰が知っているとかは関係なく、あくまで僕自身への印象付けとしてその題を仮置きしておいたのだ。その方が描きやすいと感じたから。次の日にでも剥がしに行こうか、と、曖昧にもそう思っていたのだけれど、早く行かなければ芹野本人に見られてしまう。彼女に見られてしまうのが、一番、僕の自意識にとって危険だと感じた。


 その次の日、僕は朝起きるのが酷く辛くて、寝坊で二限の講義を欠席した。できることなら昼前に部室に寄りたかったのだが、時間的にそれは叶わなかった。僕は結局日雇いも入れずに絵を描き続けていて、手持ちが大分少なかったので、昼食を家で済ませていた。三限の前に部室に向かうと、イーゼルに付けていたはずの札がそこになかった。僕自身が無意識に外して塵にしていたのだろうか? そう思い記憶を辿るが、やはりと言うべきか、思い当たる節はなかった。デスクの上や床の上を探しても見当たらなかった。まあ、芹野の目に触れないのなら願ったり叶ったりだ。僕は部室を出て、階段を下り、警備員に鍵を返却して講義に向かった。


 更にその数日後、僕は新たな油彩画を描き始めた。その油彩画とは、あのスケッチブックにデッサンしたものと同じ、塔の絵だった。絵の構図は決まっている。芹野の絵とは違う、ポピーの群生。煉瓦作りの真っすぐな塔。そして、その周りを散る羽根。それだけだ。たったそれだけのモチーフだ。僕はもう、あの少女を傍観できない。僕はもう、あの少女を描くことができない。いや、実際のところは描けるのだろう。以前よりも緻密に、正確に、そして何より印象的に。僕には少女を描き起こせる自信がある。だからこそだ。だからこそ必要がないし、描くことはない。それは、過去を保存したいだとか、過去を偽物にしたくないだとか、そういうことではない。そういうことではなく、彼女のことをただ俯瞰したくないのだ。僕はずっと傍観してきた。絵にして、それを傍観してきた。その事実だけ置いて、僕は先へと進みたい。僕が俯瞰によって、知性や想像力によって理解したいのは、ではない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る