二・一六
二・一六
僕らはベローチェを出ると、JR大崎駅まで歩き、そこからりんかい線に乗車した。お台場方面へ向かうようだった。お台場で海と聞いてもそこまでしっくりと来なかったが、かなり前に行ったときに、観覧車があるのを見た覚えがあった。それにでも乗れば東京湾が見渡せるのかもしれない。
電車の中で、僕らは美術サークルのことについて話した。僕らの実質的な引退が近いこと。活動中に碌な絵を描けなかったこと。役職に就いた一年間、発展はなく、大きな衰退もなかったこと。ゆっくりと、しかし確かに空気感が変わっていること。油彩や水彩やデッサンが減って、イラスト主体の団体になっていること。そのことが悪いというわけではないこと。しかし、寂しくないわけでもないこと。——僕は芹野の絵を描くことについて中々切り出せずにいた。
東京テレポートと言う駅で僕らは降車した。時刻は十六時前だった。地下のホームからエスカレータで上り、改札階へと出る。機器にICカードを翳して改札を抜けると、導かれるままにB出口を目指して歩いた。更にエスカレータに乗り込んでから、体感で数十秒が経過してようやく、埋め立て地の地上に出ることができた。
芹野と僕はその間も喋っていた。春の新勧について。その前に役職の引き継ぎが待っていることについて。役職の候補について。ちょうど、地上の出入口の外に出たあたりで、次の会長は穂波にするつもりだと、芹野はそう言ってきた。僕はそこで、また一つ、言っていないことを思い出す。
「そう言えば、入院中に彼が面会に来たよ。病院の場所、芹野が教えてくれたって言ってた」
実際にあったことを伝える。僕は穂波にも、芹野にも感謝をしないといけない。授かりを受けて、施しを与えないわけにはいかない。貸し借りだとか、ギブ・アンド・テイクだとか、そんな定量的な考え以前に、近くまで来てくれたことに対して応えるべきなのだ。きっと、そうでなければ、関わりは築けない。
「あぁ。入院してることを伝えたら、向こうから病院を教えて欲しいって言ってきたんだよ? 意外といいヤツだよねぇ。あのセンパイには勿体ないのかも」
そうだったのか。それなら余計に感謝する必要がある。彼の善意は彼にとって特別なものではなく、そうするのが当然なのだと思っていて、ただ来てくれたのだとしても。……と、気に掛かる、芹野の言葉尻を捉える。
「あの先輩?」
大学内に、彼と深く関係している先輩がいる? 僕は疑問に思って聞き返すと、芹野はどこか引き攣った顔をしていた。自分から言ったことなのに、それに対して呆れているようにも、はたまた怒っているようにも見える。
「……聞かなかったことにして。これ、言っちゃいけないやつだから」
「あ、はい」
まあ、誰にだって秘密はあるんだろうし、詮索すべきではないのだろう。第一、同級生の知り合いすら数えるほどしかいない僕に、先輩とか後輩とかの関係なんて、どこかで耳にでもしなければわかるわけがない。どんなに察しが良かったとしても、そもそも人を知らないのだからわかりえない。
「……あれ、ここら辺って、観覧車なかったっけ?」
ふと疑問に思い、独り言のように言ったが、吹き曝しの地に風が吹き付けて、その声は搔き消される。自分の耳ですら、自分の発した声が上手く読み取れなかった。だが、芹野は背中をピクリと動かし、反応して見せた。
「……何? カラオケ?」
しかし、やはりちゃんと伝わってはいなかったようだ。僕は少し声量を上げ、言い直す。
「観覧車だよ。あれ? 僕の記憶違いかな……有名じゃなかったっけ」
おかしいな、と思う。なかったのだろうか。もしかして僕が想像していたのは横浜の方か? いや、お台場にあったはずだ。けれど横浜の……そう、みなとみらい。あそこにだって観覧車はある。じゃあ本当に記憶違いか? お台場なんて、趣味以外の目的で来ることがまずないし、かなりの昔、僕が生まれる前後に放映していた刑事ドラマの舞台になっていたぐらいのイメージしかない。あまり詳しくないのだ。
「あー、アレね。なくなってからもう結構経つよ? ……この歳で時代に置いて行かれてるの?」
知らなかった。衝撃的だ。お台場と言えば、テレビ会社とか、ちょっと歩けばビッグサイトとかがあって、新しいショッピングモールも出来ていて、そして観覧車もあるものだと思っていた。やはりわざわざ観覧車に乗る目的でお台場まで来たりはしないし、殆どが日常とは無縁なものだけれど、シンボルとして、あれは残り続けるものだと勝手に思っていた。
「あそこの下にライブハウスがあってさ、コロナ前は良く行ってたんだよね。私、K-POP以外に、バンドとか結構追ってたの。懐かしいなぁー。物販とか高校の友達と良く並んでたわ。まぁ、それももうなくなっちゃって、今じゃあダイバーシティの方だけになったんだけど」
芹野は一人、どこか感傷に浸った様子でいる。彼女にとってこの辺りは馴染み深い場所のようだった。きっと、あのパンデミックが起きて、中々ライブにも行き辛くなっていたのだろう。もしかするとあの観覧車も、芹野の言うライブハウスも、その影響で潰れたのかもしれない。反面、巣ごもり消費なんてものが流行り、ネット配信とかVTuberとかが流行したのだろう。時流、廃絶。それらと関係しているはずの自我は、しかし時を過ごす中で、あまりにも分岐して、分裂してしまったように感じる。孤立して使いものにならなくなった過去が、ふとしたときに目を覚ます。それに気付かない振りをしながら、大きな波の中で、どうしてか僕らは生かされている。そして確実に、僕らは死へと向かっている。
けれども僕は、ふとしたときに、そういうことの全てが酷くどうでもいいことなんじゃないかと思えてしまう。
「……ホント、失ったものばっか」
吐く息が仄かに白い。芹野はショッピングモールが見たいと言った。ともすれば仮設で置いてあるだけのようにも見える、安っぽい雨よけ屋根のある歩道を行き、駅から見て西側に位置する四角いモールへと僕らは向かう。最初は海が見たいと言っていたはずなのだが。……芹野の目的は良くわからない。気持ちに嘘を吐いてはいないのだろうが、無意識にそこから遠のいて行くようであった。しかしそのことをわざわざ咎めるのも、料簡が狭いと言うものだろう。
ぶらぶらとウィンドウショッピングをしながら、僕らはまた、サークルの今後について話した。穂波を会長に据えることを前提として、副会長や他の細かい役職についてまで、彼女は考えていた。六階の、行き止まりのような場所にあるゲームセンターに入ると、「まぁ、それは穂波くんとも話して決めることだけど」と言いながら、芹野は詰まらなさそうにクレーンゲームのお菓子の景品を眺めた。もし穂波が会長の職を辞退したとしても、彼女には違う候補の目処が付いているのだろう。間仕切りの向こう側にある景品の取り方を、僕は上手く想像することができなかった。
引き返して、吹き抜けの端の部分に設置されている、下りのエスカレーターに乗る。モール内はクリスマスの雰囲気で満ち溢れていた。そうだ。もう一週間もしない内にクリスマスがやってくるし、もう二週間もしない内に、今年は終わるのだ。吹き抜けの周りに位置する店を見回しながら、僕らは三階まで下った。道なりに歩いていると、正面にずっと歩いたところの他に、左手前に出口があるようだった。
「フェスティバル広場?」
頭上にある案内を見て、僕はそこに書かれている文字を読み上げる。大仰な名前だ、と思った。正面奥に歩いて行けば台場駅方面に出られるようであったが、お台場に来てから一時間ぐらいしか経っていないし、駅の方面に出て帰路に就くには、未だ早いのではないかと思った。それに、もし帰るならさっきの駅から帰りたい。まあ、大学に戻るのではなく埼玉の家に帰るんだから、ゆりかもめでも良いのだが。
「あぁ、確かそこを出るとガンダムがあるよ。行ってみる?」
あれか、と思った。遠い昔——あれは確か小学校高学年の頃だったと思う——両親に連れられてこの辺りに遊びに来たときに、ガンダムが立っているのを見た覚えがある。あれが未だあるということに少し驚き、ちょっと興味本位で見てみたいと思った。
「折角だし見て行こうかな」
小さなゲートを抜けると、つんと冷たい空気が頬に当たる。右手には階段があった。下に行くに連れて横幅が広がって行く、大きな階段だった。辺りは既に暗く、階段はそれ自体がイルミネーションになっていた。段々の縁の部分にLEDライトが施されているようだった。その先に立っているガンダムの像もまたライトアップされているし、どこからか壮大なBGMが流れている。今日一日だけでも、もの凄い額の電気代が掛かっていそうだ。
「なんか、圧倒されるよね」
等身大のガンダムの立像は、僕が昔見たものから変わっていた。今展示されているのはユニコーンガンダムの像らしかった。時間帯によって像が変形するようで、このときは赤色や緑色に光っていた。その光が、どの時間のどの場所と繋がっているのか、僕には理解することができなかった。立像の更に向こう側には広場があるようだった。日進月歩、都市開発は進んでいるし、未だ進んでいない箇所もきっと残されている。僕が知らない間にも、人の営みはなされている。そのことに、なんだか酷く寂しさを感じる。
ライトアップを見るだけ見て、僕らはモールの外周を歩いた。その角を曲がるとき、芹野が「ここ」と言ったので、僕は彼女の方を見た。刹那、びゅう、と風が吹き抜ける。首筋から全身に震えが伝わる。
「……さっき言ってたライブハウス。箱がデカくて、有名」
断続的に風の音がしたが、芹野の声は澄んでいて、聞き取ることができた。僕は「そうなんだ」と言ってから、何か他に言葉を探そうとした。けれど中々見つからなかった。あまり興味のないものに対して、何かの要素を見出して訊ねるには、想像力を必要とする。なんでも良いから訊ねれば良いのだろうけど、きっと本当になんでも良いわけではない。それってどのくらい有名なの? ……そう聞いてみたところで、彼女にはきっと何も得るものがない。僕が知らなかったからと言って、世間的に有名だと言う事実は変わらない。良く来るの? ……そう聞いてみたって、僕が得られる情報は、きっと限られたものだろう。
だが、それなら聞いてみても良いのではないか。僕にとって得るものがなくても、もしかしたら、彼女は話したいかもしれない。こうして迷うぐらいなら、声にしてみても良いのではないか。
「良く来るの?」
芹野の髪が、白いダウンジャケット越しに、軽く靡いているのが見える。随分短いようにも、そうでもないようにも見えるそれは、ただ明確に以前の形とは違っていた。初めて会った頃の長い髪とも、少し前までのウルフカットとも違う。今だって、似合っているとは思うけど、そこには寂しさがある。
「あぁ……来るってよりは、来た、かな」
彼女は歩を進める。その表情を、僕に見せてはくれなかった。彼女は別に、僕と話したいわけではないのかもしれなかった。
ずっと直進して行くと、ゆりかもめの高架があって、右手にはテレビ会社の建物があった。鉄の塊のようにも見えるそれを横目に通り過ぎると、広いプロムナードに出た。その右手にはまた商業施設があった。来た駅からは、随分と離れてしまったように思える。突き当たりと思われるところまで歩いて行くと、そこは港を遊覧できる半円形の展望デッキだった。デッキの中心は大きな空洞になっていて、下へと降りるための階段があった。海を挟んだ向こう側は東京の沿岸部で、かの有名なレインボーブリッジが煌々とライトアップされていた。デッキ上には何組かのパートナーが殆ど等間隔に立ち並んでいた。どうやらここは、あからさまにそういう場所のようだった。やめて欲しかった。早くここから立ち退きたかった。
きょろきょろと辺りを見回していると、デッキの右側に、木製の床材が使われた細い通路があるのを見つけた。ずっと煉瓦模様のデッキの上を歩いてきたのに、そこだけはウッドデッキになっているようだった。「こっちはどうなってるんだろう」と芹野に聞いてみる。カップル塗れのところで立ち止まっていたくはなかった。芹野は「わかんない」とだけ言って、逡巡するような様子を見せる。僕は「ちょっと行ってみようよ」と言って、歩を進めた。彼女は黙ってそれに付いてきた。
通路は途中からなだらかな傾斜になっていて、ずっと行けば下の道に降りられるようだった。ウッドデッキと言うよりは、たんなる木製の歩道橋のようだった。すぐ左手には自由の女神像が立っていた。それは小さくはなかったし、存在感も強かったが、先程のガンダムと比べればさほど大きいようにも思えなかった。通路の途中には円形のスペースがあり、その中心には、床面と同じ材質をした、昔に流行ったハンドスピナーのような形状のベンチが設置されていた。何故だかそこには人が一人もいなかった。偶々だろうか、と思う。どうあれ座れるのなら座りたい。歩き疲れたし、ちょうど、そこからなら海も見える。
「ここ、座れそうだけど、寒くない?」
一応聞くが、今は寒さよりも座りたさの方が勝っている。ローヒールを履いている芹野も、きっと座りたいに違いないと思った。喫茶店を探しても良いのかもしれないけれど、今日は既に一度行っていたし、夕飯に誘って良いものかもわかりかねた。
「オッケー、ここね」
何やらスマホを弄りながら、芹野は小さくそう言った。彼女のそれは、僕が使っているiPhoneよりも新しい機種だった。許して貰えたようだったので、僕は遠慮なく座り込む。程なくして芹野も隣に座る。適切な距離感がそこにはあった。……思えば、僕は奇妙な体験をしている。講義終わりに女子とお台場まで来て、特別何をするでもなく、こんな海辺のベンチに座っている。今朝、ベッドから出るときに、こんなことになるだなんて想像もしなかった。普段ならもう家に帰って、自分の部屋のそのベッドでiPhoneの画面を眺めていただろう。けれども、今、僕は外にいて、海を見ている。
「……で、私を描いてくれるって話は、どこに行ったの?」
芹野はいつの間にかiPhoneを仕舞っていて、ダウンの両側のポケットにそれぞれ手を入れながら訊ねてきた。海の向こうからの灯りのせいだろうか。普段から白い彼女の肌が、より青白く照っている。僕はそれを目にして、絵画のようだ、と思う。そうだ。そんな話がしたくて、こんなところにまで来てしまった。
「ああ、そうだね。それなんだけどさ」
早速言おうとするが、彼女の「待って、」と言う声に制されてしまう。
「まず、それを新勧で出すってわけじゃないよね? だったら、普通に嫌なんですけど」
僕は彼女の言動に納得する。そう言えば、そんな名目であの塔を描き始めたのだった。じとっとした目でこちらを見ている芹野に、僕は「違うよ」と返し、「それに、」と付け加える。
「僕は別に、君を描くって言ったわけじゃない」
ぼんやりと、正面の海を見て、そう口にする。仄暗い海を、都会の灯りが透かしていた。僕は、それになんの感傷も抱けずにいる。勘違いをされても困ると思った。しかし芹野には、言っている意味がわかりかねるようだった。まあ、普通に考えればそうか。隠すつもりはなかったが、僕の言葉足らずだ。
「芹野を絵にする、って言ったんだ。だから別に、君の肖像を描くわけじゃない」
屁理屈に思われるかもしれない。しかしながら、間違ったことは言っていない。作品と言うのは得てしてそう言うものだ。人間だろうと、それ以外のモチーフだろうと、何かメタファーとなる対象を用意して、その対象を写像とし、本来の像を投影する手法は、美術において頻繁に用いられる。ゴッホにとっての「ひまわり」のような何か。対象を探すのは容易ではないけれど、こと芹野に対してなら、何を用意すべきなのかを僕は知っている。それは僕の、主観的パースペクティブに根付いた像で、俯瞰して見れば適切な対象とは言えないのかもしれない。だが、このモラトリアムの終局、夢の終わりに描くべきものとして、その像は所を得るはずだ。
「面白いこと言うね、じゃあ、どう描くってわけ?」
左隣に座る彼女は、試すようにこちらを見つめている。僕はその向こうに位置する、女神像を見遣る。ライトアップされているその像は、多分、ニューヨークにある自由の女神のレプリカだ。造形はデフォルメがなされているかもしれないし、そうではないのかもしれない。輸入品のシンボルと、そこに投影されたいくつかの概念。
「僕はあの塔を、普遍にしたい」
息を吸う。一言一句、間違えないように。鼓動がする。僕は冷静でいる。浮付いた心は、冬の温かさによるものだ。精神の疾患なんてどうでもいい。この自意識だって今に捨て置いてやりたい。渦を巻くような頭上の月の、その月暈に覆われて、僕はぼやけた視界のまま気狂いになっているのだろうか。なら、狂い通してやればいい。
「芹野の塔を、僕に譲って欲しい」
言いきると、自律神経の乱れを感じた。鼓動はハッキリとした動悸になって、息を吐くことすらままならない。それでも、今、張らなきゃいけない何かがある。僕は集中して、呼吸を取り戻す。眼を閉じ、そして開く。正面に位置する橋の光源を見つめる。女神像の頂点を見つめる。頭上の星明かりは、人工の灯りに包まれた像すらも、きっと遍く照らしている。そして眼前の芹野も、その明かりに照らされている。彼女と目が合う。
「……はぁー、それをわざわざ言うために、ここまで来たんだ?」
彼女はこちらから目を逸らし、どこか遠くを見つめた。……呆れただろうか。これが僕の言いたかったことで、そして僕にしかできない表現だ。今、ここで、こう言ったことは、後にも先にもなかったことにはならない。
「……それ、告白としては下の下だからね」
芹野はゆっくりとこちらを向くと、真面目な顔をして、そんなことを言った。なんだそれ、と思う。
「なんだそれ、告白じゃない……。って言うか評価低過ぎ、下げ過ぎだろ」
言葉の合間、僕は強く息を吸い、吐き出した。冷たい空気が鼻腔を抜ける。冷静さは戻っている。良くわからない表現をする、芹野の真意を知りたくなる。
「そう。下げてるの。だって、譲るわけないし」
彼女はそう言って、僕の要求はあっけなく拒絶された。まあ、こうなることを予期してはいた。だから、なんで言ってしまったんだろう、と言う意識が浮かんでも、それに拘泥することはなかった。本人がそう言うのなら、あの塔は僕には譲られないし、僕がやろうとしていたことは無に帰す。振り出し以前の、何もない空間に散る。
「あのね、散々自由に盗んできておいて、それ言われる側の身にもなれって話よ。今更譲れとか、馬鹿なの?」
その言い分はもっともだろう。なんだか酷く重力を感じる。僕は素直に引き下がるべきだ。
芹野の塔はそもそも、彼女が山吹から譲り受けたモチーフだ。それをまた違う他人に譲るなんて、普通に考えたらちょっと無理な話だ。それに、仮に正式に譲り受けたところで、僕はあの塔を自分勝手な使い方で消費する。そのことは、きっと芹野からしても見え透いているのだろう。彼女は冷ややかな目で僕に問い掛ける。
「全然違う話だけどね、苅谷は男女の友情って成立すると思う? 私はあんまり思わないの」
本当に全然違う話だ。場にそぐわないことを言われた気がして、僕は思わず笑ってしまいそうになる。けれど、なんの意味もなく言ったわけではないのだろう。芹野のことなのだから、きっとそうだ。
「わかった。悪かった。……取り下げが許されるなら、さっきの言葉は取り下げるから。なしにしてくれ」
「そんなの無理に決まってるでしょ」
即答してくる。ひょっとすると逆鱗に触れてしまったのかもしれない。僕は俯く。俯いた先の、床面の木目を見る。踏み慣らされた板は、しかしどこもひび割れてはいないように見えた。そのことが酷く不思議に、同時に貴重なことのように思えた。ただ薄汚れて、黒いようにも白いようにも見える。結論を急いてはいけないのだと、そう思わせるかのように。
「……今からする話、誰にも言わないで欲しいの」
そう切り出した芹野は、僕と同じく俯いていた。風は、いつの間にか凪いでいた。海の向こうは煌々としているだろうし、頭上の空にはきっと星が瞬いている。それを見るまでもなく、僕らは等しく、俯いている。
「あと、重いやつだとか、思わないで欲しいの」
やけに長い前置きだ。聞きたくない気もしたが、聞くことによって彼女に与えられるものがあるのなら、僕は聞くべきだ。気狂いになっているのだとしても、自暴自棄になってはいない。それはきっと、彼女だってそうだ。
「思わない、と思う」
僕はそうやって曖昧に濁すが、その内に芹野は意を決したようだった。風はなくても、大気は冷たい。彼女は身を縮こませながら、ぼんやりと、眼前に広がった景観に目を遣る。
「私、彼氏がいたのね。……二年以上も前の話だけど。趣味が似ていたし、話も合った。それなりにしっかりしてるやつだったと思う。話が上手かったし、世渡りも上手かった。私よりも年上で、私よりも良い大学に行ってたし。彼の将来は殆ど約束されていたと言って良いんじゃないかと思う。私ってほら、リアリストと言うか、打算的なのよ。そういう人としか、多分付き合えない」
知ってるよ、と僕は言う。何一つ知ってはいないのに。
「で、まぁ……高二の終わりから付き合って、二年ぐらいしてからかな。事故で死んだ」
一つ、沈黙があった。
愕然とする。突然の重い言葉に、何を言って良いのかわからなかった。ドラマみたいだと、他人事のように思う自分を、今すぐにでも殴ってやりたいと思う。事故、事故、死。唐突な断絶に腹を抉られるような思いがして、なのに不快感だけは胃の中から込み上げる。車と接触したときの浮遊感を思い出す。アスファルトに打ち付けられたときの衝撃音を思い出す。殴れないのなら、今、呪ってやりたい。
「……事故って、」
そんな、簡単に。いや、簡単ではないのだろう。きっと。複雑で、重大な交錯によって、決定的な終わりへと導かれてしまったのだ。……それはしかし、当事者でない僕にはわかりえないことだ。どうあがいたって、その悲しみは、痛みは、僕にはわかりえない。
「苅谷は。君はまだ、ラッキーだったと思うよ。私も目の前で見たわけじゃないけどさ。彼のは、ちょっと、説明できないぐらいのものだから」
背を丸めながら、芹野はそう言った。僕は震えが収まらない。彼女に、そのことを、説明させるわけにはいかないと思った。けれど想像してしまう。もし自分がそうなっていたら? 少しでも運が悪かったら? あのときイヤホン越しに、誰かの声が届いてくれなかったら? 震えとは裏腹に、背筋は固まって動かない。僕は、怖い。怖くて、頭上を見ることもかなわない。沈黙が、冷たい大気と同居している。何も不自然なことはない。けれども、人の熱は、その同居をも分かつのだろう。
「私はね、受け入れてるの。受け入れてるのよ、無理矢理に。彼が急にいなくなったことも、彼を本心から好きだったことも。それなのに、何もできなかったことも。全部受け入れてる。そういうの全部、なかったことにできない。私は彼が好きだった。付き合ったきっかけは打算的でも、好きなことは嘘じゃなかった」
低く、確かで、強い声音だった。彼女は深く呼吸をしている。それはきっと海よりも深く、そして大気と共振していた。彼女の靴の、踵の部分が浮いている。ヒールがあると言うのに、それよりずっと上にまで、踵を浮かせている。それはまるで、何かの生き物が、飛び立つ前に行う動作のようであった。
「だからね、譲れない。譲れるわけがないの。この想いも、あのときに描いた絵も」
そうか。と独り言ちる。芹野はあの絵を……きっと己の人生の、少なくともその大事な部分を賭けて、描き上げたのだ。そんなものを人に譲るだなんて、それこそ一生を賭してもできるはずがない。彼女の痛みは、きっと彼女にしかわからない。少なくとも彼女は、そう決めきっている。だと言うのに、その痛みを経て、表現をして昇華させて。それが、僕なんかの目に留まった。留まってしまった。その絵はとても、美しかったから。
「ありがとね、」
背を丸めたままで、ゆるりとこちらに顔を向ける。冷えているであろう白い頬、張り付いた髪、整った顔立ち。逸れていた視線が、こちらへと向く。暗い夕暮れの中で、彼女の眼は確かに光彩を宿していた。
「こんなこと、聞いてくれて」
その綻んだ口元は、自嘲ではなく純粋な微笑みを意味していた。なんで、そんな顔で、そんなことを言うんだ。足のつま先が、凍えるほどに冷たい。だって言うのに、胸中が温かい。冬の温かさほど、良いものはないと思う。僕は、少しでも役に立てたのだろうか。それなら良かった。僕がここに来た意味はあった。
「僕は、その……」
言い淀んでいると、がやがやと騒ぐグループが通路を通って行った。この世の中は、僕の心境など差し置いて、捨て置いて、複雑に、かつ平然と回っている。僕には何も言うことはできない。目の前の夜景の眩しさに、文句の一つも言うことができない。都市の明かりも夜空の灯りも、等しく僕より美しく、きっと、何かの対象を俯瞰している。
星が瞬く。渦を巻く。影も役割もどうだっていい。過去にあったことは決してなくならない。人は時間が解決するとか言うけれど、それだけでは解決しないことが確かにある。僕は人の役になんて立てなくたって構わない。他人の利益のためと豪語して、自分の信じたものを消費するなんて、自己欺瞞だ。僕は美しさだけを見ていたい。けれど、それでも——、自身の抱えた命題を解決しようとせず、誰のためにも動かず。そんな傍観に、ただ甘えていたくはない。葛藤を超越した先にある、揺るぎのない何かが欲しい。この小宇宙を超えた、現状を打破する、何かが。
「僕には、何も、」
「……良い? 苅谷の絵は、苅谷の絵なの。苅谷のオリジナルなの。そのことは忘れないで」
諭すように、芹野は言う。真っすぐに、僕の目を貫いて。その眼の奥に見えた光彩の意味は、きっと信仰でも浪漫でもない。ただ、固く約束を誓うように、芹野は言う。
「……だから、そう。何を引用したって良い。それで描いた絵が偽物だなんて、私はそうは思わない」
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