二・〇二三
二・〇二三
山吹の言うカウンセリングとは、思考や行動に直接的に働き掛けるものであり、自律神経を治すという目的へと素直にアプローチするものであった。いくつかの手順を踏み、部室の中にある物体を見たり、文字を見たりと、眼球を動かすことを指示された。一つ一つの物事に集中し、その集中を切り替える、ということを何度かやった。交感神経を起こすための運動なのだろう。また、生活の中でのストレスの要因を紙に書き出して、それらについて多角的に、かつ深掘りをして考える、ということをやった。僕も以前から知っている認知行動療法と呼ばれるものだった。彼女は僕の抱えている問題に深入りはしなかったが、問題を解決する上でのいくつかの手段や、考え方を示した。基礎は学んだと豪語するだけあって、間違ったことは言わなかったし、やらなかったように思えた。もっとも、あまり関わりのない他人に対して、簡単にやるべきことではないと思うが。
「今やったことは、多少なりとも効果のあることだから。家で同じようなことをしても良いし、治りそうになかったら、ちゃんとしたカウンセリングを受けるのが良いよ。あと、薬を使うのは良いけど、それがないと動けないようになったら辛いと思うから、市販薬を服用するなら動悸が酷いときぐらいにした方が良い」
一般論を押し付けられたように思えたが、そのことは事実として正しいのだろう。カウンセリングは個人的な療養に過ぎないと思っていたが、意外にも学ぶことが多くあった。
「こんなところで、一旦は終わりかな。……忘れ物を取りに来たの、すっかり忘れてた」
いたたた、と言いながら、山吹は背伸びをして立ち上がり、窓の方へと歩いた。僕はその様子を見遣りながら、デスクの上に置いていたペットボトルの蓋を開け、中身を飲む。彼女は壁沿いを歩き回り、部屋の角で静止する。すると、棚の隅に置かれている星のマークが描かれた箱をおもむろに手に取った。
「それ、なんですか」
疑問に思って訊ねると、山吹は「あぁ、これ?」と言って、箱上部の蓋を持ち上げた。箱の中には白い包装紙があり、それを捲ると、暗い赤色のスニーカーが出てくる。この箱はどうやら靴箱だったみたいだ。そう言えばスニーカーの収集にハマっているといつか聞いたことがあった。あまり興味がなかったのでその時は聞き流したのだが、部室にまで持ち込んでいるのは良くわからない。彼女の顔を見ると、「えっ! 今日はスニーカーの話をして良いのか!」と言わんばかりの、嬉しそうな表情をしていた。別に、その話をして欲しいとは微塵も思わなかったが、色々と施しをいただいた手前、聞くぐらいなら甘んじて受け入れるしかない。
視線を下げて床に目を遣ると、嫌でも山吹の履いているスニーカーが目に入る。それはナイキの靴で、黄色と黒を基調とした、シルエットの大きなものだった。側面にはナイキのロゴの他に、どこかで見覚えのあるマークが刺繍されていて、何らかの限定品であることが伺える。そこら辺のABCマートとかで市販されているものではないのだろう。
僕の視線を意に介さず、山吹は手にしたスニーカーの説明を始める。
「これはねぇ、八〇年代中盤のコンバースで、デッドストック品なんだよ。ああ、デッドストックって言うのは、つまり当時売られずに倉庫に在庫として残っていた商品ってことで、なんでそんなのがここにあるのかと言うと、それはあたしが力を持っているからなんだよね。で、この赤い靴はオールスターって言うシリーズで、シグネチャーモデルの先駆けとも言われてる。ああ、シグネチャーって言うのは署名って意味で、まぁここでは有名人の名を冠したモデルって思って貰えば良いよ。アメリカの古いバスケットボール選手にチャールズ・H・テイラーさんって人がいて、ここのアンクルパッチに刻まれている‟Chuck Taylor‟の文字は彼の愛称から来てるの。まぁ有名な話だし、知ってる人も多いだろうけど。ただ、考えてみれば百年以上前に彼が着用して売り出したモデルが、現代まで続いているってことなんだよね。すごくない? これは八〇年代のものだから、靴の誕生から六〇年は経った頃のモデルなんだけど、現代からしたらヴィンテージ品で、状態次第ではあるけど結構な値段で取引されるんだ。そう、これはデッドストックって言うのもあって、目立つ汚れとか大きな傷とかアウトソールの擦り減りとかがないから相当なレア物ってわけ。しかもこれUSA製なんだよ。これがどれだけ貴重なものかって言うのは、今では海外のコンバース製品を日本に輸入することが禁止されていると言う事実を知っていればわかるんじゃないかな。この靴のインソールにはMAID IN U. S. A. って印字があるんだけど、これは昔のものだからこそ許されるのであって、現行で作られているアメリカ産のオールスターの輸入は法律的にアウトで、個人で持ち込もうとしても税関に没収されるんだよ。これはコンバースが二〇〇〇年代の頭に一度倒産してしまったことに端を発していて、アメリカのコンバースがナイキの傘下になって立て直したのとは別に、日本では伊藤忠商事が販売権を勝ち取ったからなの。それで、商社を親会社に持つコンバースジャパンは、アメリカのコンバースとは資本提携をしていない全くの別会社ってことになったんだ。それでもUSA製のオールスターは、見た目が良かったり八〇年代のオリジナルに近いこともあって、日本で人気が続いたんだよ。だから輸入販売が絶えなかったんだけど、商標権の侵害になるってことで裁判沙汰になって、結局は伊藤忠商事の独占販売が認められたんだ。そういう経緯があって、今ではコンバースジャパンが販売している製品以外のコンバースは、国内では偽物ってことになっている。なのに、今の日本のコンバースからは、〈ALL STAR LGCY〉って言う、七〇年代のオールスターに似せたモデルが生産されていたりもする。そのモデルは細部を見れば今のUSA製の〈CT70〉と違いがあるんだけど、こっちの方がオリジナルの〈CT70〉に近いと言われている。あとはUSA製の方がデザインが良いとか、クッション性があって履き心地が良いとかも言われてるけど……。とは言っても日本製の〈ALL STAR LGCY〉は普通のオールスターより高価なのもあって、履き心地はそこそこ良いんだけどね。ここまで来ると、もう何がオリジナルなのかわからないよね。でもこのオールスターは良いと思わない? 七〇年代じゃなくて八〇年代のものだけど、これはこれにしかない良さがある。今のUSA製ともまた違う良さがね。コンバースと言えばやっぱりキャンバス地のスニーカーが主で、ちょうど君が油絵に使っている布と同じ素材をアッパーに使用しているんだけどさ、このモデルは初めてアッパー素材にスムースレザーを採用したものなんだよ。経年もあって、かなり味わい深くなってて、皮素材のエロさが出てる。今から履いてもかなり格好いいし、ボロボロに履き潰したらより味が出る。このヒールラベルが大事だから踵はできるだけ減らしたくないけど、敢えてシューグーも塗らずにラベルの印字を消すぐらいの雑さで履いても良いよね。あたしだったら、うーん、ヒールはプロテクター貼って保護するかな! 迷うけど!」
情報量の暴力だった。知らない世界の緻密な内容を数分の内に浴びさせられ、自分がどうしてこんなところにいるのかわからなくなった。これではカウンセリングの意味なんてなくなるんじゃないかと疑った。結局、何を伝えたかったのかわからないけど、目の前にあるスニーカーが希少なものであることだけはなんとなく理解した。要は自慢したいのだ。この人は僕に理解を促すためにあんな早口でものを語っていたのだろうか? いや、半分以上は自己満足のためなのだろう。それならば仕方ない。施しを与えたことにしよう。
スニーカーなんてのは、きっと、典型的に記述可能な趣味体系だ。履きやすさや機能性、はたまたカジュアルなファッションとしての側面を追求したもので、従来の靴よりも量産に適している。なのに、そこに希少性すらも加えることができる。人為的にブランド的価値を付与することが可能であり、履いたり飾ったりと言った形で消費することが可能な一つの商材の体系である。そしてそのことは、別に良いことでも悪いことでもなく、ただそうしてあると言うだけの、一つの事実に過ぎない。
「それで、なんでそんな靴がここにあるんですか」
そう聞くと、山吹は勢い良くこちらを向く。しかし、僕は彼女が求めているような質問をしたのではないようで、その動きの速さに反して、応答は遅かった。
「……なんで、って。あぁ、デッサンに使ったからだよ。二か月前くらいかな。いや、忘れてたわけじゃないんだけど、この箱も結構大きいから荷物でね」
なるほど、合点が行った。山吹が会長の座を降りてからも部室に来ていたことは少し意外だったが、一人で絵を描くことは続けていたらしい。僕も昔、ローファーをモチーフにデッサンをしたことはあった。スニーカーが好きならそういった絵を描くことも不思議ではない。
「君の好きなゴッホだって、使い古された革靴の絵を残しているんだし、靴は良いモチーフだよ。コンバースはスニーカーカルチャーの先駆けみたいなところがあるし、苅谷くんも描いてみたら?」
「いや、まあ、その内……」
言葉を濁すと、山吹は眉を顰め、残念そうな顔をする。耳元の銀色のピアスが部室の青白い照明を反射させている。キャップの下、肩よりも上で切られた髪は黒く、真っすぐだ。彼女は、何か思い付いたように僅かに顔を上げると、そう言えば、と口を開けた。
「……苅谷くんは何しに部室来てたの? なんか、邪魔しちゃっててごめん」
「いや、良いですよ。どうせ何も手に付かなかったし、それに今更ですし……」
本当に今更だ、と思ったが、まあ、意義のある時間ではあった。何も書けずに時間を浪費するよりは良かったと思う。気付けば時刻は十六時を過ぎていた。擦りガラス越しに見える屋外の色味は、会話が進む度に段々と薄暗くなってきていた。次の七限までは時間があるけれど、久し振りに外に出たからか疲労が溜まっている。
「絵を描きに来たつもりだったんですよ。新勧で出すつもりのものを。けど、いざ向き合ってみると、あんまり描く気が起きなくて。春までに次の会長を決めるんだし、就活も早くしないとだし。何か描くならそろそろやらないとなって思ってはいたんですけど……事故に遭ってからは、あんまり気乗りしなくて」
しかし、それは必要ではない仕事だ。そんなのは手早く済ませて、それこそ次の代への引き継ぎについて芹野と話したり、自分の就職活動を進めたりすべきだ。絵を描くのが気乗りしない原因だって、本当はわかっている。
「なるほど、つまりスランプってことか。まぁ、そういうときはいつも通りのことをいつも通りやるか、思いきり遊んだ方が良い……って、そんな一般論は望んでないよな」
見透かしたように、山吹は耳に掛かった髪を後ろへと遣る。確かに、思いきり遊ぶと言うのは良いのかもしれない。だが、それが根本的な解決になるかと言えば、きっとそうではないだろう。それで絵が描けるようになるビジョンは見えない。気分を晴らすだけで、抱えている問題が解決するわけではない。まあ、実際にやってみて、その立場になってみなければ、実情はわからないけれど。
「君はずっと似た絵を描いていて、今もそれと似た絵を描こうとしている。けれど、いざ描こうとすると、実際に描くべき像がわからない。ここまでは合ってる?」
僕は頷く。そうだ。そして描くべき塔はわかっている。あの病室で描いた、今も机上に開いている、スケッチブックのデッサンのものだ。しかしそれだけを油彩にしても、少しも面白味がないものになると思う。キャンバスの塔は、きっと僕が使うべきものではない。それは、誰かの絵を真似ていたからと言うわけではなく、たんに、僕にはそぐわないものだからだ。これは「僕の」絵にはならない。そのことを理解している。スケッチブックの塔をトレースして、女性像を描き、油彩画にしなければならない。それだけのことが酷く難しい。
「そのキャンバスの塔は、良いモチーフだよね。君はずっとその絵を描いていた。サークルに入って暫くしてから、ずっとね。その絵が何かの真似であることに、君自身は気付いていないんじゃないかな」
背筋が伸びる。山吹は知っていた。まあ、それも当然か。山吹は僕とは違い、あの絵を描き上げて、展示物として新勧イベントに提出する芹野を見ていたはずだ。僕が描いたものは、彼女の絵を完璧に真似したものというわけではなかったが、きっと無意識に、あの絵に散りばめられた要素を自分の作風に落とし込んだものだ。絵についての造詣が深ければ、それが芹野の絵のオマージュに近しいものであることはわかるはずである。山吹からすれば、そんなのは明々白々なのだろう。
「……まあ、事故の後に知りましたけどね。芹野と話して、あいつのものだったって」
無意識の内に一つのモチーフに拘り、絵の量産をしていた。そのことは情けないが、もうしてしまったことだ。きっと一生掛かっても忘れられないけれど、それだけ重大だったのだ。記憶の保存。過去の作品化。そう喩えれば聞こえは良いが、僕が僕の人生のために、芹野の作品を利用したという事実は動かない。
「そうか……。でも君が塔を描いていたのは、彼女の絵に対して、いや、それを超えた、モチーフ自体やそこから連想されるものに対しての——リスペクトがあったからでは? それは、否定されるべきものじゃない」
違う。……それは間違いなのだ。作品への信仰を大事にしておきながら、識域下では、引用の域を超えるような、盗作めいた行動を取るなんて、それはとんでもない自己矛盾だ。——しかしその矛盾こそが、僕の抱える命題の正体だ。周囲を、いや、自分をこそ騙して、モラトリアムの中でずっと解きえないパラドックスを傍観している。自分の人生を見ている、自分自身を騙している。自分の人生に審判を下すのは、他ならぬ自分自身だから。だからそれを騙す。騙せている内は、宙ぶらりんでいられるから。何事にも結論を付けずにいれば、いかようにもなれると錯覚しているから。実際のところ、それは、自身の可能性をどんどん狭めて、自分の首を絞めているだけに過ぎないのに。
「そう、でしょうね。ちょうど、塔に人を幽閉するのと同じなんですよ。そこで待っていれば良いように。そして、事実としてそれは間違っていない。変わらずに、どこにも行かずにいられるなら、それで良いんだと思っている。美しいものは傍に置いておきたくなる。でも、そうやって動かずにいたら、心はどんどん醜くなる。何かに拘って、視野角を変えてみて、一つを深く知った気でいても、結局何も産み出せない。中身を知らず、応用の仕方もわからないから。だから、新しいものが、オリジナルが産み出せない」
酷く納得の行く答えだ。我ながら。動こうとしなければ、一つ所に留まっている意味はない。何かに執着してその場所にいるのなら、そこでしか学べないものをインストールして、それを用いた表現をして、どこまでも遠くへと、伝えようとするべきなのだ。それが本来なのだ。動かずにいるものは、忽ち腐敗し、無価値になる。無価値になるのを待っている。それが僕だ。それは荒療治では治すことのできない病であり、そしてたった一つの、過去をなかったことにするための方法なのだろう。
「僕は、傍観者でいたいんです。俯瞰をしたくない。皆がメタ的な思考でものを見て、判断するなら、僕はそれよりも下にいたい。と言うか、上とか下とか、そんな下らないものは超えていたいんですよ。僕は何か、判断によって裁かれる対象で良い。傲慢な思考かもしれないけれど、それが許されるのなら、それで構わないんです」
何を言っているのだろうか。こんな、逃げるような言葉で、僕は何を伝えて、どうして貰いたいのか。自分が自分でわからない。それで良いと思う自分が嫌でならないのに、それでも良いと感じて、結局は、動けない。
「同じことじゃないか」
受けた言葉の意味を、僕は飲み込めなかった。その真意を聞くよりも前に、山吹は抱えていた箱の蓋を閉じて、それを僕に押し付けてくる。行動の理由がわからなかったが、顔を上げると、彼女は顎を僅かに動かした。その動きによって、やっと理解した。
「そのオールスター、君にあげるよ。……あー、一応聞くけど、足のサイズは?」
間髪入れずに言葉を紡がれる。しかし素直に受け取るには、僕はこの靴に関する情報を知り過ぎた。
「いや、そんな、受け取れませんよ。高いんでしょ、これ」
そう言って拒否するが、山吹は「うーん、言い値になるけど五万は下らないかもね」と早口でぼそぼそと言い、それからサイズを言うよう、再度僕に促した。
「……確か、二十七センチですけど」
サイズが合わなければ受け取らなくて済む理由になると思った。それで、観念して素直に伝えたのだが、あぁ、と相槌を打つ山吹を見て、僕は意味のない期待を抱いていたのだと知る。
「その靴はUS10、つまり十インチだから、二十八センチと言うことになる。でも、コンバースはピッタリ履くよりもデカ履きが格好良いとされているし、シューレースを締めれば余裕で履けるね」
受け取る流れがどんどん確固たる形になって行く。僕は流れを打ち壊す言葉を模索するものの、否定的な言葉を浮かべたところで、丁重に断るための返答として構築できる気がしない。
「いや、こういうのって価値のわかる人が履くべきと言うか、持っているべきなんじゃないですか。それになんか、受け取ってばかりな気がして、なんか嫌です」
たじろぐ僕に、山吹は軽快な笑いを溢す。
「散々受動的なことを言ってきて、今更そんな断り方しても全然格好良くないよ。古い靴は気に入らない?」
正直に言えば、悪くないとは思う。僕はスニーカーについて詳しくはないが、パッと見てレザーの質感や色味が評価に値するものであることは理解した。普通、赤色は目立つが、この靴の赤色は落ち着いて見える。奇抜な服装で合わせる必要はなさそうだし、今着ているモノトーンの服にも合うだろう。
「あたしはそのサイズ、持っていても履けないんだよ。売りに出そうかとも思ったんだけどね、それでまたコレクション行きになるぐらいなら、誰かに履かれていて欲しい。靴って言うのはさ、やっぱり履かれるためにあるべきなんだ。スニーカーは経年劣化するし、株としての価値は不安定で、趣味としてコレクションするのに良い媒体とは言えない。まぁ、それが堪らなくもあるんだけどね。それでもこの靴は、誰かに履かれて欲しいと思う。君はこの靴が本物であるとか偽物であるとか、そんなことにすら頓着がないんだろうけど、それくらいで丁度良いんだ。それにあたしは、オールスターはもう一足持ってるしね」
僕はすんなりと納得させられてしまう。貰ってばかりが嫌なのは本当だったが、そのように言われてしまえば、ありがたく受け取るのが正しいように思えた。実際、格好良い靴が手に入るのは嬉しいのかもしれない。
「わかりました。でも少しは払わせて欲しいです。……五万は手持ちがないですけど、せめて、あの、一万だけでも……、」
苦し紛れにそう言うと、山吹は、けんもほろろと言った様子で、「いらないよ」と一蹴した。
「どうしても対価を払わないと気が済まないなら、そのキャンバスの塔を早く完成させてよ。どうせ、展示には出さないんでしょ? あとで貰ってくから。あたしはそれで構わないよ」
イーゼルに立て掛けてある塔の下書きには、後から人物を描くための空白部分があった。その部分を埋めて油彩画にするのは別に難しいことではない。塔を描くのに、あの少女像は必要ではない。
「まあ、塔だけの絵なら。一週間……いや、数日あれば描けると思いますけど」
「じゃあ、それで決まり。君の履いてるバンズのスリッポンもボロボロで良いけど、オールスターも似合うはずだからさ。どう履こうと君次第だよ。気に入らないものがあれば、その靴を履いてキックしてやればいい」
その台詞が何を意味しているのか、良くわからなくて、少し当惑する。何かの隠語かと思ったが、付け加えられた「いや、それは意味わかんないな」と言う言葉に、結局のところ大した思惑は込められていなかったのだと判断する。僕は乾いた笑いを溢して、額面通りに受け取ることにした。山吹は逡巡するような仕草を見せていたが、何か意を決したような表情をして、僅かに頷く。
「実を言うとね、この塔の絵は、あたしのデッサンから来ているんだよ」
その唐突な言葉に、僕は声が出なかった。どういう意味で言っているのだろうか。僕は想像する。思考の輪郭をなぞるかのように、過去にあったのであろう事象を、山吹は言葉に起こす。
「沙紀ちゃんはあたしの絵を見て、これをオマージュして良いかって聞いてきたんだ。あたしはそれを快く受け入れて、油絵の描き方を教えた。彼女は水彩しか書いていなかったし、この塔は油彩の方が似合うと思ったからね。彼女はその絵に、自分なりの想いを込めていた。それを知らずして、君は更にこの塔を自分のものにしようとした。自分の油絵に取り入れた。初めにあたしが塔を描いたのは、たんにピサの斜塔からインスピレーションを受けてのことだったけど、それでも美しいものが描きたいと言う思いはあった。それが何故かこうして、形を変えて受け継がれている。サークルってそういうものだと思うんだ。考えていることはそれぞれ違っても、ものを見る角度が違っても、何か同じような目的に向かって行ける」
確かに、思いもしなかった。けれども今、合点が行った。同じ血は通っていないし、考えを話しても完全には伝わらないのかもしれない。それでも時に、繋がって行くものがある。目に映るものかもしれないし、映らないものかもしれない。しかしどうあれ、それ自体は、向かうべき所になりうる。
「オリジナルなんてものはさ、別に元から大したものじゃないのかもしれない。けど、そう思うなら超えて行けよ。それで作られたものが、偽物と評されようと、本物と評されようと別に構わない。どんなに貶そうと、どんなに賛美しようと、全ての事象はなかったことにはならないんだから」
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