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あ、なんだ別れただけか。じゃあやっぱり喧嘩したわけじゃないのね良かった良かった。
「ってなんでやねんッ」
さすがにそれは冗談にしても笑えねーぜという思いでツッコんだら、橙里の顔は冗談言ってるそれじゃなかった。
「え? なに? マジなの?」
「マジだよ。二週間くらい前に……やっぱりあさぎも言ってなかったか」
頭真っ白とはこのことである。がんばって脳みそ働かせようとしても言いたいこと聞きたいことがバラバラになってちっとも一つにまとまらない。
どうしていいか分かんなくなって、とりあえずウインナーを齧ってしまう。程よいしょっぱさが口の中に広がって、ちょっとだけ気持ちが落ち着いた。ちょっとだけ。
「なんで? どっちからそれ言ったの?」
「んー、別れようって言ったのは俺の方、だな」
なんか引っかかる言い方。
「その言い方だとさ、別れる原因はあさぎの方、みたいに聞こえるんだけど」
まあ、そうなるかなぁ、と困ったように眉根を寄せる橙里。
「じゃあ原因はなに? 橙里が別れを切り出すようなさ、どんなことをあの子がするっての? 想像つかないんだけど。つーかそれ以前に、なんで別れたこと言ってくんなかったの?」
うーん、と唸ってらしからぬ歯切れの悪さ。なんだい。あたしには言えないってのかい。
「まあ簡単に言うと…………いや、違うな。簡単に説明できないなこれ」
ちょっと待ってよ。なになに。あの子マジでなにしたの。なにしでかしたの。
「もとを正せば俺が悪いんだろうけどな。あさぎのいないところで俺が全部を話すのは違う気がするし、すまん。後であさぎに聞いてくれ」
納得なんかできるわけないけど、しかたなく分かったと返事をして料理の残りを口に放り込む。正直なんかもう、頭ン中がぐちゃぐちゃもやもやでせっかくの橙里の料理を味わう余裕なんてないのに、ちゃんとおいしいと感じる自分の舌が妙に憎らしい。空気読めっての。
あたしに内緒にしようとしてたわけじゃないのは分かる。多分あさぎの口から言うべきだと判断して、橙里は黙ってたんだろうと思う。なのに、あさぎがなにも言ってこないってことはつまり、あの子はあたしに言えないようなことを橙里にしたってわけかい。
「ごちそうさん」と低い声が聞こえた。
橙里が返事をしていそいそとレジへ向かう。先に来ていたお客さんが帰るらしい。「上達したね」とか「もうマスターよりうまいんじゃない?」とか、橙里もまんざらでもなさそうに「いえいえ」なんて返す。常連さんとのそんなやり取りを聞きながら、本当は楽しい時間になるはずだったモーニングを食べ終える。
今日は夏休み初日だぜ? 世の男子小学生が白のランニングシャツに半ズボン姿で虫取り網持って駆け出す日だぜ? そんな記念すべき日にどうしてあたしは親友カップルの破局を聞かされながら朝飯食ってんだ。いや、橙里に対する文句じゃないよ? 橙里はあたしの質問に答えたようなもんなんだから。でもさぁ、なんだかなぁ。どうしたもんかなぁ。
ともやもやしていると橙里が戻ってきた。
「悪かったな。せっかく来てくれたのに」
「え? いや、さっきの常連さんでしょ? 別になんも」
謝られることじゃないよ、と思ったら何故か橙里がくっと苦笑した。
「違うよ。あさぎのことだよ」
「あ? あ、ああ。うん、まあ、ねぇ。ホントにどうしてくれんだよ。せっかくうまい飯食いに来たってのによ」
「お詫びにモーニングは奢りにしとくよ」
「いえーい」
いえーいとは行かない我が心境よ。
「悪いついでに、今日じゃなくてもいいからあさぎんとこ行ってやってくれないか? 多分、櫻子じゃないとダメだと思う」
「お、おう。や、今日行くよ。別に予定ないし」
つーか今から行くか? そうするか? その方がいいよね。思い立ったら吉日だ。ちっとも吉じゃないけど。
「コーヒー、後でいいや。今からあさぎん家行ってくる。終わったら戻ってくっから」
「そうか。分かった。任せるよ」
言って、橙里は笑顔のような泣き顔のような表情を浮かべる。
じゃ、行ってきますと店を出て、真夏の太陽に焼かれてすっかり熱くなったサドルにまたがる。ケツあっちい。
ラインであさぎに「今から行くから」とだけ送信。
あさぎん家はあたしん家からそんな離れてないけど、向かってる間にまた汗かくだろうからいったん家で首から下だけシャワーを浴びよう。
なんだかとても嫌な展開になりそうなことを予感しながら、ママチャリを漕ぐあたしであった。
あたしの勘ってあんまり当たんないんだけどね。
呼び鈴を鳴らして少し待つと「はーい」と中から声が聞こえて、ドアが開いた。
顔を出したのは町内のおじさんおじいさん方から絶大な人気を誇る美熟女だった。
「おはよ、みどりさん」
早い話があさぎのお母さんである。まあホント何回見てもきれいよね。
「ああ、おはよ。どしたん」
「あさぎいる? ちょっと話したいんだけど」
言うと、みどりさんの顔がわずかに曇った。
「あの子、やっぱりなんかあった? 最近ずっと部屋にこもってんだけど。もしかして、橙里くんと別れたとか?」
「あー、やー、うん。そうみたい。あたしもさっき橙里本人に聞いてさ。そんで来たの」
「あぁそう。わたしが聞いても「なんでもない」しか言わないから……そういうことね。じゃあどうぞ」
中に入って二階に上がる。子供の頃から何度も上り下りした階段なのに、こんなに一段一段が重たく感じるのは今日が初めてだ。
あさぎの部屋の前。耳を澄ましても物音は聞こえない。ラインしてるし、みどりさんとの話し声もある程度は聞こえてるだろうからあたしが来たことは分かってるだろうけど。
ノックしてもしもし。返事はない。
「あさぎ? 入るよ? ダメっつってもあたしゃ入るよ」
言ってからドアを開けると、あさぎはベッドの端に腰を掛けて座ってた。
「おひさ」
と言うと「うん」とか細い声が返ってきた。
「用件は分かってんでしょ。詳しく聞かせてもらおうじゃねえのよ」
ちらっと上目でこちらを見るあさぎ。相手の機嫌や表情を窺う昔からのクセ。最近は見なくなっていい傾向だと思ってたけど、復活しちゃったか。
いつも俯きがちで自分の意見を主張することが苦手。人と衝突することを極度に怖がって決定権を他人に委ねることを良しとする。だからこの子は他人が持つ怒りや嫌悪、失望の感情を避けるために他人を観察する。でも見てることがバレたり目が合ったりするのが嫌だから上目遣いでチラチラ見る。
そんなだからどうしても周囲から「根暗」ってイメージを持たれがちだし、友達も少ない。みどりさんをそのまんま若くしたような美少女なのにあまりモテないのもそういうこと。逆に橙里と付き合い始めてからの方がモテるようになったぐらいだ。
俯いたま動かないあさぎの前にあぐらをかいて座る。
「さっき橙里んとこで朝ごはん食べてきてさ。したらあんたと別れた、なんて言われてあたしゃびっくりよ。ただね、別れた理由を橙里は教えてくんなかったの――あんたに聞けってさ」
言うと、あさぎの小さい肩がきゅっとすぼまった。言いたくないってか? 言わせるけどね。
「橙里はね、別れを切り出したのは自分の方だけど、もとを正せば自分が悪いって言っててさ。あたしにはなにがどうしてそうなったのか想像がつかないわけよ。あんたと橙里を引き合わせたのはあたしなんだからさ。あたしなりに責任だって感じてんの。だから、できる範囲でいいから説明してほしいの」
あまり強い言い方をするとこの子は自分の殻に閉じこもってしまう。極力、感情を抑えて話を聞く姿勢を見せないと。
そう思いながらじっと見ていると、俯いたまま動かなかったあさぎが、少しの沈黙の後に深く息を吐いた。
「あ、あの……ヒデオくん、覚えてる?」
か細い声で言ったあさぎの言葉に、一瞬戸惑ってしまう。ヒデオ? どこのヒデオ? 知り合いにそんなの…………いたわ。
「富永ヒデオか……あー、うん、覚えてる。ってか今思い出した」
小学生の頃はあんまり交流なかったし、クラスで一緒になったのも一、二回だったから印象が薄い。顔もぼんやりとしか覚えてない。
「で、そのヒデオがどした」
「前に一人で外歩いてたら、声掛けられて」
うん、と相槌を打って続きを促す。
「立ち話してたらせっかくだからって連絡先聞かれて、時々ラインとか来るようになって」
「……うん」
待って。待って待って。話せって言っといてなんだけど、もう聞きたくなくなってきてる。
「わたし、男友達とかいないから……と、橙里くんのこととかいろいろ相談するようになって」
胸のあたりがそわそわしてきた。その流れって絶対ダメな奴じゃん。
「そのうち向こうから、どうせだったら会って話そうとか言われるようになって」
「実際、会ったりはしてないんだよね?」
ほとんど願望。会ってないって言ってほしいだけ。でもダメだ。この子の性格は分かってる。分かってるから、嫌な予感しかしないんだ。
「…………ごめん」
そう言ったあさぎの手が、膝の上で小さく震えてる。きっと今からあたしに怒られることを想像してる。それはつまり、富永ヒデオとはただ会っただけで終わってないってことだよね。
ヒデオがあさぎの性格を把握してたかどうかは知らないけど、あさぎのことだ。ヒデオから強めに迫られて、断り切れずにってところだろう。昔のままのあさぎだったらあいつも興味持つこともなかったかもだけど、この子ホントにキレイになったから。それが仇になってしまったんだろうか。
「一つ、聞いていい?」
「…………うん」
上ずった返事。十年来の親友に対して出す声かよそれが。
「なんか橙里に不満あったの? そりゃさ、あいつだって完璧超人じゃないんだから小さい不満の一つや二つはあってもおかしくないけどさ。橙里のことを知りもしない奴に相談しなきゃなんないような不満が、なんかあったの?」
その辺りが釈然としない。自惚れるわけじゃないけど、それを相談するとしたらあたしだろうによ。
「あ、あの……えと、と、橙里くん、ホントはわたしのことそんなに好きじゃないのかなって」
「はあッ?」
びくん、とあさぎの肩が跳ねた。しまった。思わず大きな声が出ちゃった。だっていくらなんでもそれは、やで。
「ごめん。いや、あのさ。なんでそうなるわけ? 橙里が好きでもない女と付き合うような奴だと思ってるってこと?」
「橙里くん、あまりわたしに要求してこない人だったから……」
「よ、要求? なにを」
え? お金?
あ、体の話? え?
困ってたらあさぎがパッと顔を上げた。
「あ、変な意味じゃなくて、えと、たとえば、えっと、こんな服装してほしい、とかこんな髪型がいい、とかそういうの」
「……ああ、なる。つまり橙里があんたのことを自分好みの女にしようとしなかったってこと? あんたそういう男の方が良かったの?」
かなり強めに首を横に振った。違うらしい。
「最初はちゃんと
「あのさぁ、う~ん……気持ちは分からんでもないけど」
そっかぁ……橙里が言ってた「もとを正せば俺が悪い」ってそういうことか。橙里も少し言葉足らずだったのかねぇ。知らんけど。
しかし不安になるのはいいとして、だからってなんでヒデオとかいうよく分からん奴に行くかね。や、分かるよ。あさぎは断れない性格なんだ。昔からそう。本人はがんばって断ろうとしてもぐいぐい来られるとなにも言えなくなって、結局相手の言いなりになるしかなくなる。抵抗が抵抗になってないから、ヒデオも本気で嫌がってないって思ったんだろうな。だから向こうは無理やりしたつもりなんかなくて、完全な合意だと思ってる。
そうしたら後は、
「うーん」
無意識に声が出た。あさぎが恐る恐るってなぐあいで上目遣いに見てくる。
なーんか違和感があるんだよなぁ。や、橙里はあさぎの浮気知ってそりゃショックだったと思うよ。でもさぁ、浮気されたから別れるって、あの橙里がなるかなぁって。別に三年目の浮気くらい許せ! とか言ってるわけちゃうよ。親友に聖人君子たるを望むほど世間知らずのつもりはないし。でも、でもだよ。橙里がいきなりそんな判断になるかなぁって、どうしてもあたしは思ってしまうわけよ。
「あさぎさぁ……あんた、なんか他にあるんじゃないの?」
きゅっ、とあさぎの体が縮こまった。分かりやすすぎだろその反応。
「それってあたしには言えないこと? それとも言わなきゃいけないけど言い出せないこと?」
前者なら無理には聞かない。でも後者ならちゃんと話してもらう。
あさぎは下向いたままなにも言わない。じれったくはあってもあたしは催促せずに待つ。
何度か口を開いたり閉じたり、こっちをちらっと見たり見なかったり。がんばってなにか言おうとしてるのは分かる。今この子は自分の中の葛藤と戦っているのだ。それを邪魔しちゃいけない。このタイミングであたしがアクションしたら、あさぎはまた口をつぐんでしまう。
「コ――――っ」
……コ?
「コンドーム、が、き、切れちゃっててっ」
「へえ?」
唐突な告白に思わず間の抜けた声が出てしまった。
な、なんでいきなりコンドーム? え? えっちな話?
「わた、しはだめって言ったんだけ、ど……その……い、い、一回だけって言われて、その……一回、だけ」
なに? なに言ってんのこの子。コンドームが切れてて、えっと、それってエッチの話だよね。そりゃナマはだめだよ。ちゃんとコンドーム付けなきゃ、妊娠なんてしちゃったら大変。あたしらまだ高校生なんだから。だけどこの子は一回だけってせがまれて、例のごとく押し切られてしちゃったわけね。男の一回だけ~は信じちゃだめよ。その一回を許しちゃったら絶対調子乗るから。
いや待て。
待て待て待て待て。ちょっと待ってっ。
「ご、ごめん、あさぎ。一個聞いてもいい? あんた、妊娠、とかしてないよね?」
否定してほしいって思ったけど、あさぎの顔がはっきりぐっとこわばった。もうそれ答えじゃん。もうそれ、答えじゃん。
あまりのショックに両手で顔を覆ったら、勝手にため息が出た。こんな深いため息、これまでの人生で吐いたことがあっただろうか。ため息と一緒に体が床に沈み込んでしまいそうなくらいだ。
「病院、産婦人科とか言ったの? 検査キットで調べただけ? あんたが勝手にデキたって思い込んで」
「二ヶ月って言われた……」
あ、そうですか。
マジなんですか。
マジかぁ…………。
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