箱
風呂やらなにやらを済ませて、布団に入ったのは日を跨いだ頃合いだった。
私たち家族の寝室では、母と妹が既に眠りに就いていた。やはり大層疲れていたらしく、物音を立ててもぐっすりだった。
父はまだやることがあると言って、叔父と共に下で忙しなく動き回っている。
私は押し入れに近い、一番端の布団に入った。
布団に入ったは良いものの、なんとなく寝つけなかった。天井の染みが目に入り、それをなんとなく気にしてしまう程度には頭が働いていた。
ふと、叔父の話と祖父の姿を思い返した。私の中の祖父は、最後に会った二年前のまま止まっていた。物静かで、厳格で、何事にも動じない力強い人間だった記憶しかない。
そんな祖父が、人生の終わりを前にして一体何に怯えていたのか。私には分からなかった。
怯える…。
いや、祖父の怯えた表情を私は見たことがある。そう、押し入れの中の黒光りする大きな箱だ。祖父は、あれに怯えていた。今、私のすぐ隣、雉が描かれた襖を隔ててそこにある黒い箱に。
鼓動が速まるのを感じた。あの祖父が怯える代物が、今私のすぐそこにある。そう考えただけで手が震えた。
しかし人間の心理とは不思議なもので、恐怖以上に好奇心が勝っていた。「中身を知りたい」という欲求が、私の手を襖の引手に走らせた。時間にして一瞬の行動、しかしその時の私には異常に長く感じられた。
ゆっくりと襖を開く。古いからか、所々で引っ掛かってしまう。少し力を入れて強引に開けた。物音がしたが、母と妹が目覚めることはなかった。
橙色のぼんやりとした常夜灯の明かりを頼りに押し入れの中を探り、箱をゆっくりと引き摺り出した。
何かしらの木箱をペンキで真っ黒に塗ったような質感がした。
手元に寄せると、その黒さが増して見えた。明かりが吸い込まれてしまうようにも思える黒さだ。縦一メートル、横五十センチメートル、高さ四十センチメートルほどの真っ黒な箱。蓋には鍵が掛かっているが、ピンを抜けば開く仕組みになっていた。
私は深呼吸した。震える手でピンを掴み、スッと抜くと、箱が少しガコッという音を立てた。
これであとは開くだけだ。
恐怖はもはやなかった。ただ、そこに何があるかを確かめたいという思いだけが私の背中を押した。
手を掛け、力を入れると、蓋は難なく開いた。蓋を横に置き、中を覗き込む。しかし常夜灯程度の明るさではよく見えない。そこで私はスマホの電灯を点けて、再び箱を覗き込んだ。
そこには、カモシカの頭骨があった。箱にぴったりと収まっていた。
私は息を呑んだ。
白はくすんで茶色じみていた。相当年季が入っていると思われた。角が黒黒としていた。
電灯で箱の奥をよく照らしてみた。すると、劣化して錆色になった紙片があるのが見えた。
それを取り出すには、一度頭骨を箱から出す必要があった。私は下顎の先端と角の後辺りに手を回し、そっと持ち上げた。思ったよりも軽い。
取り出した頭骨は箱の脇に置いた。まだ張り替えたばかりで青い畳の上に、年季の入ったカモシカの頭骨か乗っているのは実に奇妙な光景だった。
紙片は、大体四センチ四方位の和紙だった。
そこには細い筆で「正治」と書いてあった。祖父の名だ。
黒い箱、カモシカの頭骨、祖父の名が書かれた和紙。これらが何を表すのか、私には全く分からなかった。
私はこれらを一度仕舞った。流石に頭骨を枕元に置いて寝るのは気味が悪い。
時刻は一時を過ぎていた。
「寝られるかな」
と思ったが、それは杞憂だった。移動の疲れが思ったよりも溜まっていたらしく、私はすんなりと眠りに落ちた。
夢の中で、幼い私は父親と共に大堤の畔に腰かけていた。手には釣り竿が握られていて、水面には細長い浮きがある。
私の浮きがスッと沈む。腕全体で竿を煽って合わせを入れるが、魚は掛からない。
父の方を見る。父も釣れていない。ただ静かに水面の浮きを眺めている。
「釣れないよ」
私は父に言う。
「釣れなくていい」
父が私に言う。
「釣れると、おじいちゃんみたいになる」
対岸に一頭のカモシカが現れた。ただこちらを見ている。
じっと、じっと。
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